五
自分に近づいてくる『お父さん』に、向かい合った。
「……どうして!」
亜矢は、わめく。
彼女には、わからなかった。
「どうして、逃げてくれないの!」
悪いのは、自分なのに。
罰を受けるのは、自分のはずなのに。
「亜矢、逃げるんだ」
父親は、自分を見て、優しくそう言った。
それは――命懸けで、娘を守ろうとする父親の姿だった。
その父親に向かって、『お父さん』は大きく手を振り上げた。
「――ねえ、どうして!」
どうして、そこまでして、自分を守ろうとするの!
絶叫をともなった、問い掛けに、
「それが、父親ってもんじゃあないの?」
少女の声が、それに答えた。
強い風が、吹きぬけた。
◇
突き抜けたのは、弾丸だったのか。
一瞬、状況がわからない。
地面に倒れ伏した『お父さん』。
そのとなりに、ひとりの少女が立っていた。
腰までの白い外套をまとい、左右に縛った髪に、小さな長方形を並べた髪飾り。巫女や神主が手に持つ錫杖に、くくる紙の形に似ていた。
愛くるしい顔に、どこかふてぶてしい、頼もしさを彩った少女が――そこにいた。
「……あ、あ」
それは、ひと月ほど前。
旧校舎で助けてくれた、ひとりの少女だった。
「危ないところだったな、嬢ちゃん」
下から声。
見ると、黄金の毛並みの子猫が、ヒトの言葉で話しかけてきた。もう驚かない。
その猫にも、見覚えがあった。
「亮介、その人は大丈夫?」
少女――言織は、亜矢から顔を背けた。肩越しに、亜矢の父親を見る。
その先では、父親の身体を、ひとりの青年が抱きかかえていた。ほっそりとした、眼鏡をかけた優しそうな青年。
彼には、見覚えがなかった。
「うん、大丈夫だ」
亮介と呼ばれた青年は、大きく頷いた。父親の胸のあたりを、さすっている。よく見れば、薄くぼんやりと光っていた。
アニメで見た、回復魔法みたいな光景だった。
「命に別状はないよ。まあ、後できちんと病院で診てもらう必要はあるけどね」
「まあ、一般人に蒼の多用はきっついからね」
「……貴方達は?」
亜矢の父親が訊いた。
「まあ、正義の味方ってところかな」
言織がひょうひょうと答えて、
「ただの傀儡か」
うずくまる『お父さん』を見た。少しだけ、口調が凍る。
「後腐れなくて、いいね。んじゃ、さっさと終わろうか」
左手を、ひるがえした。そこに現れたのは、何枚かの小銭。形状は、五円玉に似ていた。 六紋銭。
言織が扱う、道具の名前。
「……ぐ、ぐうああああっ!」
起き上がった『お父さん』が、獣のような声を上げて――言織に襲い掛かった。
亜矢と父親が、身体をこわばらせる。
ふたりだけが、顔色を変えた。
言織は、きっと顔色も変えずに。
あっさりと、終わらせた。
◇
まぶしい光が広がって、消えた。
亜矢が目を開くと、言織が何かを拾い上げるところだった。
『お父さん』が消えて、代わりに転がったヒト型。亜矢が赤いペンで『お父さん』と書き込んだ紙は、少し焦げていた。
「……あ、あの」
うまく言葉が出てこない亜矢。
「どうも、ありがとうございました」
その向こうで、父親が亮輔と言織――ロクスケにも、お礼を言っていた。
「助かりました。何か、お礼を」
「いえ、別に」
亮介は頭を振った。
「そういうわけには」
父親は、食い下がる。命の恩人だ。当然かもしれない。
「んー、どうするよ? 亮輔」
言織が困ったように、亮輔を見た。
「……そう言われてもなあ」
救いを求めて、ロクスケを――
ロクスケに、言葉を投げかけようとした。
すでに、足元に子猫はいなかった。
「あーっ!」
ある一点を指さして、声を上げる言織。
塀の上を、軽やかに駆けていく後姿。
面倒なので、後は任せた。
そんな感じで、さっさと現場放棄していやがった。
「ロクスケっ! てめえーっ」
「にゃーおう」
白々しく猫鳴き声で、疾走していく。
言織は走りだし、
「まあ、そういうことで」
亮輔は軽く頭を下げると、一匹とひとりを追いかけて行った。
取り残された亜矢と父親。
少しの間、半ば茫然と言織達を見送った。
亜矢は、遠慮がちに父親に近付いていく。
「……お父さん」
「大丈夫か?」
「……うん」
自分こそ痛いだろうに、そんな言葉を投げかけてくる父親。亜矢は、胸が熱くなった。
「ごめんなさい、お父さん」
「いいさ」
父親は小さく微笑むと、亜矢の頭を優しく撫でた。
――その光景を、ずっと遠くから見ている影があった。
ヒトの流れが戻っていく、駅前。
彼女が使った人払い――人間の意識に働きかけて、一定の場所を避ける術が、もう切れていたからだ。
亜矢の父親は、様子のおかしい娘の後をつけていた。そして、娘を想う強い気持ちで、その術を破っていたのだ。
「ふうん」
少し高い、ビルの天井。常人では、決して見えない遠くの距離を、彼女の赤い瞳は殺していた。
興醒めとも、興味深いとも、あいまいな声音。
「こういう結果ね」
黒ずんだセーラー服。肩までかかる長い黒髪。
その少女は、独りごちた。
それから、何かに気づいたように首を動かす。身体をひるがえす。
次の瞬間、その姿は幻だったように掻き消えていた。
――少ししてから。
「……また、逃げられた」
少女がいた場所に、ひとりの少年が立っていた。
右目を、垂らした黒髪で隠した、少女のような少年――景。後ろには、宵崎も一緒だった。
悔しそうに、つぶやいたけれども、
「…………」
しゃがみこんで足元を、指で探ってみた。
すると、その指に、黒いもやのようなものがこびりついた。
「……残滓」
少しだけ、微笑む。
それは、彼女の妖気の残り香だった。
ほんの些細な、かすかな染み。けれども、景は見逃さなかった。
「――次は、逃がさないよ」