一
「ねえ、欲しくない?」
赤い瞳の少女は、怪しげに笑う。
差し出してくるのは、人型の紙。異様に真黒く、どこか禍々しい。
けれども、それが――
今、彼女にとってはこの上もなく、至上に思えた。
思えてならなかった。
凶の少女の、甘い声。それが、とても心地いい。
笹原亜矢は、その声に誘われて――手を伸ばす。
「欲しいでしょう?」
伸ばしてしまう。
「理想のお父さん、欲しいでしょう?」
そうして、少女の差し出すものを、受け取ってしまった。
◇
とある放課後。
杉本翔太が通う小学校。
彼は、とある事件をきっかけに仲良くなった久保田正志と、笹原亜矢と一緒に廊下を歩いていた。
ちなみに、同じくその事件の折、亜矢と接近するきっかけもあったのだが――翔太自身が奥手なこともあって、関係は現状維持である。
歩いていくと――廊下で、群れる女子がいた。ひときわ華やかな女の子に、何人かの女の子が群がっている。
何やら楽しそうに話していて、輪の中心にいた女の子が、翔太達――いや、亜矢の姿に気が付いた。
「笹原さん、こんにちは」
「あー、ん。どうも」
微妙に顔色が変わったのは、翔太の気のせいだったのか。
「今日も杉本君と一緒? うらやましいわね」
「まーねえ。そっちは、何なの? なんだか、楽しそうだけどね」
「別に? ただ、今度の日曜日に、わたしのヴァイオリン発表会があることで、ちょっとね」
「さいですかー」
「パパも、応援に来てくれるの? 笹原さんも、どう?」
「ごめんね、わたし。そういうの、よくわかんないわー」
何だろう。
「…………」
横で聞いていて、見えないトゲトゲの応酬を感じる翔太だった。
「なあ、行こうぜ」
正志が、助け船を出す。
「あ、そうだね。それじゃあ」
亜矢は手を振って、心なしか早足で歩きだす。
「亜矢ちゃん、今のは……」
振り返りながら、気遣うように翔太が訊ねた。
「四組の須藤朱里」
亜矢は、言った。明らかに、不機嫌そうだった。
「去年、同じクラスだったんだけど……びみょーに、わたしに突っかかってくるんだよね」 苦虫をつぶした感じで、つぶやく。
「ったく、何がヴァイ・オ・リ・ンだっての。上流気取りやがってさー」
「ふーん」
正志は、相づちを打った。
「金持ちなのか」
「多分ね」
「いいなー、きっとカード買い放題だろうなー。レアカード、たくさん持ってるんだろうな」
「正志君……ちょっとそれは違うと思う」
割と本気でうらやましがる正志に、翔太は突っ込んだ。
◇
「それじゃあねー」
「おう」
「また明日」
帰り道、亜矢はふたりと別れる。
独りになると、よみがえってきた。
朱里の、言葉。
自慢げに話してた姿に、イライラしてきた。
(パパだって? ファザコンなんじゃないの!)
あれは、あきらかに自分に喧嘩を売っていた。
思い出す。
三年生の運動会の時。
自分は、父親が突然これなくなった。
約束していたのに。急な仕事だった。そのよこで、朱里は家族三人ではしゃいでいた。被害妄想じゃない。確かに、こちらを意識していた。
母親に、文句を言っていた自分を見て――にやりと笑いやがった。
忘れるもんか。
それからだ。
ことあるごとに、聞こえよがしに父親の話題をしてくるようになった。
やれ何々を買ってもらっただの。やれ、どこどこに連れて行ってくれただの。
見た目は可愛いし、華もあるので、それなりに人気者だった。
三年、四年と二年間同じクラスだったので、本当に――ずいぶんと不愉快な思いをさせられたものだ。
何かと自分に、突っかかってきていた。向こうが勝手にライバル意識を持っていたんだろう。迷惑な話だ。
勉強も運動も、自分が少し上だったので――そこが、弱点だと思ったに違いない。
だから、五年生になって別々になった時は、心底ほっとした。
――それなのに。
(あーっ、ほんとイライラするわね)
ひとり、いきり立つ。
もっとも、それも、家が近付くにつれて収まってきた。
来週の日曜日。
家族で、テーマパークに行くのだ。
大きな仕事が片付いたとかで、父親の予定も落ち着いていた。家族で――と、いうより父親とお出かけ。ずいぶんと、ひさしぶりだ。
とても、とっても楽しみだ。
うんと甘えよう。うんと楽しもう。
人のことは、言えない。
亜矢自身、十分にファザコンだった。
◇
夜。
八時前に、父親が帰ってきた。
自分の部屋で漫画を読んでいた亜矢は、玄関の方からの声に気が付いて、顔をあげる。階段を駆け下りて、「おかえりー」と出迎える。
「……ああ、ただいま」
疲れた顔で、微笑む父親。亜矢は、カバンを受け取った。夕食の支度をしていた母親が、台所から顔を出す。
「おかえりなさい」
「ただいま」
父親は母親にもあいさつを返して、靴を脱いだ。
それから、お風呂だ。夕ご飯は、三人一緒に食べる。
先月はずっと帰りが遅い時が続いたけれど、最近は、ずっとこんな調子だった。
学校であったことを話しながら、楽しい夕食。
朱里のことなど、とうに吹き飛んでいた。
「そういえば、亜矢。最近、翔太君とはどうなの?」
「え?」
「仲良くしてるの?」
母親の質問に、亜矢は箸をとめる。
「別に、ふつーだよ」
「そう?」
「んもー、翔太とは別にそんなんじゃないの。変なこと、言わないでよー」
頬をふくらませるけれど、満更でもない。だけど、ちょっと恥ずかしかった。
「ねえ、お父さん?」
照れ隠しに声をかける。
「……ん? ああ、何だい?」
父親は、気もそぞろだったようだ。
「どうしたの? なにか、考え事」
少し不満そうに尋ねる亜矢に、母親も続ける。
「おいしくなかった?」
「え? いや、そんなことはないよ」
不安そうな母親の声に、笑って答える父親。それから、自分の言葉を肯定するように、ご飯をかっこみ始めた。
――今日は、そのくらいだった。