三
『それで――ボクに訊きたいことがあるのかな?』
怯えて、真っ青になる少女たち。くろうねりは凶悪そうな笑顔を浮かべながら、とりあえず静香に距離を詰める。
「ひっ!」
短い悲鳴を漏らして、へたりとドアに背中を預けてへたり込んでしまった。
情けない、とは言えまい。
いじめっ子であることなど、今は全くの無意味。怪異を前にしては、ただの無力な少女でしかないのだから。
「……あ、あああ」
ガタガタと震える静香。くろうねりが大きく口を開けば、すぐにでも丸飲みできてしまいそうだ。
だが、そうはしない。とりあえず危害を加えるつもりはないのか――それとも、なぶるつもりなのだろうか。
『何か、知りたいことがあるんだろう?』
「……は、はは。あ、あのあの……!」
今にも気を失ってしまいそうな様子だが、何とかこらえているようだ。静香は、どうにか言葉を絞り出す。
「あ、あなた――く、く、くろうねりさん……なんですか?」
バカげた質問だ。けれども、そんな言葉しか出てこない。こうなる前は、面白おかしくどんな質問してみようか――などと、洋子と一緒に話題にしていたくらいなのに。
『ああ、そうだよ』
きちんと質問には、答えてくれる。
確かに、おまじないの本に書かれていた通りだったのか。ガタガタ震えるだけの静香に興味を失くしたのか、次は教室の窓際に立ち尽くす洋子に近付いていった。
『質問は?』
「……ひ、ひああ」
怯える洋子は、質問すらできなかった。元々彼女は気弱なのだ。
静香について回るだけで、流されていることが多い。茉莉をいじめようとしたのも、静香が率先していたぐらいだ。
けれども、それが彼女の免罪にならないだろう。加担した以上、共犯である。
『それで』
とりあえず静香と洋子に声をかけたくろうねりは――今度は、茉莉と理恵に狙いを向けた。
そして、言葉にする。それは、おまじないにあった件だ。くろうねりという怪異が現れたということは、すなわち――
『ボクの生贄は、君なのかな?』
「……あう」
茉莉は気絶する手前だった。
『黒い右手の生贄』、それが自分だということを知っていたから。
この先の運命を知って、彼女は泣きたくなった。何て理不尽――どうして自分がこんな目に。ああ、こんなことなら――
昨日、インターネットで検索していた画面を思い出す。
憎い相手を呪ってくれる神社。くろうねりが存在するなら、その神社も本当だったかもしれない。先に仕掛けておけば、このような結末にならなかったかもしれない。
涙がにじむ。食いしばった歯が、がちがち震える。抱き留めてくれる理恵に、しがみつく。
金井理恵、友人だった少女。
今は、もう違う。
いじめっ子の静香と洋子と仲良くなり、自分を裏切った。それでも、今は彼女にしがみついてしまう。仲の良かった時の記憶に、すがってしまうのかもしれない。
もう友達でない、彼女に。
――いや、違う。
違っていた。
それとも、戻ったのかもしれない。
おそらくは裏切った後悔と、その罪悪感ゆえに。
金井理恵はまたこの時、鈴木茉莉の友人となったのだ。
一瞬、わからなかった。静香も洋子も、ぽかんとしていた。
茉莉が理解したのは、少し遅れてからだ。
理恵のとった行動に――
『……へええ』
感心したようなくろうねりの声には、感嘆の色があった。
それが本心なのか、それとも嘲りなのかは――今は、わからない。
理恵は茉莉の右手首から紐を奪い取り、自分の手首に巻いたのだ。
◇
誰もが、その行動の意味を理解できなかった。
「……理恵ちゃん?」
茉莉が茫然とした声で、名前を呼んだ。
理恵は彼女を軽く押して遠ざけると――一歩踏み出した。身体を震わせながら、くろうねりに右手を差し出す。その生贄は、自分だとでも言うように。
――そう、理恵は犠牲をかって出たのだ。
土壇場で、友人を思う気持ちを取り戻したのだ。裏切ってしまった罪悪感もあっただろう。静香と洋子に逆らう勇気を持てなかった。そんな自分を、きっと責め続けていたに違いない。
静香と洋子も言葉を失い、事態を見守る。
茉莉がふらつく足で近寄ろうとするのを、理恵は左手で制した。
『君が、代わりになると言うのかね?』
肯定の言葉を、口にすることはできなかった。
頷くだけで、精一杯だった。その恐怖に歪んだ理恵の表情を満足そうに眺めて――
くろうねりは、よりいっそう深い笑みを浮かべた。邪悪で、凶悪で、それでいて――嬉しそうに。
『んー、素晴らしい友情だね。美しい自己犠牲だ』
白々しく、そんな言葉を吐く。勇気を振り絞った理恵と、困惑する茉莉を嘲るよう。くろうねりは、大きく身体を震わした。
『うんうん、いいねえ。ボクは――そういうの大好きだ』
そして、無情にも理恵を連れ去ってしまうのだろう。そうする性根の腐った怪異なのだろう。ヒトの全盛を嘲笑い、踏みにじる。無力な少女には、そんな現実を前に抗うすべはない。
――いや、違う。
そうではなかった。
くろうねりの言葉は、おそらく本心だったのだ。
だからこそ――
ぐにゃりとねじれて、おおきく盛り上がる左右の腕。ぐぐいっと伸びた両手が――ふたりの少女を掴んだ。
『では、こちらにしようかな』
静香と洋子だった。くろうねりは、本来の生贄ではない彼女達に狙いを定めたのだ。
「……え、え?」
「ちょ、何で!」
『君達、気に入らない。面白半分で友達を売ろうなんて最低だよ。とっても性格悪いよ? ボク、そういうの嫌いだなー』
正論を吐く、くろうねり。確かにそうではあったが――まさかこいつが言おうとは。全員にとって意外過ぎた。
『なので、君達を連れて行くよー!』
静香と洋子が悲鳴を上げる。それを搔き消すように、大きな風が吹き抜けた。
茉莉と理恵は身体を丸くして、こらえる。
そして、おそるおそる目を開いた。
くろうねりは、忽然と姿を消していた。もちろん、静香と洋子もろともに。
言葉を失い、茫然とたたずむ茉莉と理恵。
やがて、誰かが近付いてくる足音がした。
閉ざされていたはずのドアが開かれて、顔を出したのは生活指導の男性教師。騒ぎを聞きつけてきたのだろう。
「おまえたち、ここで何をしていたんだ?」
機嫌の悪そうな様子も、仕方ない。
くろうねりの起こした突風のせいで――机と椅子の何個かは倒れて、資料の大半が散乱していたからだ。そこだけ見れば、茉莉と理恵が大暴れしていたと思うしかない。
まさかここに先ほどまで他にふたりと、化け物がいたなどと――想像できるわけもなかった。
他の教師も何人か、追いついてきた。その中には、茉莉と理恵の担任教師も姿もあった。
彼女は教え子の姿に気付くと、思うところがあったのか――小さな声を漏らす。
それから少し迷った素振りを見せてから、おずおずと男性教師に呼びかけた。
「……その、阿崎先生」
「何ですか? 唯先生」
年若い女性教師に声をかけられて、中年の男性教師は少しだけ態度を軟化させた。
「……すいません、彼女達はわたしのクラスの生徒で」
――結果として、彼女が助け舟を出してくれた。
これまで、茉莉へのいじめを見て見ぬふりをしてきた彼女が――今ここで、ほんの少しの勇気を振り絞ってくれたのだ。
 




