六
あざ笑う、少女の声。
呪いをはらんだ、黒い声。
だけど、唐突に――それは終わった。
「あら?」
少女は、何かに気付いたように振り返る。
誰もいない。春人と彼女以外、誰もいない。何日か前の、図書室を思わせる不気味な静けさの中で――
「残念、見つかったみたいね」
言葉と裏腹に、やはり楽しそうな声だった。
彼女は、確かに感じ取っていた。
誰かが、来る。それは、きっと自分を邪魔しにくる何者か達に違いなかった。
「今ここで出会ってもいいんだけれど、まだ少し、早いかしらねえ」
くすくすと、邪悪に笑う。
「坊や、運がよかったわね。ま、これに懲りたら、これからは甘いことを考えないこと」
白々しく、言い聞かせる。
「――まあ」
ぬらり、と笑った。裂けるような、赤い笑み。
「懲りなくても、別にいいんだけどね?」
春人は、そのまま意識を失った。
誰かが自分を起きあげてくれた気がするけれど、誰だったのかわからない。
目を覚ますと、学校の保健室だった。
少しの間、茫然としていて――慌てて、自分の目元をさする。
目玉は、なくなっていなかった。間違っても、あの黒い眼鏡に、取られてなどいなかった。
安心してから、見回す。
あの眼鏡は、どこにもなかった。
夢、だったのだろうか。
――いや、きっと違う。
あれは、夢なんかじゃなかった。
間違いなく、春人の中に残っている。
自分は甘い言葉に乗ってしまって、取り返しのつかないことになりかねなかった。
誰かが、助けてくれたに違いない。
それは、誰だったんだろう。
あの不気味な少女を打ち払えるような――それこそ、正義の味方でもいたのだろうか。 なんとなく、頭によぎった。
あの、少女だった。
春人がゲーム対戦で顔見知りになっていて、例の強い少年の、からきし弱い連れで。
昨日、春人相手にずるをした少年を、優しくたしなめた――その少女の姿が。
◇
「……逃げられたか」
学校の屋上。
鍵を閉められたはずのその先に、彼女達はいた。
春人とよく対戦していた、黒髪の少年――一野儀景。少女のような細い指で、右半分の顔を持ち上げて、どこかを遠く眺めていた。その顔は、向こうを向いていて――彼女からは見えない。 彼女。
いつも、その少年と連れ立っている、栗色の髪を左右で縛った快活そうな少女――言織だった。
その服装は、いつもと少し違っている、
白い袈裟をまとい、縛った髪に、小さな菱形を並べた髪飾り。巫女や神主が手に持つ錫杖に、くくる紙の形に似ていた。
「癪だが、見事だ」
言織の背後で、声。彼女の足元の影が伸び、ヒト型を生じる。そこより現れたのは、虚無僧姿の長身――宵崎。
応じたのは、鈴を鳴らすような、子供の声。されど、どこか年経た貫録を滲ませる。
人語を解するのは、紛れもなく、言織の足もとにいる―― 一匹の子猫だった。
「妖気の拡散。こっちを撒くための、偽瘴の生成。生意気にも、古老の真似事しやがってよ」
黄金の毛並みをもったその猫――ロクスケは、やたら人間くさい所作で顔をしかめる。
「生まれたての、若造のくせに」
「ま、元が元だからね」
肩をすくめる言織。
「本当に紗惨禍の落とし子ってなら、その程度はやるだろうさ」
言織の後ろで、青年があいまいに頷いた。
すっきりとした眼鏡をかけた、神経質そうで、優しそうな青年だった。見ようによっては、そこそこに二枚目だ。
二十ほどだろうか。もう少し若く見える、幼さも見て取れた。
背は、あまり高くない。小柄な少女と、やはり小柄な少年が近くにいるので、それなりには見えるのだが。
黒いスーツに、肩から羽織る短い外套は群青。左手には、青塗の鞘に納まった長刀。
一見頼りない優男だが、それでも滲み出ているのは戦士としての風格であった。
半月ほど前。
お化け学校の事件の後より、彼女達と行動を共にする青年だった。
「でも、よかった。少なくとも、犠牲者は出なかった」
「まあね」
言織は、振り返る。
「でも、すぐにどうせ、次の誰かに目星をつけるよ? あいつの獲物は、そこいら中にいるからね」
人は弱い。誘惑に、すぐに負ける。今回の春人のように。
今この瞬間も、どこかで、誰かが――狙われている。
「守るさ」
青年は、言った。
「誰一人、あいつの手には落とさせない。そんなの、許さない」
固い声で、決意を言葉に乗せる。
「熱いねえ」
言織は、笑った。
「ま、君のそういうとこ――嫌いじゃないよ」
満更でもなさそうだった。
「とりあえず、少しはおとなしくしてるだろうしね」
例の少女。今回のことで、少しは力を使ったはずだ。また何かしでかすにしても、時間はかかるに違いない。
「油断しない程度に、ゆっくりしておくかね」
う~んと伸びをした。
踵を返す言織に、青年は声をかける。
「今日も、あのカードゲームか?」
「まあね」
答える。
「しばらく、春人君は来ないかもね」
景が、続ける。
今回の件で薬になったのなら、これからは勉強も頑張るに違いない。ゲームだけに夢中になるだけでなく、何事もほどほどに。
「つーか、がっこの勉強なんて、役に立つもんでもないけどね」
言織の軽口に、
「そういう考え、あまりよくないぞ」
青年が、たしなめる。
「へーへー」
そうやって言葉を交わしながら――
言織達は、学校の屋上から、姿を消した。
次なる怪異は、すぐに来る。
誰かの元に、現れ出でる。
静かに、されど確かに。
八津代の町は、揺らぎ始めていた。