三
たたずむ廃ビル。
足元には、転がる何かがあった。
先ほど自分達を救ってくれたのはそれに違いない。
五円玉のようだった。
「……理緒?」
自分を抱きとめてくれた友人に、向き直る。
「よかった……」
理緒は涙ぐんでいる。
「心配してたんだよ」
「……その、ごめん」
「ううん、もういいよ」
頭を振って、振り返る。美奈子も追った視線の先には、こちらに近付いてくる姿があった。
少女だった。
栗色の髪を左右で縛っている。姿は、巫女服のような服装だった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
理緒の言葉に頷く少女は、年下のようだった。
それでいて、どこかふてぶてしい。奇妙な貫禄を持つ少女だった。
何人か、引き連れている。
傍らには、同じくらいの少女――だろうか。少年にも見える。長い黒髪が、顔の右半分を隠していた。
それから、長身の老人。笠をまとった、これまた時代がかかった姿もあった。
気が付けば、少女の足元には子猫の姿もあった。黄金の毛並みの、子猫。さきほどの猫に似た影を思い出して、美奈子は思わず後退った。
「……あの」
美奈子は、事情がよくわからない。
「君も、もう少しで飲み込まれるとこだったんだよ」
少女が言う。近くまで来ると、美奈子より頭ひとつは低い。
「友達に心配かけてんじゃねーよ」
鼻を鳴らす。
「……あなたは?」
「おぼろのむすめ、だよ」
少女ではなく、理緒が答えた。
「わたしが助けてくれって頼んだの」
少女は、美奈子の足元に転がった五円玉を拾い上げる。よく見れば、違う。真ん中に穴は空いているが、もっと古い時代の小銭のようだった。
「この先に、閉じ込められているんだね。何人か、他にも」
それから、少女は軽く手を振った。
「ここからは、あたし達の領分だから。ふたりは帰りな」
「はい」
理緒は頷いて、美奈子の手を軽く引いた。
「さ、帰ろう」
しかし、美奈子はその場から動かない。
「みーなちゃん?」
訝しげな友人の声には答えずに、美奈子は尋ねた。
「その、兄さんを……こちらに戻すんですか?」
「ん?」
少女――おぼろのむすめが、肩越しに振り返る。
「兄さんは……向こうの方が、幸せなのかもしれない」
先ほどの光景が、視界に焼き付いている。
今の現実よりも、向こうにいた方が――小学生に戻っている方が、幸せなんじゃないんだろうか。
そう、思ってしまった。
「まあ、そうかもね」
少女は、否定しなかった。
「要はさ、今の現実に疲れている、昔の時代に戻りたいってヒトらが集まっている領域なんでしょ? この先は」
「だったら……」
「でもさ」と、美奈子の続けようとした言葉は、切って捨てる。
「そういうの、駄目でしょ?」
「…………」
「納得しなくてもいいよ。あたしの持論だしね。でも、あたしはあたしのしたいように行動させてもらう。捕らわれてるのは、君のお兄さん達だけじゃないからね」
どこか達観した、幼い風貌を裏切る声で言いながら、少女は歩いていく。
ためらう美奈子の腕を、理緒が引いた。
妖怪少女の背中を見てから、軽く頭を下げて、その場を離れる美奈子。
――ふたりの気配を見送ってから、
「宵崎、お願いね」
「了解でさ」
笠の下で、赤い瞳がぎらりと光る。錫杖にて、一閃。十字に、眼前を切り裂いた。空間が薄く剥がれ落ち、その向こうより現れる。
過去が息づく、学園の光景。
そこに、おぼろのむすめ――言織達は踏み込んだ。
侵入者であり、乱入者。
当然に。
彼女達に対して、向こう側は牙を向く。校庭を駆けていた子供達が学校の中に逃げ込み、代わりに姿を見せたのは――
ヒト型をとった、影の群れ。地面から煙となって立ち上って、形作られる。手足がねじくれ曲がった、闇人形ども。
無数に湧き出て、目の前に立ちはだかった。
「……参るぞ!」
宵崎が錫杖を振りかざす。そこより生じた大質量の闇が、無数の槍となって放たれる。闇の槍が、影人形を薙ぎ払う。
次に仕掛けるのは――黄金の毛並みの、小さき怪猫であった。
「く……ばああっ!」
喉をのけぞらせて、くぱあっと口を開く。そこから吐いたのは、灼熱。赤い帯が周囲を舐め回す。
ひとりと一匹の先制に、影達はあっさりと足並みを乱す。
容易い。そこを、一直線に言織は駆けていく。
並走する少年――景が、少女の頭上を示した。
「……管理者は、あそこ」
拳大の赤い瞳が、すでに目的を捕えていた。
「了解」
言織が宵崎に視線を走らせた。
意を得たり、と小さく頷く宵崎。
錫杖より伸びる闇の帯が、頭上に向かって伸びていく。言織はそこに飛び乗り、駆けていく。二階を乗り越えて、三階のベランダ。
とっかかりに、つかまる。そのまま軽業のように、ひょいっと身体を持ち上げた。なんなく着地。
景、ロクスケ、最期に宵崎。
窓ガラスに、そっと指を走らせる。薄黒く曇っていた。手をかけるが、当然のように開かない。
左手に、じゃらりと古銭。
その数、六枚。五枚を窓ガラスに貼り付ける。
五角形に並べると、それぞれの頂点から光の線が走った。五紡を描く中心に、六枚目。そっと貼り付け、右の人差し指と中指――二本の指でそっと触れる。
何事かつぶやくと、光線に従って、亀裂が入った。割れる窓ガラス。そこから進入。
六枚の古銭は、意思あるように彼女の左手に舞い戻る。
先に進む。
「……こっち」
景の指が示す先。
言織は向かって、走る。
横目に通り過ぎる教室。その中から、不安そうな――そして、責めるような子供達の視線が突き刺さってきた。
自分達は、敵だ。
彼らから、居場所を奪う略奪者。
だから、彼らの心は当然に牙を向くのだ。
――その絵は、稚拙でありながら、輝いていた。
ただがむしゃらに絵を描くことが好きだった。
――好きな男の子がいた。
彼に振り向いて欲しくて、精一杯におしゃれをしただけだ。
――サッカーが好きだった。
ずっとずっと、そうやって遊んでいたかっただけだ。
――それの、何が悪い。
何が、いけない!
いくつもの想いが、黒くよどみ、ねじれて――形を為す。
少女の姿を取った、黒い黒い影のヒト型。
真黒い闇を塗り固め、そこに立つ。
言織達の前に、立ちはだかった。