二
放課後。
ひとりで帰ろうとしていたら、下駄箱近くで呼び止められた。
静香だった。となりには、洋子。
少し離れた場所に、理恵が立っている。
「……な、何?」
また意地悪をされるのだろうか。身構えてしまう茉莉。
そんな彼女に、静香は満面の笑顔を浮かべて近付いてきた。あからさまな、わざとらしすぎる笑顔。洋子もまた似たような表情だった。
「あはは、そんなに警戒しないでよー」
馴れ馴れしく、肩に腕を回してくる静香。思わず振りほどきたくなるのを、我慢した。
「これまで、からかい過ぎたかなと思ってさ。悪いと思ってるのよ」
「そーそー、うちら反省したの」
相槌を打ってくる洋子。あまりにも白々し過ぎる。
理恵の複雑そうな視線が、茉莉の感覚の正しさを告げていた。
けれども、茉莉は甘い。お人よし過ぎるのかもしれない。
だからこそ、静香たちに目をつけられたのだろう。
「でさ、面白いおまじない見つけたんだよ。これから、一緒に遊ぼうよ」
そんな静香の言葉を――わずかでも、信じかけてしまうのだから。
◇
連れてこられたのは、三階の空き教室。
生徒が多かった頃は、普通に使われていた教室だ。今は、使われなくなった椅子や机が詰め込まれている。他にも古い教科書や資料のたぐいが積み上げられた――半ば物置きと化している部屋だった。
一応は、立ち入り禁止となっている。だからこそ、恰好の場所だったのだ。人目を忍ぶには最適の――
教室の半分ほどは空いていた。
そこに机をふたつ並べて、囲むように四つの椅子を置く。そして、中央に一枚の紙を置く静香。
それは、こっくりさんという儀式に使うそれに似ていた。神社の鳥居の模様が上部に描かれ、あとはひらがなで長々と呪文のようなものが書かれている。
狐狗狸さん。
いわゆる降霊術である。海外より伝わり、オカルトブームの日本でも大流行した。
実際に低級霊を呼び出してしまったり、自己暗示のせいで発狂してしまったり――ろくな目には遭わない。
手軽に行える危険な遊びで、かつて小中学校では禁止されていた。そのことを知っているわけではなかったが――茉莉は空恐ろしいものを感じていた。
「……ね、ねえ。これ何?」
不安そうな茉莉に、静香はにたりと笑う。嫌な笑顔だ。
「この本に書いてあったのよ」
手に持つのは、真っ黒い装丁の薄い本。表紙には何も書かれていない。奇妙な動物のような模様が描かれているだけだ。
「図書館で見つけて、面白そうだったから」
――くろうねりの儀式。
静香は、そう言った。
その本には、怪しげなおまじないや儀式のたぐいが書かれていた。そのひとつに、目をつけた。
その儀式で呼び出される『くろうねり』という存在は、何でも質問に答えてくれると言うのだ。
「…………」
黙ってしまう茉莉の右手首に、洋子が黒い紐を巻いてくる。
「え? 何なの」
「いいから、いいから」
ますます不安になってくる茉莉に、無責任に笑う洋子。
助けを求めるような視線を、正面に座った理恵に向けるものの、気まずそうに逸らされてしまう。
嫌な予感は膨れ上がり、そして――それは正しかった。
茉莉は自分の甘さを呪う。
後悔した。けれども、遅い。
四人は紙の上で右手を合わせる。黒い紐を巻かれた茉莉が一番下で、順番に静香、洋子、理恵と重ねられていった。
「さあ、いくわよ」
静香の合図で、呪文を唱える。茉莉以外の3人が。
静香と洋子はノリノリで。理恵は、気が進まない感じで。
『くろうねりさん、くろうねりさん、おいでください。くろうねりさん、くろうねりさん、おいでください』
別に、静香と洋子は信じていたわけではない。最近まんねりになっていた茉莉へのいじり――と言うには多分に悪質な――に、気分を変えてみようと思ったくらいだ。その程度で、だからこその浅はかさ。
時として、その無知が怪異への扉を開く。
――彼女達が思い知るのは、すぐのことだ。
呪文は、続いていく。
「……くろうねりさん、おいでください」
気が進まないながら、静香と洋子に視線でつつかれて、茉莉も口にする。10回ほど繰り返しただろうか。
『生贄に、黒い右手を捧げます』
静香と洋子がそう言うと、茉莉は言葉を失った。
「……え」
自分の右手首に巻かれた――黒い紐に目を落とす。その意味がわかったからだ。
そんな様子の茉莉を、にやにや見て笑うふたり。
理恵は気まずそうに、視線を逸らした。彼女も知っていたのだろう。呪文の内容を、あらかじめ。
――くろうねりさん、おいでください。くろうねりさん、おいでください。
生贄に、黒い右手を捧げます。
「…………」
儀式は終わった。
教室に静けさが落ちる。
何も起こらない。
当然と言えば、当然。こんな儀式、ただの悪ふざけ。信じていたわけでもない。予想通りの結果だ。
けれども――
静香がつまらなそうに、つぶやいた。
「何だ、やっぱり何も起こらないの」
「こんなもんでしょ」
洋子が肩をすくめる。思ったよりもつまらなかった。ほっと胸を撫でおろす理恵とは対照的に、ふたりは興覚めした空気。
茉莉は何とも言えない精神状態のまま、押し黙っている。
右手首。明らかに、自分のことだ。いい気分なわけがない。不意打ちに、恐怖も覚えた。そうして、段々と怒りと哀しみの感情も湧き上がってくる。
「あーあ、つまらないのー」
静香は立ち上がった。
「もう少し、面白いと思ったのにね」
洋子も続いて、席を立つ。
理恵と――茉莉は、まだ座ったままだった。
ふたりは互いに気まずそうに、視線を逸らす。教室の4人は、対照的な二組に分かれていた。
このままお開き。
いじめじみた悪ふざけは、こうして終わる。
そしてまた、静香と洋子は次の嫌がらせでも考えるのだろう。茉莉の息苦しい日々は――こうやって続いていく。
それが、日常の世界。
そのはずだった。
誰もがそう思った。
けれども、そうはならなかった。
――なぜなら、そうすでに。
彼女達は、世界を踏み外していたのだから。
「……!」
初めに気が付いたのは、誰だったか。
最初は、気のせいだと思った。
空気を切り裂くような音。火花が弾けるような音。
誰もいないはずの部屋で鳴る、家鳴りだ。それは、木材が収縮する際に起こるもので――木造住宅でたまに見られる。そのほとんどが、ただの自然現象。全てが怪異によるものではない。
そう、ただの自然現象。
もう明らかに気のせいではなくなっていたが――それでも、彼女達は常識に当てはめようとしていた。
認めたくはないのだ。
それまでの常識が壊れてしまうその瞬間は。
意識が拒むのだ。
未知なるものが、現実になることは。
「ひっ!」
悲鳴は、洋子のものだった。もはや、さしたる違いはないだろう。もう誰もが、同じ思いになっているの
だから。それは、恐怖にひきつった表情だ。
音が大きくなっていく。
まるで、何かが近付いてくる足音のように。
何か、とは――『くろうねり』に他ならない。呼び出す儀式をしたのだから、当然にやってくる。
静香は半狂乱になって、ドアに駆け寄った。
ガタガタ動かすが、開かない。鍵が閉まっているのだろうか。閉めた覚えのない鍵が。慌てて内側からの鍵をいじるが、開かない。
いや、動かないのだ。まるで凍り付いたように、微動だにしないのだ。そんなことは、ありえない。
「……な、何で! 何で開かないのよ!」
悲鳴のような絶叫を張り上げる静香。
「こ、こんなの噓でしょーっ!」
洋子は頭を抱えて、椅子から飛びあがった。茉莉と理恵はお互いに抱き合い、小刻みに震えている。教室内の恐怖がふくれあがり、まさに最高潮――天井から生じたのは、真っ黒い何か。煤のような、靄のような得体のしれない何か。それが、ぐるりと周囲を回って――机の上に停止した。
茉莉と理恵も机から離れて、距離を取った。
ちょうどおまじないの紙の上に、その黒いモノは浮かんでいる。
『やあ』
と、かすれた声でそれは挨拶をしてきた。
口のような亀裂が入り、ぎょろりとした金色の瞳が現れる。まるで猫のような瞳。だが当然に、そんな愛らしさは微塵もない。
その黒いモノ――『くろうねり』は、自分を呼び出した四人を一通り見回した。




