一
再怪します。よろしくお願いいたします。
この世界には、闇の領域がある。
人知れずとも、存在する。
時には妖怪と呼ばれ、あるいは怪異と呼ばれ、長い歴史の中で人々と関わってきた。
時代は変わり、夜の闇は薄れてきた。これまでの不可思議な現象も科学とやらに解明されてきた。未開であった秘境も暴かれ――世界は、その未知を明らかにされつつあった。
されど――それでも、
それらは、確実に存在しているのだ。
そして、時としてヒトはそこに足を踏み入れる。自らの意志で、あるいはただの偶然、時には理不尽から――
その女性は、沈痛な面持ちだった。
安と焦燥が顔に張り付いて、まだ若いであろうに、生気が抜け落ちている様子。
ここ半月ほど、毎日のように感じる視線。特に、夜の自室にいる時が顕著であった。辺りを見回しても、誰もいない。
友人に相談しても、気のせいだと言われるだけだ。一度心配して、泊りに来てくれた。友人は何も感じなかった。それでも、錯乱する彼女を心配してくれて、病院を薦められた。
診断は、過労のストレス。確かに、新社会人として働き始めた彼女は――日々の気疲れが溜まっていたのかもしれない。理解ある上司のはからいで、1週間ほど休みをもらえた。けれども、事態は一向に解決しなかったのだ。
やはり、目に見えない何かがいる。それが、自分を見張っている。その実感は、日ごとに強くなっていく。自分は、おかしくなってしまったのだろうか。そんな矢先に――ふと、目についた。
スマートフォンのネット画面に表示されたのは――
黄昏神社。
そこで祈りを捧げれば、怪異の苦しみから救ってくれる。藁にも縋る思いで、彼女はその場所を訪れていた。
夕暮れの町並み。茜色に染まる階段と、その先に続く朱色の鳥居。黄金色に染まるその光景は――彼女の心を打った。
「…………」
息を飲んで、歩き出す。
鳥居をくぐる際に、慌てて思い出して頭を下げた。
入るとすぐに目についたのは、手水舎。きれいな水が沸きだすその場所で、手を清めて口をすすぐ。それだけで、少し心が落ち着いた。きっと、この場所は自分を助けてくれるに違いない。
そんな確信が、湧き上がってきた。
ひと気のない神社。けれどけっして物寂しくなどなく、温かみに満ちていた。都市伝説に語られるだけあって、どこか不気味な雰囲気を予想していたが――よい意味で裏切られる。
社殿の前の、賽銭箱。大きな鈴が、ぶら下がっている。彼女は紐を引っ張り、鈴を鳴らして――二礼二拍手一礼のお参りをする。そして、財布を取り出して1万円札を賽銭箱に入れた。
「……お願いします。お願いします。助けてください。わたしを、どうか助けてください」
目を閉じて、両手を合わせて懸命に頼み込む。
「――その願い、聞き届けたり」
その必死さに応えるように、声が聞こえた。おごそかな声ではなく、可愛らしい少女の声。
彼女が弾かれたように目を開くと、そこにはひとりの少女が立っていた。確かに、先ほどまではそこに誰もいなかったはずなのに。
栗色の髪を左右で縛った、十代前半ほどの少女。白い小袖に、下半身は緋色の袴。いわゆる巫女装束の出で立ちであった。
「お姉さん、詳しく話を聞かせてよ」
彼女の不安を払拭するよう、少女は頼もしげに笑うのであった。その足元に、茶トラの猫が歩いてくる。それだけではなく、少女の周囲に何かの気配も現れた。
「……はい、実は」
そうして、彼女は事情を説明し始めた。
闇の領域から、はい出てくるモノがある。時として、人間に牙を剥いてくる。怪異、あやかし、超常の存在ども。
けれども――救いの手は、手を伸ばせば届くのかもしれない。
◇
「…………」
薄暗い部屋。
その少女は、ひとりパソコンの画面を眺めていた。スマートフォンがあふれた現代、彼女の年頃でパソコンに向かうのは珍しいのかもしれない。
少女の名前は、鈴木茉莉。
平凡な中学二年生。最近はある悩みを抱えている。それゆえに、今はパソコンのネットでとある検索をかけていたのだ。
そして、表示された画面には物々しい赤い文字でこう書かれていた。
『貴方の恨みを晴らします。憎い相手を呪い殺す方法』
――逢魔ヶ神社、と。
指先が震える。その先のリンク先をクリックしようとして――莉奈の手は止まった。
息を飲む。お腹のあたりに、じっとりと重い感覚。
ためらい、迷い――結局は。
その先に進むことはなかった。
進むことは、できなかった。
彼女には憎い相手がいる。けれども、呪い殺すまでの覚悟は――まだ、なかった。
そして、後になって改めて気付く。
血のように真っ赤な、禍々しい『逢魔ヶ神社』の文字に並んだ。
――もうひとつの神社の文字を。
◇
鈴木茉莉は、いわゆる虐めにあっている。
あからさまな暴力や、金銭の要求などはされていない。相手もおおごとを避けているのか、あくまでからかいの程度ですむ範囲に留めているのか。
けれども――地味な嫌がらせも、それが続けばこたえるものだ。真綿で首をしめ付けられるよう、心身を病んでいく。
黒板や机への悪口も落書き。教科書を隠される。給食に誤ったふりをして、砂糖や塩を入れられる。座ろうとした椅子に、べっとりと透明の糊が塗られていることもあった。
そして、今日は――
自分の机の上に、花瓶が置かれていた。
ご丁寧に花が生けられている。しかも菊の花だ。
クラスに入るなり、他のクラスメイトの視線が気になったので、また何かあるとは思っていたが。
「あ、ごめーん」
思わず立ち尽くしていると、気楽そうな声が聞こえてきた。目の前に立つのは、気の強そうな少女――江藤静香。割とかわいい部類であるのに、残念なことに虐めっこなのである。
「鈴木さん、てっきり死んじゃったかと思ってたの。生きててよかったわねー」
そのとなりには、ニヤニヤ笑う川田洋子。静香とは、長い付き合いの友人らしい。
そして、三人目。
彼女がその場所にいることが、何よりも辛かった。
視線を合わそうとしない彼女の名前は――金井理恵。
小学生からの親友で、一年生まではずっと仲が良かった。けれども、2年生になって、今はそちら側に立っている。
そのことが、本当に哀しかったのだ。
「もう、静ちゃんったらうっかりやさんなんだから」
洋子がそんなことを言いながら、机に手を伸ばしてきた。
「花瓶、片付けなくちゃね」
そして、花瓶を倒す。明らかに、わざとだ。
「……っ!」
当然水がこぼれる。茉莉の机はびちょびちょだ。それなりに水が入っていたようで、椅子まで濡れてしまう。
「まったく、ヨーコこそ何をやってるのよ」
白々しい小芝居だ。
笑いながら、静香が教室の後ろに向かう。ロッカー脇の掃除道具。そこから持ってきたのは、くすんで汚れた雑巾だ。
「ごめん、ごめん。拭いてあげるねー」
きれいになるわけがない。水を吸って、汚水を吐き出す。かえって、机は汚くなってしまう。
クラスメイトの誰もが、遠巻きに見ている。皆、関わりたくないのだろう。茉莉を助けようとしてくれる者は、誰もいない。
それを、薄情とは言えない。
きっと自分だって、逆の立場だったらそうするに決まっている。
そうこうしているうちに、担任教師が入ってきた。まだ若い女性教師も、事情を察していても――触れてこない。
このクラスに、茉莉の味方は誰もいないのだった。




