出発
アラート・ハンガーのソファに座ってふと前を見るとシノタキが立っていた。珍しい、と言うよりも今までそんなこと一度も無かった。
彼女は僕を見ている。本を持っていた手を膝の上に置いた。少しだけ背筋を伸ばす。
「今日……」
僕は彼女を見る。彼女の言葉が止まる。時計の音が聞こえた。
「今日、何も無かったら」
彼女にしては珍しいことに言い澱む。彼女の小柄な背丈が高い屋根のせいで一層小さく見えた。少し不機嫌そうだ。
「何か、食べに行こう」
彼女は視線をそらして、言った。
「あ……あぁ」
僕は狼狽してしまって、そんな返答しか返せなかった。僕を一瞥し、そのまま彼女は行ってしまった。
よく考えてみたら、彼女にとって凄く珍しいことだ。唯でさえ他人との接触を嫌うシノタキが『何か食べに行く』?
彼女のほうを見てみたがソファの背もたれしか見えなかった。
* * * *
何も無く今日のアラートは終わった。敵機が一機も来ないのはむしろ珍しかった。僕は三冊目の本を閉じて紙袋に入れた。
「五時に、裏門の前に」
シノタキはそれだけ言って自室に帰っていった。少し俯いている。彼女が彼女ではないみたいだ。
僕は取り合えず部屋に戻った。フライト・ジャケットを脱ぎ捨てた。一応、自分が持っている唯一の普段着に着替える。半年前に買った服だ。最近は殆ど背が伸びない。子供の頃は服が足りなかった。学校ではクラスメイトが僕を嘲笑した。恐らく、僕が居なくても他の誰かを笑っていただろう。行動のアルゴリズムが馬鹿馬鹿しかった。
すぐに空回りする思考を振りほどいた。どうせ今の僕には関係ないことだ。
わざと呼吸を落としている自分に今さらながらに気付く。
全く……どうかしてる。
おかしいのは僕もじゃないか。その理由が見つからなかった。だから少し焦っているのかもしれない。全く、子供染みている。
僕は少しだけ乱暴に息を吐いた。あと十分で五時。
部屋を出て廊下を歩く。緑色の床に蛍光灯の光が濁って反射していた。風が吹いてもすぐに停滞しそうなぐらいに静かだ。ゴムが軋む様な靴の音だけが響く。
裏門までの道を歩いた。無駄に彎曲している所を芝の上を歩いてショートカット。駐車場の裏門の前には既にシノタキのロードスターが止まっていた。あたりは既に真っ暗になっていて、三つのライトがやけに赤く見えた。
車なんて飛行機よりもずっと小さいのに近くで見るとやけに大きく見える。これはつまり飛行機が思考の中で一つのファクタとして独立しているからであって、比較対象に日常を出したらとんでもなく大きく見えるだろう。
その車のカテゴリから考えてもそれは小さかった。太ももの高さにある取っ手を引っ張りドアを開けた。彼女は僕を一瞥してそのまま前を向く。僕はドアを閉めた。意外とばねが硬い。殆ど使っていないのだろう。
門を出て加速しながら道に出る。いつもとは反対方向。僕は行ったことが無い。行く必要も、メリットも無かったからだ。
「何処に行こう」
彼女が聞いてくる。僕は煙草に火をつけた。
「何か食べれる場所へ」
僕は答えた。
……大変だ。シノタキの今までのせりふの数を越えてしまった。
どんだけ無口なんだ。




