指令
息を吐き出す。エンジンの余韻がまだ残っている。バイザーをあげる。
ヘルメットを脱ぎ、キャノピを上げる。枠に手をかけ、立ち上がる。
射出座席に足をかけ、主翼に立つ。
音が小さく聞こえる。エンジンの音に慣れたせいだ。
体がふらついている。飛んでいたせいだ。でも、今はこの感覚が心地よい。終わってしまった。むしろ残念に感じる。
被弾は無い。パッチは嫌いなのでよかった。抵抗の増加は免れない。横にいるシノタキを見る。むしろどこか楽しそう。
あの軌跡は美しかった。雲に吸い込まれていく一筋の曲線。
樽と言うにはあまりにも細く華奢なバレル・ロール。
しっかりと未来を見越した弾道。
楽しい奴だ、と僕は思う。キリタはエプロンに大の字に転がっている。シノタキを飛ばしたのはキリタだろう。あとで礼を言いに行こうか。でも、その前に。
「シノタキ」
シノタキがこちらに視線を向ける。少しむっとしたような顔。これがデフォルト。こういう奴だ。
「ありがとう」
笑いながら言っても通じるだろうが、僕は表情を取り繕わなかった。僕はこれがデフォルトかも。なら、偽の仮面をかぶる必要はない。シノタキに失礼だ。
無表情なのか、何なのかは知らないけど。そもそも僕は僕の顔を見ない。個人を特定するツールならばどう認識されても僕は僕だ。僕は僕を特定するのに僕の顔は使わない。ならば僕にとって僕の顔は何だっていいのだ。
シノタキは鼻から息を漏らした。少し得意そうだ。きっと夕日が見せた光のコントラストでそう見えただけだろう。
キリタが起き上がった。寝転がっているところを蹴り転がしてみたくなったがそれはもう出来ないわけだ。勿論できたとしてもそれはしない。
シノタキが寄ってきた。横に並ぶ。横に並ぶといっても三メートル以上ある。これが僕にとってもシノタキにとっても最適な距離だろう。いつでも切り捨てることができる。離脱して、ブレイク・オーバーできる。
風が肌に刺さるようになってきた。
* * * *
「ご苦労だった」
短く新野が答えた。嫌な指揮官だ。一機で爆撃隊を殲滅して来い?馬鹿馬鹿しいにもほどがある。シノタキがいたからできたともいえる。
「それと……テスト飛行に参加する意思は」
「ありません」
即答する。
「いい加減テスト飛行にアレルギーを持つのはやめた方がいい」
「何を考えているのか知りませんが、おそらくあなたが考えている事ではありません」
当たり前だ。怖いんじゃない。速度重視の重戦は好みに合わない。
「良いか」
新野がこちらを睨む。普通の人間ならば恐怖を抱くのだろうか。こんなもの銃口の冷たさに比べたら小春日和だ。
「いかに君がエース・パイロットだったとしても」
「エース・パイロットだから言っているのではありません」
言いたいことは早く言う。撃ちたい時は早く撃つ。言葉にできる人生の成果のうち一つといえる。大抵だが何故か言葉にできる成果を大切にする風習が人間にはある。撃墜数や、出撃率。あるいは通知表?テスト?
たとえば記憶をどうやって思い出すか聞かれた時になんと答える?覚えているから?知っているから?どうやって思い出すか言葉にできる人は少ない。否、いない。本当は途方も無く効率的なのに。
つまり、これが人間の厭らしさ、あるいは穢さ、重さ。仕方ないものだ。オブラートに包み隠してしまわないと本性が出てしまうような、ぎりぎりの性能を保った空冷重戦みたいな、そんな感じ。
「……君達は私の部下だ。勝手な行動は許さん」
「勝手な行動?」
「私が出撃命令を出したのは君一人だ。その部下にまで命令を出した覚えは無い」
今さら何を言っているんだ、とあきれる。
「シノタキが飛んだからこの基地が助かったといえます。もし飛ばなかったらこの基地は航空機を破壊され壊滅していたでしょう。敵攻撃機は機関砲とロケット弾と爆弾を抱えていました。ピストの攻撃力だって馬鹿にできません。航空機をすべて撃破するのには簡単な状況でした。高射砲は急降下爆撃には殆ど役に立ちません。基地司令部だって跡形も無く崩れ去っていたはずです。それでもですか?」
僕は奴を睨む。幹部生出身の奴だ。人一人殺したことも無いだろう。
「命令違反は規則違反だ」
「だからなんですか?」
「今回の戦果の昇格はなしだ。一生小隊長にでもなっていろ。貴様に出世の道は無い」
「ええ。それはうれしいですね。まだ飛べる」
当たり前だ。これ以上昇格したら飛べる機会が無くなる。まともに媚を売っていたら今頃基地指令にでもなっていそうだ。勿論、そんなことするつもりは無い。
面白くない指揮官だ。誰もこいつの事を信用していない。勿論、僕も。
「……いい、もう下がれ」
あっけにとられたような新野をあとにして出た。きっと階級こそが人の価値だと思い込んでいるのだろう。よく成績や順位が人の価値だと思い込む奴と同じ。職業病みたいなものだろう。
ハンガーに行こうかと思ったけどシノタキもいくようなのでやめた。こういうことが気遣いや、思いやりだともいえる。優しさでできるだけ自分から遠ざける。あまり近くにいるとセロファン・テープみたいに跡が残るから。もっと身軽でいたい。