ねずみのひと
『ねずみのひと』
リサのおうちのキッチンには、ねずみ取りが置いてあります。
真ん中にチーズが置いてあって、それにネズミがつられると、しっぽを挟まれてしまうのです。
「でもね、ママ。私、これは、とっても悪趣味だと思うわ」
ある日の午後、ミルクを飲みながら、リサはママにそう言いました。
「だってこれ、可愛くないし、とってもザンコクだもの。ねぇ、どうせならネコを飼いましょうよ!
だって、ネコは可愛いし、ねずみはネコが嫌いなのよ。あっという間に逃げていっちゃうに違いないわ」
つまり、結局のところ、リサは隣のエリカちゃんみたいに、可愛いネコが欲しかったのでした。エリカちゃんがネコを飼ってから、何かというとネコをおねだりするのが、リサの癖になっているのです。
でもママは、絶対にイエスとは言いません。
今日もハイハイと聞き流すと、リサにお留守番をさせて、買い物に出かけてしまいました。
たったひとり残された家の中で、リサはつまらなそうに呟きます。
「私も、ねずみ取りじゃなくって、ネコが欲しかったわ」
リサは子ネコのことを思い浮かべながら、ひとりで喋り続けました。
ふわふわで小さな子ネコが、空想のなかを、ところせましと元気にぴょんぴょんと跳ね回ります。目はくりっと丸くて、リサの宝物のガラス玉ようにキラキラに違いありません。
「そうしたら、ダイナって名前を付けて可愛がるの。ミルクとお魚だって、ちゃんと毎日あげるんだから」
とても楽しい想像でしたが、そんなリサの幸せを、聞き覚えのない声がさえぎりました。
「やめときなよ、娘さん。
ネコなんて、とっても自分勝手なものさ。ごはんと主人の顔の見分けが付かないくらいだよ。
それでもネコの話をしたいっていうんなら、頼むから、せめて別の部屋で話してくれないかね?」
リサはびっくりして、あたりを見回しましたが、どこにも誰もいません。
「だあれ? どこにいるの?」
「ここさ、ここ。あんたの足元さ」
机の下を見ると、灰色の小さなものが動いています。
それはねずみでした。
小さなねずみは、しっぽをねずみ捕りにはさまれたまま、チーズを食べています。
リサはびっくりして、目を丸くしました。
「さっきの声は、あなた?」
「ここに、俺以外に誰がいるんだね?」
「だってほら、あなたは、ねずみでしょう?
ねずみっていうのは、普通はそんな風に喋らないで、ちゅうちゅうって鳴くものじゃないの」
「そりゃあ、普通はね」
「じゃあ、あなたはどうして喋れるの?」
チーズを食べ終わったねずみは、自分の手をぺろぺろと舐めています。
そうして、すっかり綺麗にし終わってから、リサのほうを向きました。
「あんた、不思議の国のアリスの絵本で、チェシャ猫の横に『このネコは小学校で国語を頑張ったので喋れます』なんて書かれているのを、一度でも見たことがあるのかい?」
「ないわよ、一度も」
「そうだろう。そうだろう。
だから、ねずみが喋ることなんて、そう大したことじゃあないってことなんだよ。まぁ、気にしないことだね」
確かにその通りかもしれないとリサは思いました。
だって、今まで誰も、どうしてチェシャ猫や三月ウサギが喋るのかなんて、あたり前すぎて教えてくれませんでしたから。ねずみが喋るのも、きっとあたり前のことなのかもしれません。
「そうね。確かに、そうかもしれないわ」
「そうだろう。そうだろう。
それで、どうして俺が喋れるのか、その理由だがね」
リサはまた驚きました。だって、さっき言っていたこととまるで逆なのです。
「教えてくれないんじゃないの?」
「教えないとは言っていない。気にするな、と言っただけさ」
リサはちょっと腹が立ちました。なんてあべこべなねずみなんでしょうか。理由を知りたがると、気にするなと言うくせに、気にしないことにしたとたん、理由を話し始めるなんて!
けれど、リサは文句を言うのをガマンしました。だってもう、すっかり理由を聞きたくなってしまっていましたから、ねずみを怒らせたらいけないと思ったのです。
リサの不機嫌なんか少しも気にせずに、ねずみはひょうひょうと言葉を続けました。
「理由は簡単だよ。俺は前の前の時に、人間だったんだ」
「前の前って?」
「ねずみになる前の前さ」
リサはちっとも意味がわからないので、首をかしげました。
「あなた、最初はねずみじゃなかったの?」
「違うね。もっとも、最初はなんだったかなんて覚えちゃいない。
ただ、前の前が人間だったってことだけは確かなんだ。それより前はわからない」
「どうしてわからないの?」
「前の前の時に、人間だったからさ。娘さんだってそうだろう?」
突然そんなことを言われて、リサはとても困りました。ねずみの言うことは、わからないことだらけです。
「あんただって、人間になる前のことなんか、覚えちゃいないだろう?」
「私は、最初っから人間よ」
「そうかね。そうかもしれない。だがそうじゃないかもしれない。
人間ってのは、覚えることが多すぎて、前の時のことなんて、ちっとも覚えておけないんだよ。aとeのスペルの違いだとか、9割る3が3だとかね」
「私も、忘れてしまったの?」
「そうかもしれない。そうじゃないかもしれない」
まったくもって、あべこべであやふやでへんてこなねずみです。きっと人間だった時もそうだったに違いありません。
でも、確かにその通りかもしれないとリサはまた思って、独り言のように言いました。
「九九なんてちっとも大事じゃないけれど、覚えなかったらママと先生に怒られるわ。それに、4かける5を12だなんて言ったら、なんにもわかっていない子だと思われちゃうもの。
覚えることがたくさんなのは、本当ね」
「そうだろう。そうだろう。
その点、ねずみは簡単なものだよ。チーズが好きだってことと、ネコが嫌いだってことだけ、わかっておけばいいんだからね。
ああ、そうだネコだ。さっきも言ったけど、あんた、ネコの話だけは止めておくれよ」
ねずみは短い毛を逆立てて、ぶるりと震えました。小さなハリネズミみたいです。
「そんなにネコが嫌いなの?」
「前の時からずっと嫌いだね」
ねずみはきっぱりと言いました。
「前の時って?」
「魚さ。真っ赤な魚だった時からだよ。
魚はよかったね。一番なにも考えなくてよかった。なにせ、人間がくれるものを食べていれば、それでよかったんだから。
ところが、運の悪いことに、俺はネコに食われてしまったんだよ。ついてなかった、まったく」
あんまりにも落胆した声を出すので、リサはねずみが気の毒になってしまいました。
「それじゃあ仕方がないわね。ネコの話は、あなたのいないところですることにするわ」
「そうしてくれると助かる。
ところで娘さん。お願いついでに、もうひとつだけいいかい?」
「なぁに?」
リサはもうすっかりねずみに同情していましたから、他のお願いのひとつくらい、やってあげられることなら、聞いてあげようと思いました。
ねずみは自分のしっぽを見ました。それは相変わらず、ねずみ取りの金具にしっかりと挟まれて、いかにも可哀想でした。
「できれば、娘さんのお母さんに見つかる前に、この罠を外してくれないかね?」
リサはホッとしました。そのぐらいのことなら簡単です。
「もちろん、いいわよ」
「それはよかった。俺はまだ、死にたくはないんでね」
金具を外してあげようと手を伸ばした時、ある疑問が浮かんで、リサは訊ねました。
「ねぇ。でも、もし死んでしまったとしても、また違う何かになるだけなんでしょう?
それじゃあ、死んでしまうのも、そんなに大したことじゃあないでしょう?」
「俺にとっては、たいしたことさ」
ねずみは――はたして、ねずみに表情というものがあればですが――とても真剣な顔をして、ひと呼吸置いてから続けました。
「だって、今度の時には、人間になってしまうかもしれないだろう」
「人間にはなりたくないの?」
「人間にはなりたくないね」
ねずみがあんまりにもはっきりと言うので、リサはあっけに取られてしまいました。
けれど、気を取り直して、なんとかこう言いました。
「私は、人間だって、そんなに悪くはないと思うわ」
「どこがだね」
「だって、ええと、確かに算数は面倒だけど、詩の暗唱は面白いと思うわ。
あなたじゃなくて、普通のねずみだったら、ちゅうちゅうと鳴くだけで、『キラキラ星』なんかちっとも歌えないじゃない。卵を食べながら、『ハンプティ・ダンプティ』が誰かを思い出して歌ったり、そんな楽しみもないなんて、つまらないじゃないの。
それに、少なくとも、ネコに食べられちゃうことだけはないわよ」
「ふむ」
リサが罠を引っ張ると、ねずみのしっぽがするりと抜けました。ねずみはパタパタと、確かめるようにしっぽを振ります。
しっぽには、挟まれた時についた、横にまっすぐな傷がありました。
「確かに、ネコを怖がらなくていいのは、いいかもしれない」
「そうでしょう」
リサは得意げに言いました。
「でもね、人間になると、もっともっと怖いものがある。人間になったら、いつだって、それに怯えなけりゃいけなくなる」
「それって、なあに?」
「時間さ」
時間の何が怖いのかしら。リサは不思議に思いました。
その時玄関から、ただいまという声が聞こえました。ママが帰ってきたのです。
「じゃあな。ありがとう、娘さん」
ねずみは近くの壁の隙間に、すばやく入り込みます。
最後に、声だけが聞こえました。
「そうだな。もっともっと後になって、人間のことも全部忘れる頃になったら、戻ってもいいかもしれない。
『バラは赤い』がわからなくなるのは、少し残念だからね」
その後、リサはネコを飼いたいと言わなくなりました。代わりに、ママにお願いをして、ねずみ取りを片付けてもらいました。
それと、前よりもたくさん、詩を唄うようになりました。もし自分がねずみになった時にも、ちゃんと唄えるようにしたいと、そう思ったからです。
そういえば、お魚になった時も、ちゃんと唄えるのかしら。水の中で唄うって、どんな感じかしら。
リサは、ねずみに聞きそびれたことを、残念に思うのでした。
それからしばらく経ったある日、リサは、エリカちゃんの家に遊びに行きました。なんと、エリカちゃんのネコに、子どもが生まれたというのです。
飼うことこそは諦めましたが、ネコはやっぱり大好きなのです。ましてや子ネコだなんて!
リサは喜んで見に行きました。
まだ転ぶようにしか動けない子ネコたちが、母ネコのおっぱいをちゅうちゅうと吸う姿は、とても可愛らしいものでした。
「あら?」
その時ふいに、妙なものが目に留まりました。母ネコの餌箱の近くに、細長い何かが落ちています。
あれは何かしら。
しばらくそれの正体を探っていたリサは、口と目を大きく開き、「あ」と呟きました。
それは、横一文字の傷がある、干からびたねずみのしっぽでした。
おしまい
とりあえずジャンルを文学としてみましたが、いまいちよくわかりませんので、適切なジャンルがあったら教えてください。
それと初投稿のため、このサイトの傾向などはよくわからない部分がありますので、アドバイスなどありましたらよろしくお願いします。