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終電に乗っていた。気がつけば窓の外には一切の光がなくなっていた。

作者: 冬至 柚
掲載日:2026/03/08

終電に乗っていた。気がつけば窓の外には一切の光がなくなっていた。


最初は、トンネルに入ったのだと思った。


けれど、妙だった。いつまでたっても車内の窓は黒いままで、向こう側に自分の顔しか映らない。吊り革が揺れるたび、ガラスの中の自分も少し遅れて揺れるように見えた。車輪の音は規則正しく続いているのに、ホームに滑り込む気配がない。


終電の車両には、僕を入れて四人しか乗っていなかった。


向かいの端に、くたびれたスーツの男がひとり。優先席のあたりで眠っている女の人がひとり。ドア脇には、紺色のセーラー服を着た女子高生が立っていた。みんな静かで、みんな疲れた顔をしていた。春休み前の試験が終わったばかりの僕も、その仲間に違いなかった。大学のレポートを出し終えて、イヤホンを外したばかりだった。


車内アナウンスが流れた。


「——まもなく、まもなく——」


そこで途切れる。


雑音もなく、ぷつりと。


僕はスマホを見た。圏外だった。バッテリーは残り十二パーセント。時刻は0時43分で止まっていた。画面を消すと、黒い窓に映った僕の背後で、セーラー服の子がこちらを見ていた。


振り返ると、彼女は窓の外を見ていた。


喉がひりついた。


なんだよ、と自分に言い聞かせる。寝不足だ。帰ったらカップ麺でも食って、風呂も入らず寝よう。そう思うのに、胸の奥だけがじわじわ冷えていく。


次の瞬間、列車がゆるやかに減速した。


ホームに着く。そう思って窓の外を見たが、やはり何もない。ただ黒だけが、べたりと張りついていた。やがて電車は止まり、ドアが開いた。


開いたはずなのに、外の景色が見えない。


ドアの向こうにも、夜より濃い闇があるだけだった。ホームの照明も、駅名標も、自販機の白い光さえない。まるで駅というものだけが、世界から削り取られたみたいだった。


眠っていたはずの女の人が、するりと立ち上がって降りた。


ためらいがなかった。


スーツの男も続く。降り際に一度だけこちらを見た。その顔は妙に青白く、見覚えがあるような気がした。どこで見たんだろう。思い出せない。僕が高校生のころ、駅前のコンビニで夜勤をしていた店員に似ていた。


ドア脇のセーラー服の子だけが残った。


やがてドアが閉まり、電車はまた走り出した。


「……今の、駅?」


思わず声に出すと、セーラー服の子が答えた。


「駅だよ」


小さな声だった。意外なくらい普通の、落ち着いた声。


「降りなくてよかったの?」

「まだだから」


彼女はそう言って、つり革にもつかまらず立っていた。年は僕より少し下に見える。肩につかないくらいの髪。白い靴下。今どき見ないくらい古い形の学生鞄。どこか昭和っぽいというか、写真の中から出てきたような輪郭をしていた。


「君、どこまで行くの」

「海の見える駅」

「この路線にそんな駅あったっけ」

「昔はあったのかもね」


妙な言い方をする子だった。


車内の蛍光灯が、一瞬だけ明滅した。その瞬間、窓に映る景色が黒ではなくなった。


海だった。


いや、海に見えた。真夜中の水面みたいなものが窓いっぱいに広がって、鈍い月明かりのようなものが揺れていた。電車はその上を走っているようだった。レールの音が、どこか遠い夏の音に変わる。子どものころ、祖母の家へ向かうローカル線で聞いた音だ。窓を開けると潮と鉄の匂いがした。扇風機がぶうんと回る古い車両で、向かいに座った母が、眠そうな僕の頭を膝に引き寄せてくれた——そんな記憶が、何の前触れもなく胸の底から浮かんできた。


「懐かしいでしょ」


いつの間にか、彼女が僕の隣に座っていた。


びくりとして身を引くと、彼女は少し笑った。


「そういう顔、みんなする」

「みんな?」

「ここに来る人」


その言葉の意味を考えたくなかった。


僕は窓の外から目をそらして、足元を見た。床には砂が落ちていた。細かい、湿った砂。誰かが海辺からそのまま乗ってきたみたいに。さっきまでなかったはずなのに。


「これ、どこなんだ」

「たぶん、帰れなかった人が通るところ」

「は?」

「帰りたい場所のある人が、たまに間違って乗るの」


冗談にしては、彼女は真顔だった。


「そんなわけないだろ」

「じゃあ、どうして窓の外に光がないの」

「……」

「どうしてスマホが圏外なの」

「……」

「どうして、さっき降りた人の顔を知ってる気がしたの」


言い返せなかった。


たしかに知っている気がした。でも、いつどこで見たのか思い出せない。思い出せないはずなのに、胸の奥だけがいやにざわつく。その感じも、少し懐かしかった。昔住んでいた団地の、もう誰も使っていない遊具を見たときみたいな、不安と親しさが混じる感覚。


電車はまた止まった。


今度は、窓の外にぼんやりと光があった。


小さな駅だった。木造の古いホーム。白熱灯みたいな色のランプが二つ、弱々しく灯っている。駅名標は錆びて読めない。ホームの向こうには背の低い商店街が見えた。もう何十年も前に閉まったような玩具屋、赤い郵便ポスト、軒先で風に揺れる風鈴。


夏休みの匂いがした。


「降りる?」


彼女が聞いた。


「ここ……」

「たぶん、あなたが昔なくしたものがある駅」


言われた瞬間、胸が詰まった。


小学校三年の夏、父方の祖母が亡くなって、家族で海辺の町へ行ったことがある。帰りに乗った古い電車で、僕は青いプラスチックの定期入れをなくした。なかには祖母がくれた五百円玉が入っていた。ただの五百円玉。でも、僕にはお守りみたいに思えた。結局見つからなくて、そのことをなぜか長いあいだ引きずっていた。


ホームのベンチに、青い何かが置いてあった。


立ち上がりかけた僕の袖を、彼女がつかんだ。


冷たい手だった。


「行ったら、戻れないかも」

「……でも」

「懐かしい場所って、優しいだけじゃないよ」


その言い方が妙に大人びていて、僕は彼女の横顔を見た。彼女もまた、どこかへ帰れなかった人なのかもしれない。そう思うと、急に聞きたくなった。


「君は?」

「私は、毎晩ここを通るだけ」

「家はないの」

「昔はあった」


ドアが閉まりかける。


ホームの青いものが、闇の中で小さく光った。


僕は動けなかった。


やがて電車はまた走り出し、駅の灯りは遠ざかった。彼女は袖から手を離し、かすかに息をついた。それが安堵なのか、落胆なのかは分からなかった。


「正解だったのかな」

「たぶんね」

「たぶん?」

「正解がある場所じゃないから」


それからしばらく、ふたりとも黙っていた。


車内には、どこからか古い扇風機の回る音が混じり始めていた。そんなものこの電車にはついていないはずなのに。僕は急に、自分が子どものころに乗ったいくつもの電車を思い出した。祖父に連れられて行った動物園、遠くの親戚の家、受験の日の始発、入学式の帰り。どの記憶にも、ホームの匂いと、発車ベルと、別れ際の手の感触がくっついていた。


電車は、人を運ぶだけじゃない。


たぶん、置いてきた時間のそばも通るのだ。


「次で終わり」


彼女が言った。


前を見ると、運転席の向こうに、やっと光が見えた。小さな、頼りない光。でも今まで見たどんな光より現実に近かった。コンビニの看板みたいな、安っぽくて安心する光。


「最後の駅?」

「あなたの」

「君は?」

「私は行けない」


彼女は笑った。さびしい笑い方だった。


「ねえ」


僕は気づくより先に口を開いていた。


「君、名前は?」


彼女は少し考えてから、窓の外を見た。


「たぶん、もう忘れられてる」


それだけ言って立ち上がる。電車が減速し、今度こそ本物のホームが見えた。白いLED照明、自販機、黄色い点字ブロック、見慣れた広告。深夜の無人駅。現実の輪郭が戻ってくる。


ドアが開く直前、彼女は振り向いた。


「帰ったら、昔のことを少しだけ思い出してから寝たほうがいいよ」

「え?」

「それだけで、間違わなくなることがあるから」


ドアが開き、冷たい夜気が流れ込んだ。


一瞬まばたきをした。


次の瞬間、車内に彼女の姿はなかった。


僕はホームに降りた。終点のひとつ手前、見慣れた乗換駅だった。時刻は0時44分。スマホはいつの間にか電波が戻っていて、友人からのどうでもいいメッセージが届いていた。たった一分しか経っていない。


振り返ると、電車は普通の終電だった。車内には誰もいないように見えた。発車メロディが鳴り、ドアが閉まる。窓の向こうに、ほんの一瞬だけセーラー服の影を見た気がしたが、すぐに自分の顔が映るだけになった。


翌日、実家に電話をかけた。


母は少し驚いていた。用もないのに電話することなんて、ほとんどなかったからだ。たわいもない話をして、最後に、昔なくした定期入れの話をした。すると母は笑って、「そんなのあったね」と言ったあと、思い出したように続けた。


「あんたがなくしたあと、おばあちゃんの荷物整理してたら、似たようなのが出てきたのよ。中に五百円玉入ってて。形見みたいで捨てられなくて、まだ実家の引き出しにあるはず」


喉の奥が熱くなった。


なんだ、戻ってきていたのか。


ずっと前に。


電話を切ったあと、窓の外を見ると、夕暮れの街に電車の灯りが流れていった。どの窓の向こうにも、それぞれの帰り道があるのだと思った。帰れた人も、帰れなかった人も、忘れた人も、忘れられた人も。


その夜、眠る前に部屋の電気を消すと、一瞬だけ、あの闇を思い出した。


窓の外には何もなく、電車だけが走っている。


けれど今は、その暗さが少しだけ怖くなかった。


あの子がまだどこかで、名前もない駅を通り過ぎている気がしたからだ。

そして、もしまた終電で窓の外から光が消えたとしても、僕はきっと前ほど怯えないだろう。


懐かしいものは、ときどき人を連れていこうとする。

でも同時に、ちゃんと帰してくれることもあるのだ。

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