終電に乗っていた。気がつけば窓の外には一切の光がなくなっていた。
終電に乗っていた。気がつけば窓の外には一切の光がなくなっていた。
最初は、トンネルに入ったのだと思った。
けれど、妙だった。いつまでたっても車内の窓は黒いままで、向こう側に自分の顔しか映らない。吊り革が揺れるたび、ガラスの中の自分も少し遅れて揺れるように見えた。車輪の音は規則正しく続いているのに、ホームに滑り込む気配がない。
終電の車両には、僕を入れて四人しか乗っていなかった。
向かいの端に、くたびれたスーツの男がひとり。優先席のあたりで眠っている女の人がひとり。ドア脇には、紺色のセーラー服を着た女子高生が立っていた。みんな静かで、みんな疲れた顔をしていた。春休み前の試験が終わったばかりの僕も、その仲間に違いなかった。大学のレポートを出し終えて、イヤホンを外したばかりだった。
車内アナウンスが流れた。
「——まもなく、まもなく——」
そこで途切れる。
雑音もなく、ぷつりと。
僕はスマホを見た。圏外だった。バッテリーは残り十二パーセント。時刻は0時43分で止まっていた。画面を消すと、黒い窓に映った僕の背後で、セーラー服の子がこちらを見ていた。
振り返ると、彼女は窓の外を見ていた。
喉がひりついた。
なんだよ、と自分に言い聞かせる。寝不足だ。帰ったらカップ麺でも食って、風呂も入らず寝よう。そう思うのに、胸の奥だけがじわじわ冷えていく。
次の瞬間、列車がゆるやかに減速した。
ホームに着く。そう思って窓の外を見たが、やはり何もない。ただ黒だけが、べたりと張りついていた。やがて電車は止まり、ドアが開いた。
開いたはずなのに、外の景色が見えない。
ドアの向こうにも、夜より濃い闇があるだけだった。ホームの照明も、駅名標も、自販機の白い光さえない。まるで駅というものだけが、世界から削り取られたみたいだった。
眠っていたはずの女の人が、するりと立ち上がって降りた。
ためらいがなかった。
スーツの男も続く。降り際に一度だけこちらを見た。その顔は妙に青白く、見覚えがあるような気がした。どこで見たんだろう。思い出せない。僕が高校生のころ、駅前のコンビニで夜勤をしていた店員に似ていた。
ドア脇のセーラー服の子だけが残った。
やがてドアが閉まり、電車はまた走り出した。
「……今の、駅?」
思わず声に出すと、セーラー服の子が答えた。
「駅だよ」
小さな声だった。意外なくらい普通の、落ち着いた声。
「降りなくてよかったの?」
「まだだから」
彼女はそう言って、つり革にもつかまらず立っていた。年は僕より少し下に見える。肩につかないくらいの髪。白い靴下。今どき見ないくらい古い形の学生鞄。どこか昭和っぽいというか、写真の中から出てきたような輪郭をしていた。
「君、どこまで行くの」
「海の見える駅」
「この路線にそんな駅あったっけ」
「昔はあったのかもね」
妙な言い方をする子だった。
車内の蛍光灯が、一瞬だけ明滅した。その瞬間、窓に映る景色が黒ではなくなった。
海だった。
いや、海に見えた。真夜中の水面みたいなものが窓いっぱいに広がって、鈍い月明かりのようなものが揺れていた。電車はその上を走っているようだった。レールの音が、どこか遠い夏の音に変わる。子どものころ、祖母の家へ向かうローカル線で聞いた音だ。窓を開けると潮と鉄の匂いがした。扇風機がぶうんと回る古い車両で、向かいに座った母が、眠そうな僕の頭を膝に引き寄せてくれた——そんな記憶が、何の前触れもなく胸の底から浮かんできた。
「懐かしいでしょ」
いつの間にか、彼女が僕の隣に座っていた。
びくりとして身を引くと、彼女は少し笑った。
「そういう顔、みんなする」
「みんな?」
「ここに来る人」
その言葉の意味を考えたくなかった。
僕は窓の外から目をそらして、足元を見た。床には砂が落ちていた。細かい、湿った砂。誰かが海辺からそのまま乗ってきたみたいに。さっきまでなかったはずなのに。
「これ、どこなんだ」
「たぶん、帰れなかった人が通るところ」
「は?」
「帰りたい場所のある人が、たまに間違って乗るの」
冗談にしては、彼女は真顔だった。
「そんなわけないだろ」
「じゃあ、どうして窓の外に光がないの」
「……」
「どうしてスマホが圏外なの」
「……」
「どうして、さっき降りた人の顔を知ってる気がしたの」
言い返せなかった。
たしかに知っている気がした。でも、いつどこで見たのか思い出せない。思い出せないはずなのに、胸の奥だけがいやにざわつく。その感じも、少し懐かしかった。昔住んでいた団地の、もう誰も使っていない遊具を見たときみたいな、不安と親しさが混じる感覚。
電車はまた止まった。
今度は、窓の外にぼんやりと光があった。
小さな駅だった。木造の古いホーム。白熱灯みたいな色のランプが二つ、弱々しく灯っている。駅名標は錆びて読めない。ホームの向こうには背の低い商店街が見えた。もう何十年も前に閉まったような玩具屋、赤い郵便ポスト、軒先で風に揺れる風鈴。
夏休みの匂いがした。
「降りる?」
彼女が聞いた。
「ここ……」
「たぶん、あなたが昔なくしたものがある駅」
言われた瞬間、胸が詰まった。
小学校三年の夏、父方の祖母が亡くなって、家族で海辺の町へ行ったことがある。帰りに乗った古い電車で、僕は青いプラスチックの定期入れをなくした。なかには祖母がくれた五百円玉が入っていた。ただの五百円玉。でも、僕にはお守りみたいに思えた。結局見つからなくて、そのことをなぜか長いあいだ引きずっていた。
ホームのベンチに、青い何かが置いてあった。
立ち上がりかけた僕の袖を、彼女がつかんだ。
冷たい手だった。
「行ったら、戻れないかも」
「……でも」
「懐かしい場所って、優しいだけじゃないよ」
その言い方が妙に大人びていて、僕は彼女の横顔を見た。彼女もまた、どこかへ帰れなかった人なのかもしれない。そう思うと、急に聞きたくなった。
「君は?」
「私は、毎晩ここを通るだけ」
「家はないの」
「昔はあった」
ドアが閉まりかける。
ホームの青いものが、闇の中で小さく光った。
僕は動けなかった。
やがて電車はまた走り出し、駅の灯りは遠ざかった。彼女は袖から手を離し、かすかに息をついた。それが安堵なのか、落胆なのかは分からなかった。
「正解だったのかな」
「たぶんね」
「たぶん?」
「正解がある場所じゃないから」
それからしばらく、ふたりとも黙っていた。
車内には、どこからか古い扇風機の回る音が混じり始めていた。そんなものこの電車にはついていないはずなのに。僕は急に、自分が子どものころに乗ったいくつもの電車を思い出した。祖父に連れられて行った動物園、遠くの親戚の家、受験の日の始発、入学式の帰り。どの記憶にも、ホームの匂いと、発車ベルと、別れ際の手の感触がくっついていた。
電車は、人を運ぶだけじゃない。
たぶん、置いてきた時間のそばも通るのだ。
「次で終わり」
彼女が言った。
前を見ると、運転席の向こうに、やっと光が見えた。小さな、頼りない光。でも今まで見たどんな光より現実に近かった。コンビニの看板みたいな、安っぽくて安心する光。
「最後の駅?」
「あなたの」
「君は?」
「私は行けない」
彼女は笑った。さびしい笑い方だった。
「ねえ」
僕は気づくより先に口を開いていた。
「君、名前は?」
彼女は少し考えてから、窓の外を見た。
「たぶん、もう忘れられてる」
それだけ言って立ち上がる。電車が減速し、今度こそ本物のホームが見えた。白いLED照明、自販機、黄色い点字ブロック、見慣れた広告。深夜の無人駅。現実の輪郭が戻ってくる。
ドアが開く直前、彼女は振り向いた。
「帰ったら、昔のことを少しだけ思い出してから寝たほうがいいよ」
「え?」
「それだけで、間違わなくなることがあるから」
ドアが開き、冷たい夜気が流れ込んだ。
一瞬まばたきをした。
次の瞬間、車内に彼女の姿はなかった。
僕はホームに降りた。終点のひとつ手前、見慣れた乗換駅だった。時刻は0時44分。スマホはいつの間にか電波が戻っていて、友人からのどうでもいいメッセージが届いていた。たった一分しか経っていない。
振り返ると、電車は普通の終電だった。車内には誰もいないように見えた。発車メロディが鳴り、ドアが閉まる。窓の向こうに、ほんの一瞬だけセーラー服の影を見た気がしたが、すぐに自分の顔が映るだけになった。
翌日、実家に電話をかけた。
母は少し驚いていた。用もないのに電話することなんて、ほとんどなかったからだ。たわいもない話をして、最後に、昔なくした定期入れの話をした。すると母は笑って、「そんなのあったね」と言ったあと、思い出したように続けた。
「あんたがなくしたあと、おばあちゃんの荷物整理してたら、似たようなのが出てきたのよ。中に五百円玉入ってて。形見みたいで捨てられなくて、まだ実家の引き出しにあるはず」
喉の奥が熱くなった。
なんだ、戻ってきていたのか。
ずっと前に。
電話を切ったあと、窓の外を見ると、夕暮れの街に電車の灯りが流れていった。どの窓の向こうにも、それぞれの帰り道があるのだと思った。帰れた人も、帰れなかった人も、忘れた人も、忘れられた人も。
その夜、眠る前に部屋の電気を消すと、一瞬だけ、あの闇を思い出した。
窓の外には何もなく、電車だけが走っている。
けれど今は、その暗さが少しだけ怖くなかった。
あの子がまだどこかで、名前もない駅を通り過ぎている気がしたからだ。
そして、もしまた終電で窓の外から光が消えたとしても、僕はきっと前ほど怯えないだろう。
懐かしいものは、ときどき人を連れていこうとする。
でも同時に、ちゃんと帰してくれることもあるのだ。




