避暑と毒液
俺は暑いのが嫌いだ。体温が上がりやすい質だし、暑いと肌がチクチクする体質なんだ。まぁ寒くても痒くはなるけど。まぁ、夏か冬なら圧倒的に冬の方が耐えられるね。
ところで時は6月に入って少し経った頃。すっかり蒸し暑くなって、もう夏に入ったのかと勘違いしてしまう。まぁ、立夏が5月で夏至が6月なのを考えれば、これだけ暑いのも已む無しか。実質夏。しかしエアコンをつけると電気代が怖いから、できれば7月に入るまでは換気と冷たい麦茶だけで乗り切りたいところだ。去年まではそれでいけてたし、今年も何とかなってほしい。
そんなある日のこと。朝起きると、珍しくモリイさん(今日はイモリの日)が廊下に出てきていた。あのひと、『モリイさんの日』は大抵風呂場に引きこもってるから、わざわざ入らないと顔を見られないんだよな。
モリイさんもこちらに気付いたようで、廊下から部屋に入ってきた。
「おはよう、モリイさん」
「おはよ、家主…………あつい……」
モリイさん、少し血色が良くなってる気がしたが、暑さで火照っていただけか。
「暑いよなぁ。モリイさんだいぶ体調危なそうだし、冷たい麦茶をお飲み?」
グラスに麦茶を注いで渡すと、モリイさんはそれを両手で受け取り、時間をかけてちびちびと飲み干した。彼女がグラスをテーブルに置いたタイミングで、声をかける。
「しかし珍しいね、モリイさんが出てくるの。そんなに暑かった?」
「うん…………汗も、ひんやりしない……」
モリイさんの体表は、汗(というか粘液)で全身じっとりとしている。
「……まぁ、そんな粘度の高い汗じゃ気化熱は期待できなさそうだもんなぁ…………」
「それで、家主……その、あの……」
モリイさんがこちらの目をまっすぐ見て何か言おうとしたが、すぐに言い淀んでしまい、目を泳がせた末に再び黙り込んでしまった。
「どうしたモリイさん? 何かあるなら遠慮なく言ってくれて良いぞ?」
「……本当?」
「うん。ハユリさんから、モリイさんが何か頑張ってくれてるらしいってのは聞いてるし。モリイさん良い人だから、多少の注文は聞くよ?」
「じゃ、じゃあ……それじゃ、その…………や、家主。えと、こ、こんなことを、頼むのは、図々しいのだけれど…………」
「めっちゃ遠慮しいじゃん」
ハユリさんでさえここまで前置き挟まないぞ。
「ごめん……」
「気にしないで良いよ。それで? 何か頼み事?」
「あ、その…………家主が許すなら…………み、水を……」
「水?」
「水を、槽に、満たして、良い?」
なるほど、水浴びか。冷たい水に浸かって暑さを凌ぐってのは、原始的だが良い手だよな。
「良いよ。やり方分かる?」
「……良いの?」
「もちろん。俺も暑いのは苦手だし。それでモリイさんが快適に過ごせるなら、そのくらいは構わないよ」
そう答えると、モリイさんの目に光が宿った。このひと、いつも死んだ魚の目してるから、ここまでキラキラした目をしてる姿は新鮮だな。
「ありがとう、家主……! やはり善き者……!」
モリイさんは深く頭を下げると、小走りで浴室に引っ込んでしまった。少し時間を置いて、蛇口が水を吐き出す音が聞こえてくる。…………この反響音の感じ、もしかしてさっき言ってた『オケ』って手桶じゃなく浴槽のことだったりする?
「…………ま、まぁ、うん。どうせなら広々使いたいもんな……」
仮に『モリイさんの日』の度に水風呂させた場合、水道代がどうなることやら…………まぁ、一度言ってしまったものは仕方がない。諦めて受け入れよう。
大学に行く準備をしようと振り返ると、ハユリさんがゼロ距離に無言で立っていた。
「わぁっ、ハユリさん⁉ おはよう……?」
「おっ、おはようございます、恩人さんっ。わ、わたしにも麦茶くださいっ」
「え、うん。やっぱりハユリさんも暑いのキツい?」
「んー、寒いのよりかは楽ですかねぇ」
「そっかぁ」
ハユリさんに出す麦茶の用意ついでに、モリイさんが使ったグラスを片付けるため、台所に向かった。
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康祐が大学に行くために部屋を出てから1時間ほど経った頃。
三角コーナーに寄り付く羽虫を1匹ずつ細糸で巻き取り一塊にまとめていた結衣は、浴室から聞こえる水音に動きを止めた。羽虫と糸の塊を左手で弄びながら浴室の扉に忍び寄り、空いた右手で静かに扉を開ける。目だけを動かして室内を探ると、冷水を溜めた浴槽に浸かる守井の姿があった。太く長い尻尾は前後左右に大きく揺れており、その動きが水面に波を立ててちゃぷちゃぷと音を鳴らしていたのだ。
結衣は手にしていた『おやつ』を一口で平らげると、扉を完全に開け放ち浴室に突入する。
「もりー、もりー」
「ん……先輩……?」
「何してるの?」
「……暑いから、水で、身体を、冷やしてる。先輩は、平気なの?」
「ユイはへーき。ユイはひんやりしてるの。おにーさんが言ってた。さわる?」
「触らない。先輩が危ないから」
「んー…………」
結衣はしばらく虚空に目を泳がせ、不意に守井の頭に手を伸ばす。それに対して守井は「シィィィィ……」と息を漏らすように威嚇して牽制した。
「だめなの?」
「駄目。映李先輩の手がどうなったか、覚えてない?」
「みてない」
「む……私の体液は、理外のモノには猛毒になるの」
「リガイの…………モノ?」
きょとんとして首を傾げる結衣に守井は溜め息を吐き、浴槽の中で姿勢を正した。
「人の身に化けられる蜘蛛とか、そういうの」
「ユイも?」
「そう。この水も、私の毒が染み出してると思うから……」
「…………ただのクモなら、へーき?」
「何も無くたって、イモリの粘液は、毒なの」
「んー…………」
結衣はその場でイエユウレイグモに姿を変えると、浴槽の縁に着地した。守井はそれを追い払うこともできず、動向を見守る。クモ姿の結衣は、濡れたセラミックの上をしばらく彷徨い、突然浴槽内に身を投げた。
「先輩!?」
守井は反射的に手桶を拾い、結衣を掬い上げる。手桶が浴槽の縁に置かれると、イエユウレイグモは手桶からゆっくりと這い出し、人型に再変化した。
「せ、先輩……平気……?」
「へーき……! ひんやりした……!」
「だ、大丈夫、なら、良かった…………」
結衣は浴室の扉の方に向かうと、顔だけを廊下に出して軽く見回した。すぐに目当ての人物を発見し、腕を出して手招きする。
「おねーさん、おねーさん……! こっち来て、たのしい……!」
「はぇ? ユイちゃん、どうしたんですか?」
天井付近で新たな巣を張っていた映李は浴室の前に着地し、結衣の誘導に従って中を覗き込む。
「あっ、モリイさん。ユイちゃんがご迷惑をおかけしませんでしたか?」
「う、うん、平気…………」
結衣は映李の袖を引いて、浴室内へ引きずり込む。
「あのね、おねーさん。クモの姿だと、もりーとくっついても、へーきなの」
「はぇ⁉ ユイちゃんモリイさんに触ったんですか⁉ 危ないって恩人さんから言われたでしょう!?」
「おぼえてない。でもへーきだったよ?」
「いや、直接接触したわけじゃないし……結衣先輩は、飽くまで水に入っただけで……」
守井の訂正に、映李は半ば無意識に浴槽内の水に指を浸ける。
「痛だぁっ!?」
「だから……毒が、溶け出してるって…………映李先輩には、まだ、言ってなかった……」
「うぅ……ユイちゃん、ここに入って大丈夫だったんですか?」
結衣は心なしか得意げな表情で胸を張り頷く。映李は結衣と守井を交互に見比べ、一瞬の逡巡の後にクモ姿に変化した。縁にかけられていた守井の手の甲に着地すると、そのまま鱗に覆われた肌の上を這いあがっていく。守井は目を見開いて硬直し、抵抗もできずそれを見守るしか無かった。
やがてクモ姿の映李は守井の頭頂部まで到達すると、跳び上がって人型に変わり、浴室床に戻った。
「すごいです、ユイちゃん、モリイさん! 本当に平気でした!」
興奮気味に語る映李に結衣は小さく拍手し、自らもクモ型に変化して守井の頭に着地した。後を追うように映李もアダンソンハエトリに姿を変え、守井にじゃれつく。
「う、うぁ、あぅ、先輩がた…………」
守井は2匹のクモが水中に落ちることが無いよう身体を強張らせたまま半身浴を続け、数時間後に家主が帰ってくるのと同時に助けを求めて浴室を飛び出したのだった。




