第36話 寝取られた俺が、“あいつの本命彼女”と一線を越えた夜
「……俺にぐらい、迷惑かけろよ。
それぐらいの存在には、なりたいと思ってる」
詩乃は、俺の言葉に少しだけ驚いた顔をして――
そして、ふっと、力の抜けた笑みを見せた。
「……直哉さんって、やっぱり優しいね」
「それ、褒めてる?
それとも、ちょいとバカにしてる?」
「七三で褒めてる」
「おい、残り三割の中身は何だよ。
地味に気になるやつじゃんそれ」
俺の冗談に、詩乃は小さく笑った。
……ちゃんと、笑ってた。今度は、心の底から。
その笑顔に、安心したような、逆に胸が締めつけられるような、
両方の感情が混ざって、うまく言葉が出てこなかった。
気づけば、俺はそっと手を伸ばしていた。
「……詩乃」
「……ん」
俺の手を、詩乃がそっと握り返してくる。
ぬくもりが、ちゃんとそこにある。
黙ったまま、しばらくの時間が流れる。
詩乃の、その瞳に映ったのは、怯えでも義務感でもなくて――
ほんの少しの、覚悟だった。
「私……怖いよ。たぶん、これからいろんなことがあるって、わかってるし」
「ああ」
「でも……直哉さんと一緒なら、前に進めるって、思ってる」
静かなその言葉が、胸に染みた。
俺も、怖い。でも――
それでも、この手を離しちゃいけない気がした。
「……詩乃」
もう一度、名前を呼んだ。
そして、そっと体を近づける。
詩乃は、目を閉じた。
お互いの気配が、ぴたりと重なったとき――
――そっと、唇が触れ合った。
柔らかくて、まだ震えていて、ほんの少し甘い匂いが鼻先をくすぐる。
初めての感触に、詩乃の肩が小さく震えた。俺の心臓も同じように跳ね上がる。
逃げない。
彼女は目を閉じて、受け入れてくれていた。
触れるだけのはずが、時間が止まったみたいに長く感じる。
唇がかすかに擦れ合い、互いの吐息が溶け合う。
その温度が胸の奥にじわじわと染み込んでいく。
――これが、詩乃のファーストキス。
その事実が胸に重くのしかかる。
彼女にはまだ“恋人”がいるのに。俺は奪ってしまった。
その“初めて”は、本来ならあいつのものだったはずなのに。
罪悪感が喉を締めつける。
なのに、同じくらい、いや、それ以上に幸福感が溢れ出してくる。
もし、詩乃の隣にいるのが普通の男だったら。
俺は、幸せだなんて想いを抱くことすらなかっただろう。
罪悪感でおかしくなっていたはずだ。
けれど――相手は神崎だ。
あんな奴に壊されるくらいなら、この背徳ごと俺が抱きしめたい。
今はもう、罪悪感さえ愛おしかった。
恋人がいる少女と口付けしている現実が、矛盾ごと愛おしい。
そう思えるほど、詩乃とのキスは甘く、尊いものだった。
「……んっ」
微かに零れた彼女の吐息が、耳の奥をくすぐる。
そのか細い声が背筋を痺れさせ――同時に、胸の奥に罪の痛みを呼び覚ます。
恋人がいる少女と口付けしている。
その背徳が、嫌でも脳裏を叩きつけてくる。
……なのに。
今は彼女の吐息を聞いただけで、胸が高鳴る想いの方が勝ってしまう。
その吐息は、あいつには絶対に向けられなかったものだ。
罪悪感よりも、心臓を跳ねさせる幸福感の方が、ずっと強かった。
俺の人生で、一番最低で、一番幸せな瞬間を同時に過ごしている。
幸福と背徳が絡み合って、胸の奥でぐちゃぐちゃに溶け合う。
――その時だった。
ふわりと細い腕が俺の背に回った。
驚いて目を開けると、詩乃が小さく俺を抱きしめていた。
触れ合う鼓動が、どちらのものか分からないほど速く脈打っている。
俺が奪ったんじゃない。
彼女が、自分の意思で差し出してくれたんだ――そう思わせてくれる抱擁だった。
背徳感と幸福感でぐちゃぐちゃだった心が、少しずつ溶けていく。
唇を離して見つめ合った瞳の奥には、確かな光があった。
『これは、私が選んだこと』
――言葉ではなく、瞳がそう告げていた。
震える肩を押しつけながら、詩乃は小さく息を吐いた。
その吐息には迷いよりも決意が混ざっていた。
『――たとえ背徳でも、直哉くんとなら』
詩乃はそっと顔を上げ――
今度は、彼女の方から唇を重ねてきた。
小さく、でも迷いのない口づけ。
吐息が重なり合うたび、背徳も罪も甘さに溶けていく。
胸の真ん中を優しく抱きしめられるような感覚だった。
――そうか。幸せなキスって、こういうことを言うんだ。
もうこれは、罪じゃなかった。
残ったのは、彼女への愛しさだけだった
キスが終わった後、詩乃は何も言わずに、そっと俺の肩にもたれかかった。
体温が、じわりと染み込んでくる。
「ねぇ……直哉さん」
名前を呼ばれただけで、胸の奥がほんの少し熱くなる。
「どうした、詩乃」
しばらく黙っていた詩乃が、少しだけ迷ったように口を開いた。
「……これからは、“直哉くん”って呼んでもいいですか?」
不意を突かれて、一瞬だけ言葉に詰まった。
でも、すぐに笑みがこぼれる。
「ああ、全然いい。むしろ、大歓迎だよ。
“直哉くん”って呼ばれるたびに寿命が延びそうだわ」
詩乃がくすっと笑って、小さく頷く。
「……じゃあ、これからも、よろしくね。直哉くん」
その呼び方が、妙にくすぐったくて。
でも、どこまでも優しくて。
まるで、名前まで大切にしてくれているような声だった。
“直哉くん”って呼ばれるだけで、この選択が間違いじゃないって思える。
俺は――このぬくもりを、もう二度と手放したくなかった。
◇ ◇ ◇
修学旅行、最終日の朝。
京都駅の構内は、生徒たちの話し声と足音で活気に満ちていた。
お土産袋を手に、集合場所を探すやつ。最後の観光写真を撮ろうとするやつ。
名残惜しそうにスマホを見つめてるやつもいた。
……みんな、なんだかんだ、ちゃんと修学旅行してんな。
そんな喧騒のなかで、俺は少し離れた場所から、あの二人を見ていた。
神崎と、詩乃。
並んで立つ姿は、昨日と同じように見える。
神崎はスマホをいじってて、詩乃はおとなしく横に立っていた。
一見すれば――ってやつだ。
パッと見には、仲良さげなカップル。
でも、俺には分かる。
詩乃は、笑っていた。けど、それは――
作らされた笑顔だった。
口角だけががんばって上がっていて、目の奥が置いてけぼりだ。
……それでも。
その目は、昨日までとは違ってた。
苦しさに沈んでた光が、今日はほんの少しだけ、前を向いてた。
泣きそうな目じゃない。折れそうな光でもない。
『もう、大丈夫』
――どこか、そんな風に見える目だった。
その時、神崎がスマホの画面に目を落とした。
ほんの数秒、詩乃から視線が外れた――そのタイミングで、
詩乃の目が、ふっとこっちを向いた。
――目が、合った。
偶然かもしれない。でも、まっすぐだった。
まるで最初から、そこに俺がいることを知ってたみたいに。
そして。
――にこっ、と。
その笑顔が、ぱっと咲いた。
自然で、あったかくて、優しい笑顔。
――あれは、間違いなく、素の詩乃の笑顔だった。
……思い出してくれたんだ。
昨夜のこと。名前を呼びあったこと。
距離も、会話も、ぬくもりも。
それがまだ、詩乃のなかにも残ってるなら、それだけで俺は――
――いや、ダメだ。
それだけじゃ足りない。もっと欲張りたくなる。
守ってやりたいじゃない。
一緒に笑っていたいんだ。
誰かの機嫌を取るために笑うんじゃなくて、
心から笑える日々を、俺が隣で作っていきたい。
あいつの隣にいる限り、詩乃はまだ、きっと傷つくだろう。
でも――もう、迷わない。
あの日、文化祭の日に決めたんだ。
詩乃を救い出すって。
詩乃は、まだ俺を見てる。
――だったら俺も、ずっと見てる。
たとえ世界が間違いだと言っても――
この想いだけは、真っ直ぐに信じられる。
※お読みいただき、ありがとうございました。
修学旅行編はこれで幕引き。次回は幕間を挟んで、その次からはいよいよ終盤です。
雪村先生への相談、そして、美咲からの決定的な証拠――
また、タイムリミット前に訪れる詩乃の誕生日。
そのひと時の後、直哉たちはついに神崎との最終決戦へと挑みます。
物語も大詰めになってきましたが、是非ご期待ください。
直哉と詩乃の初めてのキスに少しでも感じるものがあったり、今後の展開が気になる方は、是非、ブクマや評価、感想をいただけると、とても励みになります。




