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第14話 “彼氏いるのに嬉しい”とか言われたら、もう無理なんだが


 次に入ったのはクラシカルな喫茶店。


 カーテンで外の光を遮った室内は、昼間なのにどこか静かで落ち着いていて、

 まるで、外の喧騒とは切り離された別世界みたいだった。


「え、ここ時代設定どこ? 昭和? 大正?

 やけに空気がしっとりしてんだけど」


 俺がそう言うと、詩乃はそっと微笑んだ。


「文化祭の喧騒の中に、ぽつんと残された避難所みたいですね」


 照明は控えめで、テーブルとテーブルの間隔もやや広め。

 誰の視線も届かないこの空間に、妙に心臓がざわついた。


 だって、今ここにいるのは――

 “他人の彼女”と、“ただの協力者”のはずの俺。


 だけど、そのはずなのに。


「……直哉さん」


 ふいに、詩乃が名前を呼んだ。


 その声音が、まるで、恋人に話しかけるような、熱のこもった呼び方だった。


「ん?」


「……こうして、ふたりきりで歩いてるのが、

 嬉しいって思ってしまって……ごめんなさい」


 視線を伏せる彼女の頬が、ほんのりと赤い。

 そして、その表情には――確かに罪悪感が混じっていた。


「……別に、謝ることじゃないだろ」


「でも……彼がいたら、きっと叱られてました。

 “他の男と楽しそうにするな”って……いつも、そういう人だから」


 ぽつりと漏らしたその言葉に、胸の奥がぎゅっとなる。


「……詩乃は、それが苦しいのか?」


「わかりません……ずっと、それが普通だったから」


 それは、長く染みついた感情の鎖。


 詩乃は、そう言って笑おうとした。

 けどその表情は、どうしようもなく弱くて、苦しそうで――

 俺は、言葉を選ばずに口にしてしまっていた。


「……だったら、今だけでもいいから、笑ってくれよ」


「え……?」


「それを言われたら、俺もさ……なんとかして笑わせたくなるんだよ」


 それは、劇の時に言うはずだったセリフかもしれない。

 でも今は、完全に素の言葉だった。


 詩乃は目を見開き、次第に――潤ませて、ふっと笑った。


「……それ、反則です。直哉さん」


 ふと、その手がテーブルの端に置かれる。

 あと十センチ伸ばせば、指先が触れる距離。


 でも俺は――動けなかった。

 この感情が、ただの同情じゃないことに気づいてしまったから。


 ――なのに、詩乃は言った。


「……こうしてると、ほんとに恋人みたいですね」


 瞬間、心臓が跳ね上がった。

 声が小さくて、でも妙にドキッとする言い方だった。


 ――それを言われたら……


「……なあ、詩乃」


「……はい」


「俺が演技のデートに付き合ってるのって、

 ただ、詩乃に同情してやってるのかと思ったんだよ」


「……直哉さん」


「でも、そうじゃなくて――

 今、目の前にいる“詩乃自身”を、ちゃんと見たいからだって、分かったんだ」


 言い終えたあと、詩乃はしばらく黙っていた。


「……そんな風に言ってもらえるなんて、反則です」


 俯いたまま、詩乃の唇がわずかに震える。


「たださ、この関係を続けているのが……その……

 浮気のように思うところもあってな……」


 詩乃は一瞬、唇を噛みしめた。

 まるで、正しい答えが分かっているのに、言い出せずにいる子どものようだった。


「私、きっと……わかってて、甘えてる」


 自嘲するような声なのに、その目はどこか潤んでいて。


「この時間がずっと続いたらいいのに、なんて――

 そんなこと、考えてしまったんです」


 笑顔のまま呟いたその声は、どこか苦しげだった。


「でも、それが許されないって、ちゃんと分かってます。

 終わらせなきゃいけないのも、私なんです。

 でも……」


 小さく息をのむ。

 まつげがかすかに揺れて、声がわずかに震える。


「でも、それが“今”じゃなかったらいいなって……そう、思ってしまって」


 笑っているはずなのに、その表情は、今にも泣き出しそうだった。


「また……神崎さんのところへ戻ったら、辛い現実が待ってるんです」


 それは、誰に言うでもない、小さな独白だった。


「辛い現実って――神崎って、こういうのはなんだが……けっこう異常なのは分かった。

 だけど、そこまでヤバい奴なのか?」


 今までの詩乃の話や俺が受けた仕打ちから、性格が終わってるのは間違いない。

 そして、詩乃は神崎へ異常に怯えている。


 演劇の練習で、詩乃が手を繋いだり、人と接する行為にためらいを感じているように見えた。

 だから、もっと深く知りたかった。


「……怖い、とは少し違うかもしれません…怒鳴ったりはしませんから。

 でも……私が誰かと、少しでも仲良くすると、目の奥が笑ってなくて……

 “また俺以外と話してたね”って“詩乃は俺よりあいつが大事なんだ“、って詰められて……

 “悲しかったよ”とか、“詩乃は俺を傷つけて楽しいの?”って……」


 詩乃の表情に、明確な疲れが滲んでいた。


 ……俺もDV元カノに似たような事言われたっけ……


 ……もしかして、詩乃って神崎から相当なDVを受けてるんじゃ……?

 そんな邪推をしてしまった。


「……これが浮気なら、私が浮気をしてない彼女だった時期なんて、

 最初から一日もなかった……」


 ぽつりと漏らされたその言葉は、あまりにも静かで。

 だけど、それだけに――深く、刺さった。


 彼氏に信用されず、束縛され、

 自分の言葉や笑顔すら、相手を傷つける武器にされる毎日。


 ……じゃあ、いま隣にいるこの時間は――

 彼女にとって、ほんの少しの救いなんじゃないか。


「だから……せめて今だけは、こうして2人でいること、許されないでしょうか……?」


 その言葉には、甘えでも誘惑でもなく――

 ただ、どうしようもない“願い”が滲んでいた。


 ……それを言われたら、俺の答えは、ひとつしかなかった。


「――今ぐらいは、いいんじゃないか」


 少しだけ軽口をまじえて、でも、できる限り優しく言う。


「心を休ませるくらい、バチは当たらないって」


 詩乃は、小さく笑った。

 けれどその目は、どこか寂しげで。


 甘さと背徳感の入り混じった空気の中――

 俺たちは、しばらく黙っていた。


(……詩乃がズルいなら、俺も同じだよな)


 他人の彼女だと知りながら、詩乃との関係を楽しんでいる。

 それが、いちばん卑怯なのかもしれない。


 ――だけど、俺は先日の練習での詩乃の震え。

 そして、今日の彼女の話で覚悟を決めた。



 俺が、彼女を――



 ……詩乃へは演劇の舞台の本番の場で、その答えを告げる。



 カーテンの向こうから、文化祭の喧騒がかすかに届く。

 でも、ここはもう――別世界だった。




 帰り道。


 昇降口前で靴を履き替えたあと、並んで校門を出た。


 空は、すっかり夕焼けに染まっていた。


 この一日、詩乃と一緒にいた時間が、やけに短く感じたのはきっと――楽しかったからだ。


「じゃあ……今日はありがとうございました。私、とても……」


 詩乃がそう言いかけて、ふと、口元を緩める。


「……いえ。なんでもありません」


 そのまま、彼女は小さく会釈した。


 そして、ふいに――


「――また明日ね」


 その一言は、あまりにも自然で。

 まるで――本当に、恋人みたいな空気だった。


 「――っ……」


 詩乃は、自分で言った言葉に気づいたように、ふいに息をのむ。


 自分で気づいた瞬間、詩乃の顔が一気に赤くなる。


「ち、違います。演劇の本番のことです。……そういう意味で言っただけで…!」


 慌てて言い訳する彼女に、俺は思わず笑ってしまった。


「ほーい、演劇の本番ね。ぜったい間違えないように気をつけまーす」


 そう言うと、ぷいと顔をそむけた彼女の横顔には、

 ほんのりと、嬉しそうな色がにじんでいた。



 ……なあ、俺。

 いつから他人の彼女とのデートで、こんなにドキドキする男になったよ。




  ◇ ◇ ◇




 けど、俺はまだ知らなかった。


 このあと。文化祭の劇の本番のあとで――

 詩乃が神崎から受けている、本当の支配を。


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