記憶を失ったレイちゃんは鏡の中
私は、ウトウトと微睡んでいた。
いつからだろう? 長かった気もするし、ほんのわずかな時間だった気もする。
人々のざわめきが聞こえてくる。その中でも、ひときわ私の気を引く声が飛び込んできた。
「あっ、このコンパクトミラー素敵! すみません、これ触ってみてもいいですか?」
素敵? 当然じゃない。彼から貰った大切な私の宝物だもの。
「いいですよ。どうぞ手に取ってみて」
「美咲は、そのコンパクトを気に入ったの?」
「うん。すごく綺麗」
美咲と呼ばれた子の声が、嬉しそうに弾んでいる。
そうでしょう? 私も気に入っているの。
私は得意げに、そう思った。
「ちょっと傷があるから、お安くしておくわよ? 一応言っておくけど、返品不可だからね。どう?」
「買います!」
私の宝物に傷があるですって!? 大切に扱っていたのに……なぜ? それに買うって、どういうこと?
私はようやく、自分の置かれた状況が異常だと気付いた。
「どういうことなのです? ここはどこなのですか?」
私は思わず叫んだ。
あれ? 声に違和感を覚えた。まるで自分の声じゃないみたい。
「なんか変なのです。それにこの口調。さっきからおかしいのです。あっ! あれは出口ですか!」
少し離れたところに、まるい扉のようなところがあった。
あれ? うまく走れない。チョンチョンと跳ねながら、なんとかたどり着くと、そこは鏡だった。
「ひっ!」
私は思わず後ずさった。するとカラスも一歩後ろにさがる。
目を閉じてゆっくり深呼吸をする。
見間違いよ。人間と同じ大きさのカラスなんているはずないじゃない。
ゆっくり目を開く。
やっぱり、そこにはカラスがいた。
パチパチとまばたきをする。小首を傾げてみる。ゆっくり右手を上げてみる。
目の前にいるカラスは、私のマネをする……いえ、これは、まさか……!
「な、な……なんで、カラスなのです~~~!?」
そこには、全身真っ黒な、見間違えようのないカラスが、パカッと口を開けて首を振っていた。
……私の行動そのままに。
「夢です! きっと夢なのです!」
だって、現実ではありえない。頬を抓ろうとしたのに触れるのは漆黒の羽。その感触はリアルだ。
辺りを見まわすと、何もない灰色の世界が広がるだけ。
ゾッとした私は、ポツンと存在する鏡を見つめる。
うん。どう見てもカラス。じっくり見ていると、なんとなく愛着が湧いてくる。不思議だ。
「私、意外と可愛いです?」
つぶらな瞳に艶々の羽。愛らしいボディ。うん、可愛い……カラスだけど。
「この口調も、慣れると可愛いかもしれないです」
目覚めて間もないのに、私はすでに、カラスとしての自分に慣れてきていた。少しおかしいとは思うが。
「でも、外に出たいのです。私を待っている人が……あれ?」
一瞬、よぎった考えに動きが止まる。私の大切な人、私にコンパクトをプレゼントしてくれた人……名前が思い出せない。
「そもそも、私は誰なのです……?」
私は心細くなった。
泣きそうになったとき、頭の中で、私を呼ぶ声がした。
───レイちゃん!
変声期前の少年が、こちらに手を差しのべて、柔らかく微笑んでいる姿が思い浮かぶ。
「そう……そうです! 私は『レイちゃん』です!」
私の大好きな人。でもなんだろう? 確かに思い浮かぶ少年は、彼だけど違和感がある。
優しい笑顔も変わらないのに……。
その時、鏡の向こう側から声が聞こえた。
私の気も知らないで、楽しそうに話している。
「美咲、ずいぶんとコンパクトを気に入ったみたいだね」
「うん! フリマに行って良かったぁ! 奈緒も一目惚れでアクセサリー買ってたでしょう? 今度、デートの時につけたら?」
「そうする。彼、気づいてくれるかな? んー! ここのパフェ、いつ来ても美味しい!」
「今日は特に歩き疲れたから、さらにおいしく感じるね」
美咲って、確か私のコンパクトを買った子よね。友達との会話から、どうやらフリマの帰りに、カフェで甘いものを食べながら、休んでいるみたいね。
───カチッ
そう音がすると、鏡から光が差して、高校生くらいの女の子の顔が見えた。目が合ったと思った私は、助けを求めたの。
「そこのあなた! ここから出してほしいのです!」
私は必死に、黒い羽とくちばしでガラスを叩く。なのに、美咲は私に気づいた様子もなく、コンパクトミラーをじっくり観察している。
「あれ? ここに『R.K』って彫ってある」
「本当だ、元の持ち主かな?」
元のじゃないわ! 今でも私の大切な宝物よ!
「美咲! 気づいて! 聞こえないのですか!? あっ……」
───カチリ
閉じられた音と共に、目の前にカラスの私が映る。
私が必死に訴えた声も届かないまま、灰色の空間に吸い込まれた。ポトリと、つぶらな瞳から雫が落ちる。
「……カラスでも、涙が出るのですね」
私は、しばらくその場でうつむいて、身体を震わせ、ジッとしていた……のだが、
「ふふふ……あの小娘、必ず気づかせてやるのです! そして、『レイちゃん、ごめんなさい』と、言わせてやるのです!」
私は、大人しく泣き寝入りなどしないのよ。
待っていなさい、美咲!
そう決意した鏡に映るカラスの目は、キラーンと光ったのだった。
その夜、美咲がコンパクトを磨き始めた。鼻歌まで歌っている。
私の気持ちも知らないで。美咲のニマニマ緩んだ顔が、こちらを見ている。なんだかイラッとした。
「み~さ~き~! 」
思わずドスの効いた声が、カラスのくちばしから出てきた。
「!? えっ、なに?」
美咲が、私の声に反応した! もう一度、私は呼びかけた。
「ここです! どこをキョロキョロ見ているのです! コンパクトを見るのです!」
「え……コンパクト? ───ッ!! イヤーッ!!」
鏡には真っ黒の影……カラスになった私が映っている。
私の姿を見ると、美咲は悲鳴をあげてコンパクトミラーを床に落とした。
私は、ギャンギャン文句を言った。
「何してくれるんですか! 壊れたらどうするんです!? この小娘!」
「えっ? コンパクトがしゃべった!?」
「コンパクトがしゃべるわけないでしょう? 美咲はおバカさんなのです! 私が見えないのですか?」
「……は?」
美咲が、恐る恐るコンパクトに近づくと、そこにはプリプリ怒った口の悪い私が映っていた。
恐怖から抜け出したらしい美咲が、イラッとした口調で、私に言い返してきた。
「まさか、こんなの憑いてくるなんて! 今すぐ出てって!」
「できるものなら、とっくの昔にしてるのです! そもそも、このコンパクトは私のものなのです!……ちょっと! 何をする気なのですか?」
美咲が、コンパクトを閉じると、ゴソゴソと音がした。
「そんなの、返品するに決まってるでしょ」
「フリマで買った時に、返品不可と言われたはずです! ちゃんと顔を見て話しなさい。と習わなかったのですか?」
意外なことに、美咲は私の言うことを聞いて、袋から取り出すと、コンパクトを開いた。
「まさか、カラスが憑いてるなんて、思うはずないじゃない」
「もれなく、憑いてくるのです」
私の言葉に、美咲はムッとして噛みついた。
「なんでこんなにエラそうなの!? こんの、バカラス!」
「私には『レイちゃん』という可愛い名前があるのです!」
「あんたなんてクロで充分よ」
「こんなにキュートでプリティなカラスに向かって、そんな安直な名前しか思い浮かばないとは、残念な頭をしてるのですね」
カラス姿の私は、大きくため息をついて、美咲を哀れんだ目で見た。
「ムカつくー! なんなのこのカラス!」
「だから、レイちゃんだと言っているのです。さすがはおバカさん。頭は飾りなのです」
「おバカじゃない! 美咲よ!」
その後も口論は続いていたが、美咲の母親が「うるさいっ!」と怒鳴り込んできて、バトル終了となった。
美咲との生活が始まって数日。
最初は喧嘩腰だった私たちだったが、コンパクトの趣味が合ったこともあり、その事で盛り上がると、少しずつ仲良くなっていった。
すると、私に少し変化が起きた。コンパクトを閉じられてる状態でも、美咲のいる空間を把握できるようになった。
簡単に言うと、灰色の世界に美咲の感覚を通して、景色が映るようになった。今は美咲の部屋にいる。
───ピピピピピ
美咲の目覚ましアラーム音が鳴り出した。
「美咲、起きるのです! 時間ですよ」
「んー、もうちょっと……」
「ギリギリになって、あわてるのは美咲なのです! 早く起きなさい! ねぼすけさん!」
「レイちゃんが、アラームよりもうるさい……」
仕方なさそうに、ゆっくり動き出す美咲に満足する。
「私がいるからには、遅刻など許さないのです」
「遅刻はしたことないって。ギリギリなだけ」
口を尖らせると、美咲は文句を言いなから着替えて、部屋から出ていった。
私は静かになった部屋で、もう一つの嬉しい変化を噛みしめていた。
「彼が成長していたのです」
美咲が寝ている時は、私もウトウトしている。完全に眠るということは、カラスの身体になって目が覚めてからはない。
夢うつつの中の彼は、中学生くらいだったろうか? 声も低くなり、テノールの声で「レイちゃん、お誕生日おめでとう。プレゼント気に入ってくれるといいけど」と言って、ラッピングされた小さな箱を私にくれた。
喜んで包みを開けたその中には、このコンパクトが入っていた。
両手で大事に包み込むと、私は笑顔でお礼を言った。「──、ありがとう。大切にするわ。」
私は、確かに彼の名前を言ったのに……。
「思い出せないのです……」
大切な人なのに、大好きな人だとわかっているのに。
名前すら思い出せない。
普段から、なるべく考えないようにしていた。
私はどうして、コンパクトに、カラスになって閉じ込められているのだろう。
やっぱり私は……。
その考えを追い出すように、ふるふるを首を振る。
「ダメです! 諦めないのです!」
私は顔を、黒い羽でペシペシと叩いたのだった。
私と美咲の絆が、さらに深まるにつれて、いろいろな変化が訪れた。
ひとつは、声を出さなくても心で話しかけると会話ができるようになった。でも、考えていることは聞こえてこない。
もうひとつは、なんとなく美咲の感情が読めるようになった。不機嫌なとき、楽しいとき、緊張しているとき。美咲も同様に私の気持ちを感じとることができる。
「あれ? レイちゃん、心配ごと?」
「……この変化は、美咲にとって良いことなのか心配なのです」
「うーん、独り言をブツブツ言ってる変な人にならなくて助かってるよ」
「それならいいのです。でも、異変があったら言うのですよ」
「はいはい」と心の中で、私に返事をした。
「好きだよ──。小さい頃からずっと」
「私も──のことが大好き!」
ああ、そうだわ。お互いに気持ちを告白したのよ。両思いだったのが、すごく嬉しかった。
この日から「レイちゃん」ではなく、名前で呼ばれるようになったの。私も彼の呼びかたを変えたはずなのに、思い出せない……。
とても大切な記憶なのに、どうして……?
「レイちゃん!」
「! 美咲。どうしたのです?」
ハッ! として外を見ると、美咲がコンパクトを心配そうにのぞきこんでいた。
「レイちゃんの悲しそうな気持ちが流れ込んできて、嫌な夢でも見ているのかと思ったの。大丈夫?」
「大丈夫なのです。ただ、思い出せない部分があって……」
「そっか」
美咲には、私の事情を話してある。唯一の手がかりは、コンパクトミラーと、イニシャルの「R.K」だけ。
今の状況を考えると、私はすでに……。
美咲は「ずっと一緒にいようよ!」と言ってくれる。
少しずつ思い出す私に「彼の名前を思い出したら、探してみよう」とも元気づけてくれる。
美咲といると、たまに言い合いにもなるけれど、私の不安は軽くなる。
彼に会えないのなら、このままでも……。
「いいえ。やっぱり諦められません」
たとえ忘れていても、彼への想いはとても強いのだと確信できる。私は必ず記憶を取り戻すと、改めて決意した。
来週は期末テストがある。前回のテストでだいぶ成績を落とした美咲は、先生に「期末は頑張れよ」と言われてしまった。私はそれを聞いていて、美咲に提案した。
「レイちゃん先生に任せるのです! 容姿端麗、頭脳明晰なレイちゃんにかかれば、成績などあっという間に良くなるのです!」
「いや、カラスの美醜は、わからないから」
「あなたの目は節穴なのですか? こんなにプリティなのに!」
私は、羽をパッと広げてポーズを取ったのに、美咲はスルーして、勉強の準備をはじめた。
「レイちゃん、教えてくれるのでしょう?」
少し不満だったがポーズを解いた私は、気を取り直して、美咲の方をのぞき込む。
「ここがわからないの」
「ここは教科書の、この公式を使うのです」
コンパクトミラーの中から、羽先を教科書に向けて教えていく。
「絶対バカにされると思っていたのに……」
「真面目に勉強する美咲をバカにはしないのです」
「レイちゃん意外と面倒見がいいよね」
「意外とは、余計です。いいから解いてみるのです」
美咲を勉強の方に意識を向けさせる。
「ん?……あれ?……ああ、解けた! レイちゃんすごい!」
「当然なのです!」
胸を張ったゴキゲンな私は、みっちり勉強を教えてあげることにした。
「他の人から見たらさ、カラスに教えてもらうなんて、プライドはないのか? と言われそうだけど、藁にもすがる思いのわたしは、カラスのレイちゃんすがる。プライドなんてポイッ。だよ」
「レイちゃんは、そこらの人間より賢いカラスです! そもそも、元は人間です!」
後日、答案用紙が返ってくると、先生も驚くほどの点数をたたき出していた。過去最高の成績だった。
美咲は私との勉強の成果が出てゴキゲンだ。
「今回、褒められっぱなしで嬉しい! レイちゃん、ありがとう」
「美咲も頑張って勉強していたのです。当然の結果なのです!」
放課後、教室から廊下に出た時だった。
「あれ? 奈緒、どうしたの?」
美咲の親友の奈緒は、彼氏と帰るために私たちより先に教室を飛び出して行ったはずだった。
「……」
奈緒が無言で走り去っていく。私は、奈緒が泣いていたのを確かに見た。
「美咲! 奈緒を追うのです!」
「レイちゃんに言われなくても!」
私たちは、奈緒の向かった方へ走り出した。
「奈緒!」
人混みを外れた渡り廊下の隅に奈緒はいた。
「美咲……」
「親友が泣いてるのに、放っておけるわけないでしょう?」
「みさきぃ~」
泣きながら奈緒は、何があったのか教えてくれた。
彼氏が別の女子とベタベタしているのを目撃した奈緒は、その場に立ち止まった。すると、それに気づいた女子が奈緒を見て笑うと、彼氏の頬に背伸びをしてキスをしたらしい。
「奈緒、その子って彼女がいる男子に手を出すっていう噂の子じゃなかった?」
私は、そんな女がいるのかと憤慨した。美咲は内心で私をなだめながら、奈緒のことも慰めている。
すると、バタバタと走る音が聞こえたかと思うと、美咲に向かって威嚇してきた。
「奈緒! お前が奈緒を泣かせたのか!」
「きゃっ!」
奈緒の彼氏が美咲を突き飛ばした。私は聞こえないのはわかっていても、怒鳴らずにはいられなかった。
「このばか! 美咲に何をするのです! そもそも、お前が悪いのです! 泣かせたのは自分なのです!!」
「レイちゃん、落ち着いて……痛っ!」
「美咲! どこか怪我をしたのですか?」
こちらが会話している間に、奈緒も彼氏に激怒していた。話しているうちに、彼氏の浮気疑惑も誤解だったことがわかった。
「すまなかった、佐藤」
「次に奈緒を泣かせたら、私が張り倒すからね! さあ、早く二人とも帰りなよ」
「巻き込んでごめんね、美咲」
「今度、スイーツ奢ってもらうからね」
そういうと、美咲は二人を追い払った。
「美咲……保健室に行くのです。手の怪我を治療してもらうのです」
「レイちゃん、怒ってくれてありがとう」
「そんなことより早く行くのです!」
擦りむいた美咲の手のひらには、血がにじんでいる。
私は、身体が宙に浮く感覚と、チカッと何かが光ったのを見た記憶を思い出していた。
私に急かされて、保健室まで来た美咲は、扉をノックした。
「失礼します。清水先生いらっしゃいますか?」
「どうぞ」
───ドクン!
私の心臓が大きく脈打った。この声は……。
「コケちゃって、手のひらを擦りむいてしまいました」
「佐藤さんか。保健委員としては来たことがあったけど、怪我人としては初めてだね。ちょっと待ってて」
この、テノールの優しい声。優しい眼差し。何度も夢に出てきていた。
間違いない。ずっと探していた彼だわ。
「レイちゃん……?」
私の動揺に気づいた美咲が、話しかけてくる。
「彼なのです! 彼が大切な人なのです!」
私の言葉を聞いた美咲は息を飲んだ。
私の記憶より、大人びているし、眼鏡なんて前はかけていなかったけど、わかるわ!
「レイちゃん、手当てしてもらったら、コンパクトを見せてみるけどいい?」
「お願いするのです」
彼は戻ってくると、美咲の手当てをはじめた。
「佐藤さん、痛かった?」
「あ、大丈夫です」
「そう? 強ばっているから、痛いのかと思ったよ」
手馴れた様子で手当てをしていく彼。
あと少しで全てを思い出せそうなのに、どうしても彼の名前が出てこない。手を伸ばせば触れられそうなほど近くにいるのに……。
「さあ、終わったよ……どうしたの? 佐藤さん。さっきから様子が変だよ」
「清水先生。まず、これを見てもらえませんか?」
ポケットの中にあるコンパクトに触れた美咲の指先は、いつもより冷たい。ごめんなさい、私のせいね。
「───ッ!」
コトンと、机に置かれたコンパクトを見た彼は、驚いたように息を詰めて、動きを止めた。
「……手に、取ってみてもいいかな?」
「どうぞ」
彼の声が少し震えている。
ゆっくり近づいてくる彼の手を、私は祈るような気持ちで見ていた。
そして、
「───ッ!!」
温かな彼の手が触れる。
封印されていた私の記憶が、次々と頭の中に流れ込んでくる。
大好きな彼との思い出。
そして、こんな事になった最後の記憶。
全て思い出したわ!
カラスの目から、ポトリポトリと雫がこぼれ落ちる。
───カチリ
コンパクトが開かれると、愛しい彼の姿が見えた。
「涼太……」
私が彼の名を呼ぶと、彼もまた一粒の涙を流して応えた。
「玲香……こんなところにいたんだね?」
「わかるの? 私、こんな姿なのに」
「俺が玲香を見間違うはずないだろう?」
しばらく見つめ合っていると、横から鼻をすする音が聞こえる。
「レイちゃん、全部思い出せたんだね? 良かったね」
「美咲、ありがとうなのです」
「佐藤さん、玲香を連れてきてくれてありがとう。このあと時間あるかな? 入院している玲香のところに、ついてきて欲しいのだけど」
涼太の言葉に、私と美咲は首をかしげる。
「玲香は、この五年間眠ったままの状態なんだ。玲香の身体とカラスの玲香を会わせたい」
「私は生きているのですか!?」
私は驚いて、涼太にたずねた。
「この五年間、ずっと目を覚ますのを待っていたんだ。玲香」
「涼太……」
「行こう、レイちゃん! 清水先生、私、行きます!」
こうして私たちは、入院中の私の身体の元へと向かったのだった。
「この部屋だよ」
病院の特別室には、私の記憶よりやつれた私が眠っていた。
開けられた窓にレースのカーテンが掛けられている。風が吹くとふわりと動いた。
「レイちゃんの本名は、黒川玲香なんだね」
美咲はそう言うと、クロちゃんでも合ってたじゃんと呟いた。涼太がクスッと笑う。
「玲香は小さな頃から、いつか清水玲香になるって言ってたんだよ」
「……レイちゃん、可愛い」
「涼太、余計なことは言わないで欲しいのです」
「玲香のその口調も可愛いね」
「レイちゃんは、カラスの影響で口調が変わっているみたいですよ」
「二人とも、からかわないで欲しいのです!」
しばらく笑っていたが、涼太が「でも……」とポツリと言った。
「俺は、玲香に目を覚まして欲しい。五年間ずっと待っていたから」
「涼太……」
「なんで木に登ったりしたんだ? 確かにカラスの巣はあったけど、危ないのはわかっていただろう」
私は、当時のことを話した。
大切なコンパクトをカラスに盗られたこと。
追いかけて普段は行かない裏庭の奥に行って、カラスの巣を見つけたこと。
コンパクトを取り返すために、木登りしたこと。
「でも、あと一歩のところでカラスが私を威嚇してきて、驚いて落ちてしまったのです。一瞬コンパクトに触れたと思ったのですが……」
「そうだったのか。家政婦が偶然に玲香を見かけていて発見されたんだ。コンパクトはその時、見つからなかったんだよ」
確か、あの時一瞬コンパクトが光った気がしたんだったわ。
でも、今はそれよりも……。
「一番の問題は、どうやって目を覚ますかなのです」
涼太と私が悩んでいると、美咲が提案した。
「レイちゃんはコンパクトを取り返したかったのなら、返してあげれば良いんじゃないかな?」
美咲が、そんな提案をした。涼太は、頷いている。
「試してみよう」
「レイちゃん、帰りたいって強く願ってね」
「わかったのです」
美咲はベッドの脇に立ち、私の細くなった腕をそっと動かす。
力無い私の手を見つめた。
「レイちゃん、コンパクトみつけたよ」
そう言って、私の手にコンパクトを握らせると、ピクリと指先が動く。
すると、ピシリ、鏡面に亀裂が走った。コンパクトから光があふれ出す。
ああ、わかる。身体の感触が戻ってくる。
そうよ、コレを取り戻したかったの。
──パリン
鏡が割れた。光はさらに強くなる。
その時、光の中で一羽のカラスが喜びの声を上げて、窓の外へと飛び立った。
光が収まると、
私はゆっくりと瞼を開いた。
「玲香!」
「レイちゃん!」
二人とも目が潤んでいる。
微笑みながら私は掠れた声で、何とか声を出す。
「涼太……美咲」
涼太が私を抱きしめて「良かった」と震えた声で囁く。
しばらくして、ナースコールを押した涼太が言った。
「俺は玲香の家族に目を覚ましたと伝えてくる。佐藤さん、少し待っていて」
「はい」
涼太が去ったあと、私は美咲に言った。
「ごめんなさい。このコンパクト割れちゃったわ……」
「いいの! それはレイちゃんの宝物だから。悲しいのはレイちゃんでしょ?」
心の声は聞こえなくなったけど、お互い言いたいことはわかる。絆はそのまま残っている。
コンパクトを返してくれただけではなく、今までそばで励ましてくれた分も恩返ししたい。
「元に戻れたからいいの。美咲。私を助けてくれたお礼を今度させてね」
「そんなの要らないのに」
「お願い」
私がそう言うと、仕方なさそうに美咲は苦笑した。
「もう、じゃあ元気になったらスイーツ奢ってもらうからね!」
「約束するわ」
入院中、美咲はよくお見舞いに来てくれた。その日あったことを面白おかしく話したり、時には私が美咲に勉強を教えたりした。
私が黒川グループの会長の孫だと知って、美咲は絶句した。既に私の両親とは挨拶をしたあとだったから、頭を抱えてしまった美咲が面白くて笑ってしまったわ。
「レイちゃん! ちゃんと教えておいてよー! 普通に挨拶しちゃった」
「あら、両親は美咲のことをとても気に入ったみたいよ。退院したら自宅に招待するわね」
「緊張するよ」
「親友の家に遊びに来るだけよ。私だって美咲の家にしばらくお世話になっていたしね」
「なんか違うよ!?」
「違わないのです! ……あら?」
思わず、カラスの頃の口癖が出てきた私を、美咲は笑って懐かしそうにしていた。
その後、元気になって退院した私は、約束通り高級スイーツを奢った。
誕生日には、美咲に良く似合うコンパクトをプレゼントした。
「レイちゃん、嬉しい。ありがとう!」
美咲は輝く笑顔で、大切そうにコンパクトをいつまでも見ていた。
私のコンパクトは、今は不思議な力はなくなってしまった。
修理して、普通のコンパクトとして愛用している。
おそらく、あのときのカラスは私がどれほどこのコンパクトを大切にしていたのか身に染みてわかっただろう。光の中で飛び去って以来、見かけていないけれど、元気でいればいいと思う。
涼太は、私が目を覚ました翌日に、プロポーズしてくれた。
「この五年間、どれほど玲香が大切なのか思い知らされたんだ。一生そばにいたい。結婚してくれ」
「コンパクトの中で、最初に思い出したのは、涼太の笑顔だったの。私にとって、涼太が一番大切なのよ。私だってずっとそばにいたいわ」
涼太は私の薬指に指輪を嵌めながら、誓うようにキスをした。
涼太がくれた婚約指輪は、その時は少し緩かった。
でも、ちゃんと食事をとって元気になると、ピッタリのサイズになった。
涼太の実家もそれなりの名家で、両家ともとても喜んでくれた。
この五年間、ほぼ毎日お見舞いに通ってくれたらしい。諦めないでいてくれた涼太に、私は涙が止まらなくて、優しく慰められたの。
涼太との結婚式には、もちろん美咲も招待する予定よ。
美咲にも素敵な恋人ができるといいわね。もちろん、その時は私がしっかり見極めてあげるわ。
だって、私たちは特別な絆で結ばれた親友なのだから。
~おしまい~
☆☆☆☆☆評価やブクマ、感想等、お気軽にもらえると嬉しいです。
誤字報告も助かります。




