第8話始まりの滑走路
第8話「始まりの滑走路」
2018年10月1日。
羽田空港のターミナルが静寂に包まれ、昼夜の境目に差し掛かるその時。桐谷隼人は自分の部屋の窓から、東京湾に沈みゆく夕日を見つめていた。
これから始まる一大イベント——それは、パイロット人生の中で初めて「左席」を任される日。
「明日か」
彼は声に出して呟いた。その声が、静かな部屋の中でただ響く。
机の上には、明日のフライト計画書が置かれていた。羽田発・高松行きJAL1600便。
これまで何度も機長として飛んできた同便を、今回は桐谷が初めて機長として担当することになる。
副操縦士として数多くのフライトをこなし、今まで何度も右席に座ってきた。だが、左席で操縦桿を握ることに対する緊張感と興奮は、言葉にできない。
桐谷はその目を閉じ、深呼吸を一つ。
——明日、いよいよ俺が機長だ。
自分をその位置に置くと、今まで見たことのない景色が広がる。責任の重さ、期待の大きさ、そしてどこかで感じる覚悟。
彼はその覚悟を確かめるかのように、両手を軽く組み、瞼を閉じた。
その時、携帯の画面が光った。
「お疲れ様。明日、がんばってね!」
メッセージの送り主は、同期であり親友でもある柳瀬悠人だった。
過去の自分、今の自分
桐谷の心には、柳瀬との思い出が自然に浮かんできた。
訓練を共にし、何度もお互いを支え合ってきた日々。数えきれないほどのシミュレーターや座学で鍛えられ、同じ空を目指して飛び続けてきた二人。
「なあ、桐谷。お前、パイロットになる理由って何だ?」
訓練中、柳瀬から投げかけられた言葉。桐谷はその問いに正直に答えることができなかった。
「カッコいいから」と口にしても、その中には自分自身が求めるものが、少しずつ明確になっていたからだ。
今、桐谷がパイロットとして、ただ空を飛ぶためだけではなく、人々の安全を守る責任を感じながら飛んでいることを実感している。
それが、空を飛ぶことの本当の意味だった。
「俺が最初に空を飛んだとき、思ったんだ。もう二度と地上には戻れないって」
柳瀬の言葉が、今も鮮明に桐谷の耳に残っていた。
その後、彼はプロフェッショナルとして、実際に機長になり、数々のフライトを乗りこなしてきた。
「俺の方が早く機長になっちゃったよ、笑」
今日、柳瀬から送られてきたメッセージには、そんな軽口も含まれていた。
彼は確かに早く機長の座に座ったが、それでも桐谷は焦らなかった。
彼が飛び立った瞬間、桐谷は確信していた。自分も必ず、その道を歩むと。
そして明日、ついにその瞬間が訪れる。
桐谷は携帯を手に取り、柳瀬に返信を送る。
「ありがとう。明日、がんばってくる!」
画面を閉じると、彼は再び窓の外を見た。
夕日が完全に沈み、空は今、深い藍色に包まれている。
それでも桐谷の目には、明日への光が照らされているように感じた。
「明日は、俺が操縦桿を握る番だ」
心の中で何度もその言葉を繰り返しながら、桐谷は静かにベッドに横たわった。
そして、深い眠りに落ちていった。
翌朝、羽田空港
10月2日。
桐谷は、午前5時にアラームが鳴るとすぐに目を覚ました。
いつものようにシャワーを浴び、身支度を整える。机の上には、昨夜用意しておいたフライト計画書が広げられていた。
今日はその内容を、何度も確認する必要があった。
出発時間は07:30。羽田発・高松行きJAL1600便。
乗務員との顔合わせやブリーフィングがすべて済んだ後、桐谷は定刻通りに羽田空港へと向かった。
空港に到着した桐谷は、制服に身を包み、広大なターミナル内を歩きながらふと考えた。
これが、機長としての最初の一歩だ。
通路を進むと、同じく制服を着た仲間たちが目に入る。整備士、CA、他の乗務員たち。皆がそれぞれの役割を持ち、飛行機を飛ばすために準備を進めている。
桐谷はその中にいて、ただの一員ではなく、今や「機長」としての責任を背負っているのだ。
コックピットでの準備
桐谷が到着すると、コックピットはすでに整備員によって準備が整っていた。
隣には、副操縦士として乗り込んだ新田悠斗が座っている。彼は桐谷よりも少し年上で、これまで何度も一緒に訓練を受けてきた仲間だ。
「おはようございます、機長」
「おはよう、準備はできてるか?」
桐谷は、軽く微笑んで新田に声をかけた。
「はい。チェックリスト、確認しておきます」
桐谷は席に座り、周囲の機器を確認する。
昨日から少し緊張していたが、今はその全てを落ち着いてこなしている自分に驚いている。
飛行機が滑走路に向かう準備が整い、全てのチェックが完了すると、桐谷はようやく目の前のターミナルに目をやった。
その時、ひとしきりの準備を終えた整備士が、手を振って応援してくれた。
桐谷は少し照れくさいが、満面の笑顔で手を振り返す。
「行こう」
それが、桐谷隼人の機長としての最初の一歩だった。
桐谷隼人は、コックピットの席に座り、隣で作業している副操縦士・新田悠斗と視線を交わした。
新田の顔はどこか落ち着いていて、これまで数多くのフライトを共にしてきたからこそ、その安心感が伝わってくる。
「これから、全ては俺の判断次第だ」と桐谷は心の中で呟く。
明日、いや、今まさに機長として飛び立とうとしているその瞬間、桐谷は心の中で確かな決意を固めていた。
「それでは、フライトブリーフィングを始めます」
キャビンのチーフパーサーである佐々木が、そう言いながらコックピットに顔を出した。
「桐谷機長、新田副操縦士、お疲れ様です。乗客の搭乗状況ですが、順調に進んでおりまして、ほぼ定刻通りに搭乗は終了する見込みです」
桐谷はうなずき、先ほど配布されたフライトプランを開く。
彼が担当するのは、羽田発・高松行きのJAL1600便。距離は比較的近いが、空港周辺の天候によっては、進入や降下に気を配る必要がある。特に高松空港は、海岸線が近く、気象が不安定になることが多い。
「はい、佐々木さん。搭乗に問題はありませんか?」
桐谷が尋ねると、佐々木は少し考えてから答えた。
「はい、お客様にもお知らせした通り、少し揺れが予想されるエリアがあることを伝えています。トイレの利用を控えていただくよう、お願いしています」
桐谷はその情報をしっかりと受け取り、心の中でしっかりとイメージを作った。
空の上で何が起きるかわからない。それが飛行機の特性だ。機長としての桐谷には、乗客が安全に、そして快適に目的地に到着できるようにする責任がある。
コックピットでの準備
ブリーフィングが終わり、いよいよ出発準備が整った。桐谷と新田は、チェックリストに従ってコックピットの機器を確認しながら、離陸に向けて最後の準備を進めていく。
他の乗務員たちはキャビンで乗客の安全確認を行い、整備士たちは機体を最終確認していた。
「桐谷機長、フライトプランに基づき、離陸準備が整いました」
整備士からの確認が終わり、桐谷は一息ついた。
これが初めての左席。今まで右席で見てきた光景が、まるで別世界のように感じる。スイッチを操作しながら、桐谷は改めてその重さを実感していた。
「新田、問題なさそうだな」
「はい、大丈夫です。行きましょう」
新田の言葉に背中を押されるように、桐谷はマイクを手に取り、管制塔へと伝える。
「羽田空港、JAL1600便、離陸許可をお願いします」
「JAL1600便、羽田空港、離陸許可。滑走路34R、風速270度、8ノット。気をつけて」
管制塔からの返答を受け、桐谷はグリップを握り、離陸に備えた。
「よし、行こう」
桐谷は穏やかな口調で新田に声をかけると、ゆっくりとスロットルを開け始めた。
タキシー・離陸
滑走路へ向かうタキシーの間、桐谷の心は何度も鼓動を早める。だが、体は自然と動き、頭は冷静にフライト計画に基づいて動いている。
左席に座るという感覚は、想像していた以上に新鮮で、少しばかり緊張していたが、桐谷は何とかその緊張を飲み込んだ。
滑走路34Rに到着すると、桐谷はもう一度新田と顔を合わせ、しっかりと頷いた。
「行くぞ」
「はい、機長」
滑走路の先に見えるのは、すぐにでも飛び立てる広大な空だ。桐谷は思わず深呼吸し、スロットルをさらに開けた。
「チェック、加速開始。速度、上昇中」
離陸の瞬間、機体はゆっくりと浮き上がり、東京の街並みがどんどん小さくなっていった。
桐谷は視線を前方に集中し、姿勢を安定させる。
「安定したら、プロファイルに従って行こう」
桐谷の言葉に、新田が短く返事をし、二人の集中がさらに強まる。
「JAL1600便、無事離陸。進行方向、270度。順調です」
桐谷の声に、何度も繰り返すように返事が返ってきた。あとは空の上、ただただ進むのみだ。
空の上へ
機体は徐々に高度を上げていく。桐谷は操縦桿をしっかりと握りながら、目の前に広がる景色に心を奪われる。
東京の街並みがどんどん小さくなり、やがて雲の中へと突入していく。進行方向の270度、目指すは高松空港。
「順調ですね、機長」と、新田が横から声をかけてきた。
桐谷は軽く頷き、答える。
「うん、問題なし。エンジンの音も安定してるし、進行方向も順調だ。」
その言葉に、新田はうんうんと頷き、彼もまた手元の計器をしっかりと確認していた。
桐谷の心は少しずつリラックスし、機長としての役割が自然と身体に馴染んでいくのを感じる。
これまでの訓練と、同僚たちの支えがあったからこそ、この瞬間を迎えられたのだと思う。
「次は、高松の進入路を確認しないとな」
桐谷は少し気を引き締め、新田に話しかける。
「頼む、新田。進入に関しては、あらかじめフライトプランの高度と進行方向を再確認してくれ。」
「了解です、機長。」
新田は再び計器を見つめ、手元の地図を広げてチェックを始めた。
桐谷はその様子を見守りながら、目を前方に戻し、しっかりと計器類に集中する。
進入開始
予定通り、進行方向の変更をし、高松空港の近くに差し掛かると、桐谷はコックピット内で新田と確認を取り合う。
「高度減少開始、2500フィート。気を付けてな、新田。」
桐谷の指示に、新田はすぐに反応し、計器を確認した。
「はい、機長。進入に問題はありません。」
少しずつ、機体の高度が下がり、眼下に広がる海の景色が見え始める。高松の海岸線が見え、その先に広がる高松空港が見えてきた。
桐谷は呼吸を整え、視線を進行方向に固定した。緊張の一瞬だが、今まで培ってきた全ての経験が、この瞬間に生きる。
「降下中。着陸予定の滑走路は34、風速は4ノット、方向180度だ。」
桐谷は淡々と指示を出し、新田もそれに応じて次々と確認していく。
「34の滑走路、了解です。」
そのやり取りの後、桐谷は最後のチェックリストを確認する。
「高度1000フィート。安定したら、進入コースに合わせて調整だ。」
桐谷の声には一切の動揺がない。全てが順調に進んでいるという確信が、彼の心を支えていた。
高松空港、着陸準備
コックピット内には、まるで時間が止まったかのような静けさが広がっている。桐谷は最後の着陸に向けて、体をわずかに前傾させる。
緊張が少しずつ高まり、手のひらにじわりと汗をかいている。
「降下開始、1000フィート。進入コース合わせ。」
桐谷の声が響き、操縦桿を微調整する。機体は穏やかに降下していく。
進入路が正確に設定され、視界が確保された。
その瞬間、桐谷は気づく。視界の先に、高松空港の滑走路が静かに広がっている。
着陸の準備が整ったその時、桐谷は新田にもう一度確認する。
「新田、問題ないな?」
「問題ありません、機長。」
新田は答え、再度計器を確認する。
桐谷は穏やかに頷き、着陸に向けて操縦桿をしっかりと握る。
「じゃあ、着陸だ。」
着陸成功
最後の微調整を加え、桐谷は着陸態勢に入る。少しの風の揺れを感じながらも、桐谷は冷静に操作を続ける。
着陸速度が最適な範囲に収まり、機体は次第に地面に近づいていった。
滑走路が目の前に迫る中、桐谷は緊張しながらも、確実に着陸を決める。
「高度100フィート、エアスピード、安定。」
桐谷の目線がさらに鋭くなり、やがて機体が滑走路の上に無事に着地した。
「よし……着陸!」
パイロットとして、初めて自分の操縦で大地に降り立った瞬間、桐谷の胸に込み上げるものがあった。緊張が解け、達成感が一気に押し寄せてくる。
「お疲れ様、機長。」
新田が軽く声をかけ、桐谷は心から微笑んだ。
「ありがとう、新田。」
高松到着
無事に高松空港に到着した後、桐谷はキャビンアテンダントや乗客の降機を見届ける。飛行機が空港のゲートに到着するたびに、桐谷はその瞬間が本当に自分のものであることを実感していた。
その後、乗務員たちとともに、桐谷は機体の確認を行い、再び空の旅に出る準備を整えていく。
高松空港到着後
桐谷は高松空港のターミナルビルを背にして、機体の状況確認を行っていた。少し離れたところでは、新田が乗客の降機を見守りながら、次のフライト準備を進めている。
桐谷は一度、深呼吸をしてから、機体を無事に停めた滑走路の上での手順を確認する。普段なら流れるようにこなすべき手順であっても、今日は少しだけ時間をかけて確認し、じっくりと自分の手元を見つめてしまう。
「大丈夫、問題ない。」
桐谷は静かに自分を落ち着け、機内の灯りを消すとともに最後のチェックリストを確認し終えた。
その瞬間、キャビンアテンダントの一人が声をかけてきた。
「機長、着陸後の手順は問題ありませんか?」
桐谷はその声にゆっくりと振り返ると、軽く微笑みながら答える。
「はい、大丈夫です。ありがとうございます。」
乗務員のその細やかな気配りに、桐谷は感謝の気持ちを込めてうなずいた。
「それでは、皆さんが降機を終えたら、次の準備に取り掛かります。」
乗客が降りた後、桐谷は改めて一息つく。手順を終えて機体が止まると、ようやく心の中で一段落つけることができる。
高松での休憩時間
数分後、搭乗員全員が揃い、次のフライトの準備に取り掛かる。桐谷は外の景色を眺めながら、空の上での新たな任務を心の中で再確認していた。初めて機長として飛ぶフライト、空の広さとその責任の重さを感じていた。
「機長、次のフライトのブリーフィングを始めます。」
新田が声をかけ、桐谷はすぐに立ち上がった。心の中で再び気を引き締め、コックピットへ戻る。
「了解です。みんな準備はいいか?」
桐谷は周囲に問いかけ、各乗務員の目を見てうなずいた。
「いいよ。じゃあ、行こう。」
桐谷が軽く言うと、乗務員たちも一斉に作業を始める。新田が前に立ち、フライトプランを確認しながら手順をしっかりと確認する。
桐谷はその様子をじっと見守りながら、心の中で少しの不安と確信を抱えていた。
帰路の始まり
高松を出発し、空へと再び上がった桐谷の目の前には、広がる青空が広がっている。高松の海岸線がどんどん小さくなり、進行方向には広大な大地が広がっていた。
「機長、次のフライト経路、問題ないですね。」
新田が確認を求めてきた。
「うん、順調だ。進行方向、異常なし。高度も安定している。」
桐谷は深呼吸をし、再び操縦桿に手を添えた。次に向かうのは、再び羽田。天候も問題ない。気流も安定している。
「よし、無事に帰路につけそうだな。」
桐谷は自分に言い聞かせるようにそう言うと、また新たなフライトプランに目を向ける。先程の高松着陸の緊張から少し解き放たれ、安心感を抱きながらも、次のフライトに向けて集中する。
羽田へ向けて
桐谷が羽田に向かって順調に飛行を続ける中、機内ではいつものように乗客たちが快適に過ごしていた。
桐谷の目線は再び機体のコントロールに向けられ、計器の読み取りを確認しつつ、進行方向に向かって飛行を続ける。
「機長、着陸態勢に入ります。羽田の気象状況を再確認しましょう。」
新田が提案する。桐谷はそれに応じ、慎重に確認を続ける。
「了解。気象レポート、確認。滑走路34L、風速3ノット、方向150度。」
桐谷は無言でうなずくと、再び進行方向を確認しつつ、降下を開始する。
着陸準備
羽田空港が見えてきた。大きなターミナルが眼下に広がり、東京湾が近づいている。
桐谷は、機体を穏やかに降下させ、再び着陸態勢に入る。着陸準備のため、慎重に計器を調整しながら、進行方向を保っていく。
「高度1000フィート。進入コース、整ってます。」
桐谷は新田に報告し、無事に着陸態勢を整えていく。
「了解、機長。」
新田は冷静に答え、その後も着陸のために手順を再確認する。
「100フィート。エアスピード、安定。着陸態勢に入ります。」
桐谷は最後の着陸の瞬間に集中し、機体のバランスを保ちながら、滑走路を目指す。
そして、無事に機体は羽田の滑走路に着地した。桐谷はその瞬間、深く息を吐き、安心感とともに達成感を感じていた。
着陸成功
桐谷は着陸後、機体を安全にターミナルゲートに導き、フライトを完了させた。機内のスタッフが乗客の降機を見守りながら、桐谷は再び一息ついた。
「お疲れ様でした、機長。」
新田が声をかけ、桐谷はその言葉に少し微笑んだ。
「ありがとう、新田。無事に終わったな。」
桐谷の心は、今までの訓練とフライトでの経験が確実に自分を支えていることを実感していた。そして、新たなフライトが始まる準備が整ったことを感じていた。
この空の旅は、桐谷にとって大きな意味を持つものとなった。