表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
To be continued  作者: 綾瀬大和
国内線編
7/50

第7話交差する水平線

第7話「交差する水平線」




 羽田空港 第1ターミナルのブリーフィングルーム。

 8月の蒸し暑さがまだ空調の利いた建物にも入り込んでくる。


 「副操縦士、桐谷隼人、JAL324便、福岡行き」


 制服の胸に社員証を掲げ、桐谷はいつものように出発前の確認を進めていた。


 だが心の中は、ほんの少しだけざわついていた。


 ——柳瀬が、機長に昇格した。


 B737で飛び続けていた同期の柳瀬悠人が、ついにその座に就いたのだ。


 「お先に」とは言われていない。

 それでも、心のどこかで聞こえたような気がしていた。



 「おーい、桐谷!」


 その声は、ロビーの角から聞こえてきた。


 振り返ると、そこに柳瀬が立っていた。

 相変わらず、整った長身と飄々とした笑み。だが、制服の肩章には四本線——機長の証が輝いていた。


 「柳瀬……お前……!」


 「そう。なっちまったよ、機長に。俺の方が早く機長になっちゃったよ、笑」


 茶化すように言いながら、彼は軽く右手を差し出してきた。


 桐谷は、一瞬だけ戸惑いながらも、それをしっかりと握り返す。


 「……おめでとう。心からそう思うよ」


 「ありがとう。でもお前ももうすぐだろ? 監査フライト、来週だったよな」


 「ああ。来週の羽田〜伊丹線、チェックライドが入ってる」


 「なら大丈夫だよ。お前、変わったよ。あの火災のあとから、すげえ目が変わった」


 桐谷は肩をすくめた。


 「変わったというより、壊れて作り直したって感じだな」


 同じ夢を追い、同じ苦労を共にした同期。

 それが一足先に“夢の先”に立ったとき、人は何を思うのか。


 「焦ってるのか、自分でもわからない」


 その晩、桐谷は久々に家でノートを広げていた。

 航空大学校時代のメモ帳。シミュレーターの操縦手順、風速と横風補正の計算、緊急事態の処理方法——全てが手書きで残されている。


 彼は決して器用ではない。

 だが、どんなことでもノートに残し、体に染み込ませてきた。


 (大丈夫だ。俺は、飛べる)


 それを誰よりも証明したいのは、他でもない、自分自身だった。



 羽田空港の宿泊施設。

 静かな部屋に、監査官の名前が記されたブリーフィング資料が置かれている。


 「監査官:本城敏郎」


 冷や汗がにじんだ。


 “鬼の本城”。

 冷静、無駄なし、情け容赦なし。若手パイロットの中で、最も緊張感を生むチェックマンの一人だ。


 だが、それもまた試練の一つ。


 「やってやる。今の俺が、空に立てるって証明する」


 桐谷は部屋の窓を開け、羽田空港の滑走路の灯を見つめた。


 旅客機が一機、静かにタキシングしていく。


 空は、誰にでも平等ではない。

 だが、それでも飛ぶと決めたのなら——その空に、意味をつけるのは自分だ。 


 2018年8月、羽田発JAL121便 伊丹行き。

 機材はB787。コールサインを確認した桐谷隼人は、副操縦士席に座り、緊張感の中でルーチンをこなしていた。


 隣の機長席には、本城敏郎。

 黒縁眼鏡の奥にある鋭い目と、ほとんど表情を見せない静かな口元。


 (やるしかない)


 「Pre-flight checklist」


 「Pre-flight checklist complete」


 指先はわずかに汗ばんでいた。だが、声はいつもより澄んでいた。


 搭乗が完了し、クリアランスが下りる。

 タキシーウェイへとゆっくりと滑り出す機体の感覚は、何度乗っても胸を打つ。


 ——これが、俺の空だ。


 「V1… rotate…」


 桐谷は操縦桿を引いた。

 B787がその巨体をふわりと空に浮かせる。伊丹までの航路は、東京湾を回り、関西へ向かうベーシックなルート。


 巡航中、本城から突然の指示が飛ぶ。


 「機長が急病で意識を失ったと想定。今から、君がPIC(Pilot in Command)だ」


 桐谷は一瞬だけ固まった。


 だが次の瞬間、冷静にコントロールを握る。


 「了解。私がPICを引き継ぎます。Cabin、This is the copilot speaking. 機長が体調不良でコントロールを私が引き継ぎました」


 CA(客室乗務員)からの返答を受け、意識は完全に操縦に向かった。


 伊丹へのアプローチは、南側からのランディングルート。

 ATCとの交信、ベクター確認、降下開始。全てが連動して、静かに時間が進んでいく。


 「Flaps 30… Gear down… Landing checklist complete」


 滑走路が視界に現れる。


 桐谷は深呼吸一つ。

 穏やかな気流に助けられ、機体は理想的な姿勢でファイナルへと入る。


 「Minimums… Continue」


 その言葉に、自分の心が答える。


 (行ける)


 前輪がタッチダウンする瞬間、ほんの僅かにスレッショルドを越えたことがわかった。

 だが、ブレーキング、タキシー、エプロン停止まで、全ては完璧な流れだった。


 本城は何も言わなかった。

 ただ、機体の電源を切った後、彼はゆっくりと資料を閉じた。


 「桐谷副操縦士」


 「はい」


 「合格だ。次のフライトから、君は“左席”だ」


 その瞬間、体の芯が熱くなった。


 「……ありがとうございます」


 羽田空港へ戻った夜。

 桐谷はいつものロビーでコーヒーを手にしていた。


 そこに、柳瀬が現れる。


 「なあ、聞いたぞ。監査、通ったって?」


 「おう。ついさっき、本城から言われた」


 柳瀬はニヤリと笑って、グータッチを差し出す。


 「やっと肩並べられるな」


 「追いついたつもりだけど、もうお前は一歩先にいるよ」


 「いや、これは“交差点”だよ。たまたまお互い、違うタイミングで進んでるだけ。ゴールは……もっと先だろ?」


 桐谷は、空を見上げた。

 夜の滑走路に、遠くB787が誘導灯に導かれて進んでいく。


 「お前、あの頃言ってたよな。“信じられる空をつくりたい”って」


 「今も思ってる。機長になったら、もっと責任が重くなる。でも……やっと、スタートラインに立てた気がする」


 柳瀬は、ふっと笑って言った。


 「じゃあさ、いつか一緒に国際線、飛ぼうぜ」


 「その時は、俺が左席で、お前が右席か?」


 「逆でもいいけどな」


 二人の笑い声が、夜の空港に溶けていく。


 部屋に戻り、制服を脱いだ桐谷は、そっと一冊のノートを手に取った。


 初めて訓練で空を飛んだ日。

 火災の中で冷静になれたあの瞬間。

 柳瀬と再会して、自分の道を見つめ直した日——。


 全てが、今日のこの瞬間に繋がっていた。


 (ありがとう)


 心の中で、訓練機、先輩、同期、家族、そして“空”そのものに呟いた。


 ページの最後に、新しい言葉を記す。


 「俺は、空の人間として、ここからが本当の始まりだ」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ