第6話信じた先の光
第6話「信じた先の光」
1週間後
エンジンが燃えたあの空から、もうすぐ一週間が経つ。
桐谷隼人は、羽田空港第1ターミナルの乗員待機室で、ただ静かにモニターの時刻表示を見つめていた。
時計の針は、8時22分。まるであの日の時間に止まったままのように感じる。
2018年5月10日——羽田発那覇行きのJAL903便。
チェックポイント「大島」上空で右エンジンが火災を起こし、彼は機長と共に羽田へ緊急引き返しを行った。
あの時の記憶は、今も胸に生々しく残っている。
火災警報、チェックリストの読み上げ、管制とのやり取り、そして、緊張の中での着陸。
幸い、乗客も乗員も全員無事だった。機体は自走でスポットに戻り、事態は冷静に収束した。
しかし、その“冷静”を保っていた裏で、自分の中に押し殺した感情は少なくなかった。
(怖かった……正直、怖かった)
それを誰にも言えずにいた。
それでも――彼は、もう一度空に立つと決めていた。
控室にいた桐谷を呼び出したのは、フライトマネージャーの本城だった。
50代の中堅幹部であり、若手操縦士を積極的に育てることで知られる人物だ。
「桐谷、副操縦士。座ってくれ」
本城は着席するなり、机の上に一枚のフライトプランを置いた。
A4用紙には、“特別路線試験飛行”という朱字が躍る。
「君に、ある任務を与えたい。奄美大島〜喜界島を結ぶ新設ルートのテストフライトだ。機材はB737-800。機長はベテランの渡瀬、君は副操縦士として搭乗する」
「……喜界島?」
聞き慣れない名前に、桐谷は思わず問い返す。
本城はうなずいた。
「滑走路長1,200メートル。外洋風が強く、気象条件の変化も激しい。“人が少ない=リスクが低い”とはいえ、技術的にはかなり難度が高い。だが……」
本城は、真っ直ぐに桐谷を見た。
「君なら、できると俺は思っている。あの日、君はあのB787の命を守った。“偶然ではない”と俺は判断した」
桐谷は、黙ってその言葉を受け取った。
嬉しさよりも先に湧いたのは、重みだった。
(俺に……託された)
その夜、羽田から鹿児島へのフライトが手配された。
2018年5月14日。桐谷は鹿児島空港に到着した。
空は晴れ、山の稜線の向こうから、桜島がくっきりと姿を見せていた。
空港内の待合室で待っていたのは、機長の渡瀬俊一だった。
45歳、現場歴20年以上。九州・沖縄路線を中心に飛び続けてきた熟練パイロットである。
「お前が桐谷か。ようやく顔を見た」
渡瀬の声は低く、落ち着いていた。
威圧感というより、重ねた時間の深さがにじむような語り口だった。
「俺が見てきた若いパイロットは、初めての“危機”のあと、二種類に分かれる」
渡瀬は指を二本立てた。
「ひとつは、怯えて地上に残る者。もうひとつは……空に理由を見つけて、飛び続ける者だ。お前はどっちだ?」
桐谷は、迷わず答えた。
「……飛びます。怖いけど、もう一度、空に立ちたいと思っています」
渡瀬は静かにうなずいた。
「なら、俺が連れてってやる。“信じられる空”ってやつに」
5月15日午前8時。B737は鹿児島を離れ、奄美大島を経由し、喜界島へ向かった。
目的は、新規路線におけるアプローチと着陸テスト。
だがこの日は、気象条件が悪化していた。
「風、右から15ノット。突風あり。視程10km以下」
桐谷はコックピットで渡瀬と共に計器を確認しながら、アプローチの最終調整を行った。
「ランウェイは04右からのクロスウィンド……修正入れて進入できます」
「判断は任せる。前回の火災のとき、どう判断した?」
唐突な問いに、桐谷は答えた。
「“一番多くの人が帰れる道”を選びました」
「……いい答えだ」
短くそう言うと、渡瀬は軽く操縦桿を桐谷に譲った。
「その判断、信じるぞ。任せた」
“喜界島アプローチ、GO”
その瞬間、桐谷の胸の奥に再び、あの高揚と緊張が立ち上がった。
機体は、喜界島の小さな滑走路へと進入していた。
島を取り巻くリーフの縁から吹き抜ける横風が、操縦桿を握る桐谷の両手にプレッシャーを与える。
「進入角、安定。速度138ノット。風、修正済み……」
地上からわずか200フィート。着陸の可否を判断する最後の瞬間だ。
(いける)
火災のあとに感じた“臆病”は、今ここにはない。
それを打ち消すように、彼の中にあるのはただ一つ——「責任」だった。
乗っているのは、クルー5名と整備士、運航試験官。
彼らを安全に島へ届ける。それが、今の自分の役割だった。
「スレッショルド確認。パスグライドOK、進入続行」
「よし、降ろせ。行け、桐谷」
渡瀬の短い言葉に、桐谷は答えた。
「Landing」
B737は機体を微調整しながら、喜界島の短い滑走路に静かにタッチダウンした。
メインギアが白い滑走路をとらえ、ふわりと前輪が落ちる。
ブレーキオン。逆噴射。ゆっくりとスピードが落ちていく。
停止。機体は、まるで島の風と一体になったように、静かに止まった。
スポットに駐機した機体から降りると、乗員たちは地元自治体職員の歓迎を受けた。
空港と呼ぶには控えめな建物の前に、数名の整備士と空港職員が待っていた。
「ご苦労様です! 強風の中、よくぞ来てくれました!」
地元の声援を背に、桐谷はそっと空を見上げた。
燃えた大島の空も、今こうして目の前に広がる喜界島の空も、同じように青かった。
(俺は……また空を飛べた)
何も起きなければ、きっとこの瞬間はただの訓練に過ぎない。
でも彼にとっては、確かに“再出発”だった。
気づけば、渡瀬が横に立っていた。
「お前、よくやったよ。あの横風の中で、この距離感でしっかり止めた。文句なしだ」
「……ありがとうございます」
「何が怖かった?」
桐谷は少し間を置き、正直に言った。
「“また何か起きたらどうしよう”って……あの火災の時、自分の判断が本当に正しかったのか、ずっと考えてました」
渡瀬は頷いた。
「それでいい。それでいいんだ。パイロットは、“正解かどうか”じゃなく、“最善だったか”を問い続ける職業だ」
「最善……」
「そう。結果じゃなく、“その瞬間、どう考えたか”がすべてだ」
喜界島での滞在は数時間。再び空へ戻る前に、整備士たちがチェックを行っていた。
その間、桐谷は滑走路脇のベンチに腰掛けて、空を見上げていた。
あの日、自分を突き動かしていたのは、「助けたい」という気持ちだった。
自分はパイロットとしてまだ未熟だ。
でも、その未熟さすら、今は否定せずにいられる。
(俺は、今のままでも空に立っていい)
目の前の風が、そう語っている気がした。
ふいに、ポケットの携帯が鳴った。
表示には「柳瀬悠人」の名前。
「よぉ、どうだった? 噂聞いたぞ。喜界島に降りたって」
「お前、なんで知ってるんだよ」
「本城さんが言ってた。『こいつはたぶん立ち上がる』ってな。……どうだ、飛んでみて」
桐谷は、ゆっくりと答えた。
「……怖かった。でも、飛んでよかった。あの日じゃなくて、“今日”が俺の初日だったって思えた」
「それなら上出来だ」
「なあ柳瀬、また一緒に飛ぼうぜ。今度は同じコックピットで」
「おう。そんときは、俺が機長な」
二人の笑い声が、遠く潮風の中に溶けていった。
信じた先にあるもの
喜界島から鹿児島へ戻るフライトは、穏やかな海と空を越えて続いた。
夕暮れの雲が、機体の右側から橙色に染めていた。
コックピットに差し込む光の中で、桐谷は目を細めた。
(信じるって、何だろうな)
それは、自分自身を信じることでもあり、空の静けさを信じることでもあった。
そして、仲間を信じることでもある。
エンジン火災は、彼に多くの問いを残した。
でも、今日の着陸は、その問いに一つの“答え”をくれた気がした。
「人はさ、信じることで強くなるんじゃない。信じるから、弱さごと進めるんだ」
かつて誰かに言われたその言葉が、今になって胸の中で息を吹き返していた。
それから数日後。桐谷隼人は、再び羽田空港のブリーフィングルームに立っていた。
次の便は、羽田~伊丹。短距離ながら交通量の多い重要路線だ。
機長は柳瀬悠人。
扉の向こうから聞こえてきた声に、桐谷は笑みを浮かべた。
「おう、乗せてくれるんだろ?機長さんよ」
「……さっさと座れ、副操縦士」
二人は、機内へと向かっていく。
信じた先に、光があった。
それは、再び飛ぶことを選んだ桐谷の背を、確かに押していた。