第2話ぶつかる理由
第2話ぶつかる理由
翼を動かす風はまだ冷たく、春の終わりを引きずっていた。
羽田のJAL訓練センター。午前6時50分。
訓練生用の控え室に入った桐谷隼人は、壁際の椅子にバッグを置き、黙ってコーヒーの缶を開けた。
「今日もやるだけっすね」
自分に言い聞かせるように、小さくつぶやく。
昨日の訓練では、教官・佐久間の指導中に、隼人は言い返してしまった。
「その判断、現場では遅いですよ」と。
正直なところ、言い方がまずかったとは思っていない。だが、空気が変わったのは明らかだった。
案の定、控え室の中でも視線は微妙だった。
「おはよ、桐谷」
同期の柳瀬悠人が入ってくる。髪をきちっと分けた彼は、訓練生の中でも成績が安定しており、教官からの信頼も厚い。
「昨日……またぶつかったんだってな」
「まあ、納得いかないことは納得いかないっすから」
「でもな、教官に正論ぶつけたって、実機じゃ誰も助けてくれないぞ。チームで動くって、そういうことだろ」
隼人は缶を机に置き、視線を窓の外に向けた。
「……わかってるっす。でも、自分だけは譲っちゃいけないってときもあるっしょ?」
柳瀬はため息をついて、隼人の隣に座った。
「その“譲れない”が全部自分の中だけで決まってる限り、お前は一人で飛ぶことになる」
言葉は重かった。だけど、それをはね除けるほど、隼人の心はまだ熱くて、強情だった。
午前8時。訓練開始。
今日はシミュレーターでの「緊急事態対応訓練」──航空機トラブルを想定した操縦練習だ。
シミュレーターのコクピット内には、隼人と教官、もう一人の訓練生・高梨が入った。
「今日は複数トラブルが発生する。焦るな、判断は冷静に。クルー間のコミュニケーションを最優先に」
教官の佐久間が簡単な説明をした後、訓練が始まる。
B787のシミュレーターは、リアルそのもので、まるで本物の空に浮いているかのような臨場感がある。
離陸。巡航。順調に見えたが、異常警報が鳴る。
「エンジン火災、左エンジン!」
「了解。エンジンカットオフ手順に移行します」
「ちょ、待て。桐谷、状況確認してからだ!」
「いや、確認してる暇ない! 火災が拡大してる!」
隼人は即座にレバーを操作し、左エンジンを停止。だが、対応が早すぎて、他の操作との連携が取れない。
「フラップダウン早すぎる! 揚力下がってる、これは危ない!」
コクピット内が混乱する。結局、シミュレーター内での機体は失速し、緊急着陸不能という「シナリオ失敗」となった。
訓練後のブリーフィング室。
空気は、重い。
「……桐谷。お前の判断、たしかに火災対処としては間違ってない。ただし、クルーと意思疎通せずに勝手に進めた操作は、現場では“暴走”とみなされる」
佐久間教官の口調は冷静だが、明確だった。
「火災より怖いのは、クルー間の意思の食い違いだ。飛行機は“個人”で飛ばすものじゃない。何度言わせる気だ」
黙り込む隼人。言い返したい気持ちもあったが、今はただ飲み込むしかなかった。
訓練生控え室に戻ると、また柳瀬が待っていた。
「……大丈夫か」
「まあ、やっちまったっすね」
「お前って、正義感だけで飛ぼうとしてないか?」
隼人は机に突っ伏したまま、答えなかった。
「俺も昔はそうだったよ。自分が一番正しいって思ってた。でもな、空は一人じゃ飛べねぇ。指一本分でも、操縦がずれれば大事故になる。だからこそ、“信頼”が大事なんだよ。コクピットは、孤独じゃない」
柳瀬の言葉が、初めてスッと心に入ってきた。
その夜、寮の一室。
隼人はノートを開いて、いつものように操作手順を書いていた。だが、その横に、いつもと違う文字を残した。
「空はひとりじゃ飛ばない」
「信じる、聞く、任せる」
それは、彼にとって初めての「妥協」ではなかった。
空を飛ぶという夢に、さらに一歩近づくための、「変化」の兆しだった。
深夜、訓練センターの屋上に立ち、隼人は空を見上げた。
羽田の上空には、定期便が星のように光りながら飛んでいる。
「あそこに行くまでに……変わらなきゃなんねぇのは、俺か」
そして、彼はひとつ、心に決めた。
「ぶつかるだけじゃ、空には届かねぇ」
明日からは、もっと周りの声を聞こう。もっと、信じて飛ぼう。
自分だけじゃなく、チームで飛ぶ――その意味を、少しずつ理解し始めていた。