第18話空の向こう
第18話空の向こう
羽田空港。3月の終わり、春を待つ冷たい海風が吹き抜ける朝。管制塔の向こうに陽が昇り、滑走路に金色の光が差し込んでいた。
桐谷隼人、28歳。国際線移行訓練を全て終えた彼は、ついに最終監査フライトを迎えていた。
搭乗する機材はB787-9。行先はホノルル。しかし、これは通常のフライトではない。監査官が右席に乗り込み、彼の操縦・判断・チームワークすべてを審査する試験である。
「キャプテン桐谷、おはようございます」
「おはようございます、監査官。よろしくお願いします」
淡々とした挨拶のあと、チェックリストを一つひとつ丁寧にこなしていく。CAたちとも簡潔にブリーフィングを行い、全体の流れを説明する。
キャビンでは、見慣れた顔が一人――小机アンナが彼を見て、軽く微笑んだ。
「桐谷さん、緊張してる?」
「……少しね。でも、訓練でやってきたことをやるだけだよ」
「うん、信じてる。頑張って」
機体がプッシュバックを始め、誘導路を滑る。
エンジンスタート、タクシーアウト、そして滑走路34Rにラインアップ。
「JAL8801、ホノルル行き、離陸許可」
「JAL8801、離陸します」
滑走開始。エンジンが唸りを上げ、機体は一直線に加速していく。
「V1……Rotate」
静かに操縦桿を引き、機体は滑走路を離れた。
「Positive rate」「Gear up」
すべての操作がスムーズだった。監査官は一言も発しない。ただ、彼の所作を黙って見つめている。
【巡航中・太平洋上空】
「天候は良好、燃料も計画通り」
「はい、順調ですね」
「……しかし、気流の変化で偏西風が強まる可能性があります。着陸時間に遅延が出るかもしれません」
「どのくらいの遅延ですか?」
「現時点でおよそ15分。ホノルル到着時の空港混雑を加味すると、最終的に20分近くになる可能性があります」
監査官がわずかに頷く。
「その時、君ならどう判断する?」
「目的地の混雑状況と、燃料余裕を考慮して待機できるか検討します。それが難しければ、代替空港としてマウイ島へのダイバートも想定します」
「なぜ?」
「ホノルルは夜間、到着が集中する傾向があるので。マウイの天候は安定しており、滑走路延長も十分。乗客へのケアの観点からも適切な判断と考えます」
「……よく訓練されている」
【ホノルル到着直前】
雲が厚くなり、機体は軽い揺れを伴って降下を始めた。計器進入方式に切り替え、ILS(計器着陸装置)に頼る。
《100... 50... 40... 30... 20... 10》
「……接地!」
「Spoilers deployed、reverse normal」
タイヤがアスファルトを掴んだ瞬間、わずかな横風が尾翼を揺らした。が、桐谷の修正操作は完璧だった。
「ステアリング操作も良好、タクシーウェイ入ります」
ターミナルが見えてくる。監査官は、静かにクリップボードに何かを書き込み、ぽつりと言った。
「……すべて、合格基準を大きく上回っていた。おめでとう、桐谷機長。次の国際線スケジュールに正式配属だ」
「……ありがとうございます」
言葉に詰まりそうになる。訓練で悩み、事故を経験し、それでも空を目指し続けた先にあった――ひとつの到達点。
【帰国便・羽田への帰り】
機体が日本の領空に入る頃、機内を見回すと、小机アンナが手を振ってきた。
後で、CAブリーフィングルームでアンナが話しかけてくる。
「監査……受かったの?」
「うん。ようやく、次のステージに行ける」
「……おめでとう、隼人さん」
「ありがとう。ここまで来れたのは、アンナのおかげもある」
「え?」
「……いつも、そばにいてくれて」
アンナがはにかんで笑った。二人は、空を挟んで繋がる、そんな関係になっていた。
羽田空港が見えてきた。眼下には、光る東京湾とビルの群れ。
「さあ、ただいまって言おうか」
桐谷隼人。いまや、国際線への扉を開いた、ひとりの“機長”として、新たな空へと羽ばたいていく。
羽田に帰国した翌朝、桐谷はスケジュール通り、有給休暇を取っていた。
3月の東京はまだ少し肌寒く、でも空気には春の香りが混じっていた。
午前中は家でのんびりと過ごし、午後には行きつけの理髪店で髪を整えた。
国際線機長への第一歩を終えたばかり。気持ちをリセットしたいと思っていた。
そんな中、柳瀬からメッセージが届く。
「今夜、高島屋の上のレストランでご飯でもどう?アンナさんも来るって」
──わかった、行くよ。
短く返事を打ったあと、スーツではなくラフなジャケットを羽織って二子玉川の街へ向かった。
【午後7時、二子玉川 高島屋S・C ガーデンアイランド内レストラン】
「おーい、隼人!」
店内に入ると、既に柳瀬悠人が手を挙げていた。白いシャツに黒のジャケットというラフな格好だ。
「お疲れ、久しぶりにオフの顔だな」
「そっちこそ、カジュアルだな」
笑い合って着席すると、すぐに小机アンナが現れた。
「お待たせしました……お疲れさまです、桐谷さん」
「いや、今日はオフだし、"隼人"でいいよ」
「……じゃあ、隼人さん」
アンナはシンプルなネイビーのワンピースに、髪を緩くまとめていた。
制服姿とは違う、どこか柔らかい雰囲気。隼人は、自然と目を奪われた。
乾杯を済ませ、料理が運ばれる。
会話は自然とフライトの話に。
「しかし、お前が国際線に上がるとはなあ」
柳瀬が言う。
「ほんとすごいよ。監査も一発合格でしょ?」
「まあ……訓練で鍛えられたから」
「俺なんてまだ国内線のスケジュールばっかだぞ? ほら、『俺の方が先に機長になっちゃったよ、笑』なんて言ってたのにさ」
「……あの時は本気で悔しかったよ、実は」
「だよなー。まあ、いい刺激だったってことで」
三人で笑う。
空を知る者同士にしか分からない、張りつめた訓練の話も、いまは温かい食事と笑顔の中で懐かしい思い出へと変わっていた。
【午後9時過ぎ】
柳瀬がふと時計を見て立ち上がる。
「ごめん、ちょっと先に帰る。明日、朝イチで大阪便あるんだよ」
「そっか、気をつけて」
「じゃあな、二人とも」
柳瀬が手を振って去っていく。
残されたのは、桐谷とアンナだけ。
少しの沈黙が流れた。
ふと、アンナがグラスの水を指先でなぞりながら、口を開いた。
「……桐谷さん、じゃなくて……隼人さんって、今まで恋人とかいたの?」
突然の問いに、隼人は少し驚いた顔で笑った。
「いなかったよ。ずっと飛行機ばかりだったし、正直、そんな余裕もなかった」
「……そうなんだ。意外」
「アンナは?」
「私も、あんまり……。好きになる人はいたけど、職場恋愛って難しいから」
その言葉に、隼人は心を決めたように口を開いた。
「……ならさ」
アンナが顔を上げる。
「もし、いま俺が、君のことが好きだって言ったら……どうする?」
アンナの目が見開かれたまま、数秒、時が止まったように静かになる。
「えっ……いま、告白されたってこと?」
「うん。俺は、パイロットとしてだけじゃなく、一人の男として……君と、向き合いたいと思ってる」
アンナは頬を染めながら、少しうつむいて笑った。
「……ずるいよ、そんな真っ直ぐな目で言われたら」
「じゃあ……」
「うん、私も、好き。隼人さんのこと。最初に一緒のフライトに乗った時から……ずっと」
店内の窓の外、夜の多摩川が静かに流れている。
二子玉川の街の灯りが、水面に映って揺れていた。
「じゃあ、結婚とかそういうのはまだ先でもいいから……まずは、付き合ってみない?」
「うん、そうしよう」
二人の手が、テーブルの上でそっと重なった。
その瞬間、まるで空に浮かぶ機体が、新たな航路を描き始めたような――静かで力強い始まりだった。