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To be continued  作者: 綾瀬大和
国内線編
15/50

第15話空の意思

第15話「空の意思」



 2019年5月――。


 羽田空港第1ターミナル、乗員ブリーフィングルームの一角。大型モニターに映し出された航路図の上を、指がなぞる。


 「東京発、宮崎行きJAL1905便。機材はB787-8、機体番号JA834J。予定の巡航高度はFL390、所要時間は約1時間40分」


 淡々と進むブリーフィングの声を聞きながら、桐谷隼人は視線を資料に落とした。黒髪をきっちりと撫でつけ、機長の四つボタンをきちんと締めるその姿には、もはや“新人”の面影はなかった。


 今では堂々たる機長だ。


 「天候は? 目的地周辺のMETAR出てるか?」


 「はい。宮崎空港、正午時点で北東の風5kt、視程10km、気温25度。ただしATISでは、火災による一部滑走路の閉鎖が示唆されています」


 「火災……?」


 管制担当の声に、桐谷が反応する。


 「滑走路じゃなく、南端の給油車庫付近で火災。まだ燃えてるって?」


 「はい。今のところ、ランディングには制限がかかっていませんが、アプローチ中に急な変更がある可能性も」


 桐谷は軽く頷き、すぐに頭の中で選択肢を浮かべた。


 「代替空港は?」


 「第一が鹿児島、第二が福岡です」


 「了解。じゃあ、出発前ブリーフィングに“火災によるゴーアラウンドの可能性”と、“鹿児島空港へのダイバート”を含めよう。CAにも伝えておいてくれ」


 「はい、キャビンブリーフィングは小机チーフが担当します」


 その名前を聞いて、隼人の表情がわずかに緩む。


 小机アンナ――27歳のチーフキャビンアテンダント。冷静沈着でありながら、乗客にも乗員にも絶大な信頼を寄せられる存在。今や、桐谷の公私ともに“特別な人”だ。


 廊下を歩いていたとき、すれ違いざまに彼女が微笑みかけてきた。


 「今日もよろしくお願いします、キャプテン」


 「こちらこそ、頼りにしてます、チーフ」


 ――たったそれだけの会話でも、胸にひとつ、光がともる。


 「さて、空へ戻るか」


 出発ゲートから機体に向かう途中、整備士とすれ違うたびに、彼はいつものように挨拶を欠かさなかった。


 搭乗機――B787-8の機首に視線をやる。


 “空と人をつなぐ翼”。その言葉の意味を、今日も自分の手で証明していく。


    ***


 午前11時40分、JAL1905便は34Rから離陸した。


 機体は順調に上昇し、TOKYOコントロールからKUMAMOTOアプローチへと引き継がれていく。フライトは順調そのものに見えた。だが、九州へと接近するにつれ、桐谷の胸にはわずかな違和感が芽生え始めていた。


 「宮崎タワーから更新入った。現地の火災が予想より大きくなってるらしい。緊急車両が滑走路に展開中」


 副操縦士の報告に、桐谷は即座に答える。


 「ゴーアラウンドを前提にブリーフィングをやり直そう。最悪の場合は鹿児島ダイバート。燃料は?」


 「フル積載に近い状態です。あと1時間以上は余裕あります」


 「よし。念のため、乗客には“最寄り空港への変更の可能性”をアナウンスしとこう」


 機内アナウンスのマイクを取り、隼人の声が機内に響いた。


 《本日はJAL1905便をご利用いただきありがとうございます。現在、目的地・宮崎空港において火災による滑走路の一時的な使用制限が発生しており、当機は現在、状況を確認しつつ飛行を継続しております。場合によっては、鹿児島空港など最寄りの空港に着陸する可能性がありますことをご了承ください》


 客室の不安を最小限に抑えるため、隼人は言葉を選びながら話した。


 CA席でマイクを握るアンナが、彼の方を見て小さく頷いている。


    ***


 そして、運命の時が来た。


 「宮崎アプローチより通達。滑走路使用不可。JAL1905便、直ちにゴーアラウンドの指示」


 「JAL1905、了解。ゴーアラウンド開始」


 副操縦士が操縦桿を引き、スラストレバーを押し込む。機体はスムーズに上昇軌道へ入る。


 が――。


 その瞬間だった。


 「――ん?」


 左エンジン側から、小さな震動。そして、鈍い音。


 警報灯が一つ、赤く点滅した。


 《WARNING: LEFT GEAR HYDRAULIC SYSTEM FAILURE》


 続いてもう一つ。


 《ENGINE FIRE LEFT: AUTO SUPPRESSION INITIATED》


 「左エンジン、火災! 自動消火作動! ギア系統も異常!」


 副操縦士が叫ぶ。


 桐谷は一瞬で判断した。


 「左エンジン停止! ダイバート決定、鹿児島へ! ATCへ緊急通報!」


 コックピットに緊張が走る。火災が収まらない場合、最悪のケースすらあり得た。


 「CAへ緊急通話!」


 マイクを取る。


 《アンナ、こちらコックピット。左エンジンに火災が発生、ただいま消火作動中。鹿児島空港へ緊急着陸する》


 《……了解。乗客に影響が出ないよう、備えます》


 その声は少し震えていたが、彼女はすぐに冷静さを取り戻した。


 機体は鹿児島上空に達しつつある。


 「ギア出すぞ……!」


 だが――。


 ギア展開の瞬間、機体後方で激しい衝撃。


 「爆発音……ギアが……!」


 モニターに異常表示。


 《GEAR DEPLOY FAILURE》《HYDRAULIC SYSTEM B DAMAGE》


 「やばい、後方のギアが吹っ飛んだぞ……左主脚が完全に損傷してる!」


 「機体傾斜あり。右脚のみで接地する必要があるかも」


 「非常着陸モードに入る。CAに通達。全乗員、全乗客へ指示出すんだ」


 鹿児島空港に連絡が入る。


 《こちら鹿児島タワー、全滑走路閉鎖準備中、緊急受け入れ態勢完了》


 「了解。桐谷、機長権限発動、非常事態着陸を開始する」


 ――B787、片脚・片エンジンでの緊急着陸

鹿児島空港への最終進入。

桐谷隼人の目は、警告灯が点滅するグラスコックピットと、前方に広がる滑走路に注がれていた。


左エンジン火災。

左主脚の破損。

後方のギアにも異常。


それでも――着陸するしかなかった。


「フラップ30。ギアダウン……確認不能。メインギア、左側は反応なし」


「了解、ランディングチェックリスト完了。最終接近、ウィンド calm、視界良好。…行ける」


副操縦士が短くうなずく。

心拍数は高まる一方だが、視界は驚くほど澄んでいた。訓練で幾度もシミュレーションした状況――その“本番”が、いま目の前にある。


機内。

客室乗務員たちが必死の表情で乗客に声を張り上げていた。


「伏せて!伏せてください、頭を伏せて!」


小机アンナが、通路の一番後方で体を支えながら叫ぶ。


「前の座席に頭をつけて!腕で頭を守ってください、伏せて、伏せてください!」


子どもの泣き声。

歯を食いしばるビジネスマン。

震える高齢の女性の肩を、別の乗客がそっと抱く。


――そのすべてが、数十秒後の未来を、無言で見つめていた。


**


「500」


「400」


「300」


「200」


「100」


「……50」


桐谷は両手で操縦桿を握りしめ、息を殺した。


「……40……30……」


緊張が、鼓膜を圧迫する。


「20……10……」


そして――


ドォンッ!!!!


「すげぇ揺れる、やべえ……!」


口から漏れた言葉は、震えていた。

左主脚の衝撃が機体を斜めに押し上げ、B787は横滑りしながら着地した。

火花。振動。衝撃。機体はまるで、空から地面に叩きつけられたかのように身をよじった。


「左エンジン出火!非常停止処置を!」


副操縦士の声に、桐谷が一瞬で対応。


「エンジン1、アイドルカット!ファイアハンドル、プル・ローテイト……放水!」


「APUシャットダウン!バッテリーカット!脱出指示を!」


桐谷は深く息を吸い、インターコムを取った。


「全乗客に告ぐ、こちらは機長。これより緊急脱出を実施する。乗員の指示に従い、落ち着いて行動を」


スライドレバー、アーム!


客室乗務員の声が機内に響き渡った。


「ドアオープン確認!脱出開始!」


「こちら2L、スライド展開!誘導開始!」


煙が機内に侵入する前に、CAたちは迅速に脱出誘導を始めていた。

泣き叫ぶ子どもを背負って走る母親。

手を取り合って脱出する老夫婦。

CAたちの「ジャンプ!ジャンプ!滑って!」という声が、必死に続く。


最後に桐谷は振り返る。

誰も残っていないか。

仲間は。

小机アンナは――無事に外へ出たのか。


「全員脱出確認!」


桐谷はマニュアル通りにコックピットを確認し、シートベルトを外し、左の非常用スライドから滑り降りた。


冷たい風と、燃えるエンジンの匂い。

背後から煙が立ち上り、消防車がサイレンを鳴らして駆け寄ってくる。


滑走路の上。

全員が地面に立っていた。


乗客も、乗員も、桐谷自身も。


誰一人、欠けることなく。


**


その夜。

鹿児島空港の一角、警備区域に用意された仮設の待機室。


桐谷は毛布を肩にかけ、非常対応報告書を書いていた。

震える手に、まださっきの衝撃が残っている。


そこに、小机アンナが歩み寄ってきた。


「機長……ありがとうございました」


彼女の声は震えていたが、目は真っすぐだった。


「あなたが操縦してくれたおかげで……私、誰も失わずに済みました」


桐谷は、一瞬だけ目を閉じる。


そして、疲れ切った笑みを浮かべながら、小さく頷いた。


「……訓練、嘘つかないな」


「はい。私たち、本当に乗客を守れました」


外では、夜風に揺れる滑走路の明かりが、静かに瞬いていた。


“空”は試練を与える。

だが、そのたびに、空を信じられる人間を試しているのかもしれない。


今日、桐谷隼人はその空に、試され、そして応えた。


次の朝も、空は変わらず、彼を待っている。

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