第14話風の音君の声
第14話「風の音、君の声」
2019年4月。
春霞のかかる朝の羽田空港第1ターミナル。桐谷隼人は機長として、今日もいつもと変わらない一日を迎えていた。
だが──心の奥では、確かに何かが変わり始めていた。
「おはようございます、機長。本日もよろしくお願いします」
その声に振り返ると、そこには制服姿の小机アンナがいた。柔らかな微笑みと、凛とした佇まい。桐谷は不意に胸が高鳴るのを自覚し、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
「こちらこそ、よろしくお願いします。函館、天気は良さそうですよ」
「はい。初めて行くんです、楽しみです」
それは、ほんのささやかな会話に過ぎなかった。だが、彼女の笑顔には、言葉以上の何かが宿っていた。
函館行きJAL589便。
春の冷たい風に背中を押されながら、ボーイング737は順調に北へ向かっていた。
巡航中、コックピットでは静かな時間が流れていた。副操縦士との必要な会話を終えた後、桐谷はふと後方のキャビンを思い浮かべた。小机アンナ──今ではすっかり“特別な存在”になりつつある彼女の姿を。
……どこがきっかけだったのだろう。
思い返してみても、明確な瞬間はなかった。ただ、いつの間にか目で追っていた。気づけば、彼女がいる便では自然と心が軽くなっていた。
函館空港に到着し、乗客の降機を終えたあと、ふたりは空港のスタッフ用待合室で偶然顔を合わせた。
「少し、外に出てみませんか?」
そう声をかけたのはアンナだった。驚いたが、桐谷はうなずいた。
空港の滑走路を少し離れた展望台に立ち、ふたりは冷たい春風を頬に受けながら、黙って遠くの空を見ていた。
「……風、強いですね」
「でも、嫌じゃない。こういう風、なんだか……気持ちを運んでくれるような気がして」
アンナが呟く。
桐谷はその言葉に、自分の感情もまた運ばれていることに気づいた。
「アンナさん」
「はい?」
「……今度、よかったら、どこか一緒に食事でもどうですか?」
彼女は少し驚いた表情を見せた後、静かに笑った。
「……はい。行きたいです、桐谷機長となら」
その瞬間、函館の風がふたりの間を吹き抜けた。
淡く、しかし確かに。空の匂いをまとった風が、ふたりの距離を、少しだけ近づけた。