第12話再び空へ
第12話「再び、空へ」
2019年3月15日・羽田空港 第1ターミナル 乗員控室
桐谷隼人は、白くて硬い天井を見上げながら、深く椅子に座っていた。
制服は新品に近く、シャツの襟はきれいに糊が利いている。その左胸には、確かに「CAPTAIN」のバッジが光っていた。
半年ぶりのフライト復帰。しかも、自分の名前が責任者として登録されたフライトプランに刻まれているという事実は、何よりも重く、何よりも誇らしかった。
「……おかえり、桐谷機長」
聞き慣れた声に顔を上げると、そこには柳瀬悠人の姿があった。
制服姿で、今や立派な国内線機長。彼は笑いながらペットボトルのコーヒーを投げてよこした。
「復帰便、今日だって聞いたからさ。挨拶ぐらいしとこうと思って」
「わざわざ来たのかよ……忙しいんじゃなかったのか」
「まあな。けど、言いたかったんだよ」
柳瀬はニヤリと笑いながら、指を立ててこう言った。
「“俺の方が先に機長になっちゃったよ”ってな」
桐谷は吹き出した。半年ぶりの笑いだった。
「お前、昔からそういうのだけは忘れねえな……」
「当たり前だろ?でも、マジでおめでとう。お前のフライト、乗客が乗ってる便でまた見られるのが嬉しいよ」
「ありがとう」
桐谷は真っ直ぐ柳瀬を見た。
「でもな。これでスタート地点に戻っただけだ。俺は“機長バッジ”じゃなく、“信じられる操縦”を身につけたい。あの事故のあと、ずっと考えてた」
「……それでいい。お前はそういうやつだ」
互いに拳を合わせ、別れの一礼を交わした
コックピットに入った桐谷は、シートに深く腰掛けた。
右席には若手副操縦士の山中が座る。研修を終えたばかりのフレッシュな顔。緊張気味だが、桐谷の表情に少し安心した様子を見せた。
「山中、副操縦士。今日はよろしくお願いします」
「はいっ!こちらこそ……桐谷機長の復帰便、すごく光栄です」
「肩肘張らずにいこう。空は、いつも通りそこにある。俺たちが焦る必要なんかない」
エンジンスタート、タクシーアウト、滑走路進入──すべての流れが体に染み込んでいるように自然だった。
ただ、半年のブランクがあったという事実だけが、時折、背後からささやく。
(忘れてない。あの日、あの衝突、あの骨の軋む音。けれどそれと、空を飛びたいという気持ちは、別の話だ)
「Takeoff thrust set」
「80ノット……V1……Rotate」
桐谷は操縦桿を引いた。機体が持ち上がる。
ふわりと、視界が開けた。
東京湾が見える。雲を越える。すべてが、あの日のままだった。
道央の空には、春の残雪がまだちらついていた。
着陸態勢に入ったJAL523便は、順調なアプローチを維持していた。
山中が最終チェックを読み上げ、桐谷はそれに応答する。
「フラップ30、ギアダウン、着陸灯オン……よし、風速7ノット、RWY01Lへ進入」
眼前に滑走路が伸びる。機体の姿勢が保たれ、スレッショルドが静かに迫る。
「着陸、手動でいく。俺が取る」
「はい、Go ahead」
そして──
「……タッチダウン」
メインギアが優しく滑走路を捉えた。リバース・スラスト、スピードブレーキ、減速。機体が滑走路上で安定する。
副操縦士が思わず呟いた。
「完璧なランディングでした……」
「完璧じゃなくていい。けど、“信じられる操縦”だったろ?」
「……はい」
乗客を送り出し、キャビンクルーも「お疲れさまでした」と微笑んでコックピットを後にしたあと、桐谷はひとり操縦席に座り続けていた。
半年の空白。怪我、リハビリ、喪失感。そして今日の復帰。
すべてが、一つに繋がった瞬間だった。
「……帰ってきたぞ」
コクピットの静けさに向かって、誰にも聞かれないように呟いたその言葉が、たしかな重みとなって胸に落ちた。
回送便の中、桐谷は窓の外を見ていた。
右腕にはまだ、事故の痕が微かに残っている。だが、その傷はもう痛まなかった。
いや、むしろ誇りだった。
痛みを知ったパイロットこそが、誰よりも“安全”を信じることができる──そう思えた。
明日はまた、新しい空が待っている。
その空に、何度でも挑み続けることが、桐谷隼人という人間の本質なのだろう。
今日、再びその一歩を踏み出した。
未来へ続く空は、きっと彼を歓迎してくれるはずだ。