第10話緊急脱出その時、空を託す者たち
第10話「緊急脱出、その時、空を託す者たち」
2019年3月。羽田にあるJALの安全訓練センター――通称「訓練棟」の一角。
桐谷隼人は、B787の模型が置かれたブリーフィングルームにいた。
今日のテーマは「緊急脱出訓練」。
エンジン火災、客室火災、バードストライク、ハイドロプレーニング、スライド展開、非常口開放――
ありとあらゆる“最悪”を想定したフルスケールの訓練だ。
「訓練開始まで10分です。機長、副操縦士、客室乗務員、整備士は各ポジションに――」
場内アナウンスが響く。
隼人は一度深く息を吐いた。今や彼は、機長として、チーム全体を“引っ張る側”の立場だ。
教官役のベテランパイロット・大友がこちらにやってくる。
「桐谷機長、今回のシナリオは“離陸直後にエンジン火災、即時着陸後に客室火災発生”だ。30秒以内に状況把握と判断、1分で脱出指示を出せ」
「了解しました」
隼人の瞳に、熱が宿る。
「……空の上では“迷い”が命取りになる。今日も命を背負ってるつもりで挑めよ」
訓練とはいえ、そこに流れる緊張感は“実戦”と何ら変わらない。
訓練機材のB787モックアップが揺れ始める。
「V1……Rotate」
副操縦士役の田村が声を出す。
離陸直後、突然、左側のエンジンが「ボンッ」と破裂音を立てて火を噴く。
客室のスピーカーからは「火災発生!火災発生!」の自動音声。
機体のモニターに「L ENG FIRE」の警告が赤く点滅する。
隼人は冷静だった。
「左エンジン火災。エンジン停止手順に移行。ATCにリターン要求。緊急着陸準備開始」
声に迷いはない。
整備士役、客室乗務員役と次々に連携が走る。
やがて、仮想の羽田空港に緊急着陸。
滑走路上で機体が完全に停止した瞬間――
「後部で煙!火災拡大!」
客室乗務員からの報告。
迷う時間はない。
「桐谷機長、判断を!」
「……全員脱出!両側ドアオープン!スライド展開!」
スピーカーから再現される脱出アナウンス。
乗客役のダミー人形がスライドを滑り降りるシーンまで、すべてが本番さながら。
汗をかきながらブリーフィングルームに戻ってきた隼人に、大友教官が声をかけた。
「冷静な判断だった。お前はやっぱり、緊急時の空気を掴むのが上手い」
「ありがとうございます。でも、もし本当だったら、怖かったと思います」
「それでいい。怖さを忘れた時が“墜ちる時”だ。……忘れるな、“空の責任者”ってのはな、何があっても“信じさせる声”でなけりゃならん」
隼人はその言葉を、静かに胸に刻んだ。
訓練終了後、スマホに一通のメッセージが届いていた。
>「お疲れ。今日は訓練だったろ?そろそろ、次のステップ考えてるか?
>俺は教官資格、受けてみようかと思ってる。
>……負けんなよ、桐谷機長。」
隼人は小さく笑い、短く返信した。
>「なら、俺もそっちに行くよ。空の先、見てみたくなったからな」
訓練が終わっても、隼人はなかなか帰路につかなかった。
薄暗くなった安全訓練センターの廊下を、静かに歩いていた。
ふと、窓から見える模擬機体のシルエットに足を止める。
日中の熱を吸い込んだその胴体は、今は静かに眠っているようだった。
「俺たちは、こういう機体に命を託されてるんだよな……」
そんな独り言に、背後から声がかかった。
「託すんじゃなくて、守るんだ。機体を、乗客を、自分を」
振り返ると、教官の大友が煙草を片手に立っていた。喫煙エリアからの帰りだったらしい。
「大友教官……」
「お前さ、機長として“ひとつ上”を狙ってるだろ?」
「……はい。教官資格、視野に入れてます」
「いい心構えだ。ただ、教官ってのは“飛ぶ人”を育てる仕事だ。腕がいいだけじゃ務まらない」
「わかってます。今の自分じゃまだ足りない。だから……、もっと空の“奥”まで見てみたいんです」
大友は笑いもせず、ただ頷いた。
「なら、いつか俺の代わりになってみろ。俺が引退したら、訓練棟のこのフロア、お前に譲るよ」
「……それはプレッシャーがでかすぎますよ」
「そのくらいでちょうどいい。空ってのは、いつだって“最悪”を想定しておかなきゃならん」
短く会話を交わし、大友は歩き去っていった。
隼人は、窓の向こうの訓練機に目を戻す。
自分が初めて操縦したB787の記憶が、胸に蘇る。
帰宅途中、スマートフォンが鳴った。
相手は柳瀬悠人だった。
「もしもし、柳瀬?」
「おう。訓練、無事終わったか?」
「なんとかね。疲れたよ。緊急脱出って、やっぱ精神すり減るわ」
「わかるよ。あれ、心削るよな」
電話越しでもわかる安心感。柳瀬とは、飛ぶ機体も路線も違っても、変わらぬ信頼があった。
「お前、次のチェックいつだっけ?」
「来月。教官になるには、あと2ステップ」
「すげえな。俺なんてやっと機長になったばっかだぞ」
「いや、そっちの方が先だったじゃん。『俺の方が早く機長になっちゃったよ(笑)』って言ってたろ」
「言ったなあ……でもな、今になってようやく“背負う怖さ”がわかったよ。あの時は正直、軽く見てた」
隼人は少し黙ってから言った。
「怖さを知ってるやつが飛ぶほうが、俺は安心する」
電話の向こうで柳瀬が笑った。
「……なんだよ、名言か?」
「いや、ただの本音」
日々のフライト、訓練、整備士とのやりとり、客室乗務員とのブリーフィング。
すべてが機長としての責任を深めていく。
そして、次の訓練が近づいていた。
「教官資格」の初ステップ――教官候補によるモニタリング評価。
当日。訓練棟の一角で、大友教官が隼人に手を差し出した。
「今日は“監視される側”から“導く側”への一歩だ。準備はいいか?」
「はい。どんな訓練でも、空を信じる者として、全力で臨みます」
隼人はもう“機長”ではなく、“次の空”へ飛び立つ男の顔をしていた。
訓練室に入り、若い副操縦士候補が立っていた。
緊張で顔がこわばっている。
隼人は、その前に立ち、静かに言った。
「空は、簡単に許してくれない場所だ。でも、俺たちが信じて飛べば、必ず応えてくれる」
それは、かつて自分が誰かに言われた言葉だった。
それを今、未来の空を飛ぶ誰かへと託していく。
― To Be Continued ―