覚悟
(……受け入れて、しまった)
そう思った瞬間、胸の奥がひどく静かになった。
言葉にした時の震えも、鼓動の速さも、
今はどこか遠い。
(逃げ道は、もうない)
そう理解しているのに、不思議と後悔はなかった。
王の言葉が、まだ耳の奥に残っている。
――知らぬまま頷かせる協力を、信頼とは呼ばない。
(そんなこと……普通は、言わない)
王という立場にいる人間なら、
隠して、利用して、必要なら切り捨てる方が合理的だ。
それを、最初から捨てた。
(……だから、断れなかった)
自分が善人だからでも、勇敢だからでもない。
ただ、
あの瞬間、あの人の前で「何も知らないふり」を選ぶ方が、
よほど自分を裏切る行為に思えた。
(プログラムでも……同じだ)
不完全な仕様を隠したまま運用すれば、
必ずどこかで破綻する。
(だから、先に全部見せた……?)
胸の奥で、別の思考が芽生える。
(違う)
(“見せた”んじゃない)
(“賭けた”んだ)
この国の未来を、
得体の知れない一人の人間に。
(……重いな)
ようやく、その重さを実感する。
手のひらが、じっとりと汗ばんでいる。
(Re;writer……)
まだ、誰もその言葉を口にしていないのに、
その概念だけが、脳裏に浮かぶ。
世界に干渉し、
事象を書き換える力。
(もし、それが本当なら……)
(私は今、世界の“内部仕様”に触れようとしている)
背筋が、わずかに震えた。
恐怖。
期待。
責任。
全部が、区別できないまま、胸に溶けている。
(……でも)
視線の端に、サラシャの背中が映る。
(あの人は、すでに一度、ここを通った)
それなら。
(私だけが、特別なわけじゃない)
(ただ――選んだだけだ)
ゆっくりと、息を吐く。
逃げたいと思う自分も、
試してみたいと思う自分も、
どちらも否定しない。
(大丈夫)
(私は、分からないまま進むのには慣れてる)
画面の向こうのバグだらけの世界で、
答えのない仕様と向き合ってきた。
(……だったら)
(この世界も、同じだ)
沙良は、そっと目を閉じた。
そして、心の中でだけ、小さく宣言する。
(壊さない)
(でも、書き換えるなら――ちゃんと理由を持って)
王・アルフレッド視点
アルフレッド・アルバ・ヴァレンシアは、玉座の肘掛けに指を置いたまま、静かに沙良を見つめていた。
――妙だ。
それが、彼の率直な感覚だった。
沙良は畏縮していない。
だが、無礼でもない。
王の前に立つ者が見せがちな緊張とも、虚勢とも違う。
(……まるで、こちらを“測っている”ようだな)
国王という立場に就いてから、数え切れぬほどの人間を見てきた。
忠誠を誓う者、恐怖に震える者、野心を隠す者――
だが、沙良の視線には、どれとも異なる性質があった。
理解しようとしている。
それも、感情ではなく、構造そのものを。
アルフレッドは、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。
(……サラシャが連れてきた理由が、少しだけ分かる気がする)
そして、顔を上げる。
「――異変の話に戻ろう」
その声は、王としての威厳を帯びていたが、どこか試すような響きを含んでいた。
アルフレッド王は、交易区、市場、そして王都近郊にまで広がる異変の範囲を、簡潔かつ正確に語った。
発生条件が不明であること。
持続時間が一定でないこと。
そして――内部でのみ観測される不整合。
沙良は、その説明を一言も挟まずに聞いていた。
驚きも、恐怖も、表には出さない。
ただ、情報を受け取り、頭の中で何かを組み立てているような沈黙。
その様子を、誰よりも鋭く見ていたのが――宰相シグルド・レヴィンだった。
シグルドは、無意識のうちに眼鏡の位置を直していた。
(……違うな)
彼は内心でそう断じる。
沙良は、異変の「結果」に反応していない。
彼女が注目しているのは、王の説明の中に含まれる前提のズレだ。
(理解できないから黙っているのではない ーー 理解できすぎて、言葉を選んでいる)
シグルドは、そこで初めて沙良を
「サラシャの保護対象」でも
「巻き込まれた一般人」でもなく――
評価すべき存在として見た。
「……沙良殿」
静かな声で、宰相が呼びかける。
「君は、今陛下がお話しになった異変について“自然現象ではない”と仮定した場合、どこに最初の違和感を覚えた?」
それは問いであり、
同時に――試験だった。
シグルドの視線には、先ほどまでの探る色はない。
代わりにあるのは、冷静な期待。
(答え次第で――この者の立ち位置は変わる)
王も、サラシャも、その空気の変化を感じ取っていた。
沙良へと、場の重心が静かに移っていく。
沙良は、すぐには答えなかった。
一度だけ視線を伏せ、言葉を選ぶように小さく息を吸う。
「……自然現象ではない、と仮定した場合、ですか」
そう前置きしてから、顔を上げる。
「一番最初に違和感を覚えたのは―“影響の仕方が均一すぎる”点です」
その言葉に、シグルドの眉がわずかに動いた。
「嵐や地震のような自然災害なら、強弱や揺らぎが必ず出ます。
場所ごとの差、時間的なズレ、例外……そういったものが」
沙良は、王や宰相を順に見渡しながら続ける。
「でも、お話を伺う限り、異変は一定の範囲内で、同じ“状態”を保ったまま発生している。それは、偶然というより――」
言葉を切り、少しだけ間を置く。
「条件が揃った時に発動する何かに近い印象を受けました」
空気が、静かに張り詰めた。
「もう一つ言えば……」
沙良は、ほんのわずか視線を落とす。
「異変の説明を聞いていて、
“何が起きたか”よりも、
“何が起きなかったか”の方が気になりました」
「起きなかった、とは?」とシグルド。
「はい。本来なら巻き込まれていてもおかしくないものが、影響を受けていない。それは偶然ではなく、除外されているように感じます」
断定はしない。
だが、言葉の一つ一つが、理路として積み上がっていく。
「ですので……」
沙良は静かに結論を置いた。
「もしこれが人為的なものだとしたら、無差別な攻撃ではなく、“設計された干渉”だと考える方が自然だと思いました」
言い終えた後、沙良は一歩も引かず、ただ待った。
――評価されることを恐れている様子はない。
必要なことを、必要な分だけ述べた、という態度だった。
アルフレッド王は、玉座に深く腰を掛け直した。
それは、先ほどまでの“話を聞く王”ではなく、
決断を告げる王の姿だった。
「沙良」
名を呼ばれた瞬間、空気が変わる。
「すでに君には、我が国の異変調査への協力をお願いしている」
王は事実を淡々と確認する。
「だが、それはあくまで外部協力者としての立場だ」
「――今から話すのは、その先の話だ」
一瞬の沈黙
王は、静かに沙良を見つめていた。
その視線には、詰問の色はない。
だが、何かを量るような沈黙があった。
「君は、あの異変の最中、その中心を一度“見失い”――」
言葉が、そこで切られる。
間が落ちた。
「そして、こう言った。『すでに一度、そこを通った者がいる』と」
沙良は、はっと息を詰めた。
「……あれは、独り言です」
咄嗟にそう答えていた。
自分でも、なぜ弁解するような言い方になったのかわからない。
「承知している」
王は穏やかに頷く。
「だからこそ、我々は耳に留めた」
沙良の胸の奥が、わずかにざわついた。
「異変の只中にいた者の多くは、『止まった』『消えた』『おかしかった』としか言えなかった。現象を、そのまま口にしたのだ」
王の視線が、ほんの一瞬、横へ流れる。
シグルドの方だ。
「だが、君の言葉は違った。“誰かが通った”と表現した」
低く、噛みしめるように続ける。
「それが何を意味するのか――我々は、まだ結論を出していない」
沈黙。
「だが一つだけ、確かなことがある」
王の声が、少しだけ重くなる。
「それは偶然の言葉ではない、ということだ」
シグルドが、腕を組んだまま短く息を吐いた。
視線が、改めて沙良へと向けられる。
試す色が、わずかに薄れていた。
王は続けて、
「沙良。君が市場で見せた反応、異変への理解速度、
そして“止まった世界”の中での挙動」
「それらは、一般の者の理解や反応の範疇を明らかに超えている」
「ゆえに私は判断した。君を単なる協力者として扱うことは、この国にとっても、君自身にとっても危険だと」
沙良の胸が、わずかに強く脈打つ。
(……危険?)
アルフレッド王が、はっきりと告げる。
「ゆえに提案する」
「沙良。君を――王国直轄の特別観測班、ならびに
異変解析の中核補助として位置づけたい」
それは、昇格だった。
同時に、逃げ道を塞ぐ言葉でもある。
「王都内外で発生する異変に関する情報は、今後、段階的に君にも開示する」
「また、必要とあらば、王国の研究資源、人材、記録へのアクセスも許可しよう」
静かだが、重い。
「これは命令ではない。だが――我々は、君を“中心に据える覚悟”を固めた」
沙良は、思わず視線を落とした。
(中心……?)
(私は、まだ何も成し遂げていない)
(ただ“気づいてしまった”だけなのに)
頭の奥で、無数の思考が交錯する。
沙良はすぐには答えなかった。
代わりに、ゆっくりと一度息を吐き、顔を上げる。
「……陛下」
その声は震えていない。
だが、慎重に選ばれていた。
「ひとつ、確認させてください」
アルフレッド王は頷き、続きを促す。
「私を“中心”に据えると仰いましたが……」
「それは、私が最も適任だからですか?」
一瞬、空気が張り詰める。
沙良は視線を逸らさず、言葉を続けた。
「それとも――」
「他に代わりがいないからですか?」
その問いは、鋭かった。
ただの不安ではない。
王達の判断基準そのものを問う質問。
シグルドの目が、わずかに細まる。
(……試しているな)
ドミニクは息を呑んだ。
アルフレッド王は、少しだけ間を置いた後、低く、だが誤魔化しのない声で答えた。
「……両方だ」
沙良の胸が、わずかに跳ねる。
「君は、現時点で最も適任だ。異変を“力”ではなく“構造”として捉えている」
「そして同時に――この国には、同じ視点を持つ者が他にいない」
「それが現実だ」
沈黙。
「だからこそ、君を外側に置く選択はできなかった」
「守る対象として扱うより、共に考え、共に判断する位置に置く方が、まだ誠実だと判断した」
沙良は、ゆっくりと目を伏せた。
(……誠実)
(それは、責任も覚悟も、全部こちらに渡すという意味)
逃げ道はない。
だが、使い捨てでもない。
(なるほど……)
(だから、最初に“切り札”を見せたんだ)
顔を上げる。
「……分かりました」
その声は、先ほどよりも静かで、
だが確かだった。
「理由を聞けて、納得しました」
そして、ほんの少しだけ笑う。
「それなら――中途半端な立場でいるより、最初から腹を括った方がいいですね」
その瞬間。
シグルドは確信した。
(この少女は、
中心に“据えられる”存在ではない)
(——自分でそこに立つ者だ)




