市場の案内、そして異変
沙良は朝の柔らかな陽光で目を覚ました。窓から差し込む光が、昨日の疲れを少しずつ癒していくように感じられる。目を開けてぼんやりと天井を見上げると、昨日と同じ異国風の部屋が静かに佇んでいる。
(ここは…サラシャさんの家…)
一晩明けても、まだこの状況が現実だという実感が湧いてこない。自分が知らない世界で目覚めるという異常さに、沙良の心は静かにざわめいた。
「おはようございます、沙良。よく眠れましたか?」
扉の向こうから優しい声が聞こえてきた。沙良が顔を向けると、サラシャが部屋に入ってきた。柔らかな笑顔で彼女を見つめている。
「おはようございます、サラシャさん…。はい、よく眠れました。ありがとうございます」
サラシャは頷きながら、「朝食が出来てますよ」と沙良をダイニングへ案内した。広くはないが落ち着いた雰囲気の食卓には、簡素ながらも温かみのある朝食が並んでいる。
「これは……すごいですね」
沙良は食卓に並んだ食事を見て驚いた。見たことのない食材や料理が並び、異国の雰囲気を一層感じさせる。
「朝食は軽めにしましたけど、気に入ってもらえると嬉しいです」
サラシャは微笑みながら椅子に腰掛けた。沙良もそれに倣いゆっくりと手を伸ばす。見たことのない料理に少し戸惑いながらも一口食べてみると、想像以上に美味しく感じられた。
「これは……美味しいです!」
(そういえば…朝食なんて食べたのいつ以来かしら?)
「そう?それは良かった」
そんな、柔らかい笑顔で答えたサラシャの返事を聞いて、ふと気になった事を聞いてみる。
「それはそうと、サラシャさんは歳はおいくつなんですか?」
「28歳ですよ。…そういえば言っていませんでしたね。沙良は?」
「私は25歳になります。でしたら……まあ…できたらでいいんですが…、もう少し砕けた感じで話してもらえませんか?歳上から敬語で話されると落ち着かなくて…」
と少し言いづらそうに沙良が頼むと
「…ええ、わかったわ。こんな感じでいいかしら?沙良」
と笑顔で微笑む。そんなサラシャを見て、沙良は顔が熱くなるのを感じながら満足気に頷いた。
(うん!やっぱりこの方がしっくりくる。…なんだか理想の優しい姉って印象だったけど…ホントにそんな気になるわね…。まあ、私に姉はいないけども…)
「そうそう、沙良が昨日着ていた服だけど、砂で汚れていたから洗濯しておいたわよ。出かける前に着替えるといいわ」
(……やっぱり、姉っていうより母親っぽいわね…。)
朝食を終えた後、サラシャは沙良を連れて下町の市場へと出発した。朝の市場はすでに活気に満ち、人々が行き交う中異国情緒あふれる街並みが広がっている。サラシャの家もあるこの下町は日常の生活が感じられる場所だ。
「ここが下町の繁華街よ。市場もあっていろんな物が揃っているわ。」
サラシャはにこやかに説明しながら、商人たちが活発に取引をしている通りを案内する。屋台や露店がずらりと並び、食材や手工芸品、衣服などが所狭しと並べられている。
「ここには色んな人達が集まっていて、それぞれが自分の商売をしているの。見ているだけでも楽しめるわよ。」
沙良は周囲を見渡しながら、鮮やかな色彩に目を奪われる。見たこともない品々や、異国風の装飾が彼女の視界を埋め尽くす。
「本当に賑やかで、見たことのないものばかり……。こんな所があったなんて……」
沙良は驚きを隠せなかった。これまでの生活では見かけなかった物や光景が広がっており、まるで別の世界に迷い込んだようだと感じる。
「ここは本当に素敵な場所ですね」
(ホント夢みたいだわ。これは…、物語の中にいるみたいな感じ…ってのが一番しっくりくる表現ね)
そう言いながらも、沙良の心の奥には再びあの違和感が湧き上がってきた。サラシャの親切さやこの世界の整然とした美しさが、どこか現実離れしているように感じる。
(……本当に、ここは現実なんだろうか?)
その疑念が、次第に沙良の心を締め付けていった。
下町を歩きながら、沙良はサラシャに続いて賑わう商店街を通り過ぎ交易区へと向かっていた。交易区に近づくにつれて商人たちの声が一段と大きく響き、活気がさらに増していく。
「ここが交易区よ。地方や他の国からの商人達が集まって、珍しい品物や食材を扱っているわ」
サラシャが説明する通り、交易区は下町とはまた異なる洗練された雰囲気が漂っている。店の規模も大きく、並べられた商品も高価そうなものが目に入る。異国の香りが漂い、沙良は目を輝かせながらその景色を眺めた。
「すごい……こんなに色んな国の物が集まるなんて……」
沙良はふと立ち止まり、一つの店先で足を止めた。並べられた装飾品や織物が目を引く。その一つ一つが異国のデザインであり、細部まで丁寧に作られていることが一目で分かる。
「どれも手が込んでいて……とても綺麗ですね」
「そうね、ここでは色んな国の技術や文化が交流しているの。それぞれが独自の魅力を持っているわ」
サラシャの言葉に耳を傾けながら、沙良は異国情緒に浸っていた。しかしその時、彼女の視界の端にふと奇妙なものが映り込んだ。
「……あれ?」
沙良は一瞬足を止めた。市場の喧騒の中で、目に入ったのは一人の男性だった。彼は商品を手に取っていたが、その動作がどこか不自然に感じられた。まるで、ぎこちなく、繰り返すような動き。
(なんだろう、今の……)
少し首を傾げながらその男性をじっと見つめた。だが次の瞬間、彼の動きが一瞬止まったように見えた。そして、すぐに再び動き出した。
「……気のせい?」
(でも…この感覚、どこかで……)
違和感を覚えつつもその場を離れる。しかし歩いている間も、何かがずれているような感覚が頭の中に残っていた。
サラシャと話しながらも、彼女の意識は次第に別の方向へと向かっていった。
それからしばらく歩いて、交易区の中心部に差し掛かった時、突然沙良は足元がふらつくような感覚に襲われた。
「え……?」
足を止め、周囲を見渡した瞬間だった。
―――交易区全体が、静止した―――
サラシャを除くすべての人々――商人、客、動物、風に揺れる木々までが、一瞬にして動きを止め、時と共に空気すらも凍りついたように感じられた。
「……何、これ……?」
沙良の心臓がドクンと脈打ち、息が詰まる。心臓が早鐘を打ち、恐怖と混乱が交錯する。まるで周囲の全てが、一枚の絵の中に閉じ込められたように見えた。彼女は目を瞬かせ、再度確認したが、誰一人として動かない。
「沙良、どうかした?」
――しかしサラシャは、普段と変わらない様子で沙良に声をかけてきた。彼女は一切動揺した様子を見せず、沙良の疑念をさらに掻き立てた。
「サラシャさん……この人たち、どうして……」
沙良は言葉を詰まらせながら、静止した人々を指さした。
交易区全体が静止したまま、まるで映像のフレームが途切れたような奇妙な静寂、この場で動いているのは2人だけ…。全てが止まっている――それは間違いない。
しかし、サラシャは一瞬彼女の視線を追った後、しっかりと沙良を見据え、穏やかな笑顔を保ったまま告げる。
「どうしたの?人々はちゃんと動いているわよ」
サラシャの穏やかな声が耳に響く。その言葉に沙良は瞬間的に違和感を覚えた。
(え?……ちゃんと動いている?)
沙良は周りを見渡しながら、頭の中でその言葉を反芻する。彼女の視界には、動きを止めた人々がまるで彫像のように立っている。にもかかわらず、サラシャは「動いている」と言い切った。
(なんで、そんなおかしな言い方を……。今の言葉……私が見ている現象を正確に理解してるって事よね)
一瞬のうちに、沙良の中にある確信が芽生え始めた。サラシャは確実に何かを知っている。彼女が理解していないはずがない。沙良が見ているこの異常な現象を、見て見ぬふりをしているかのような彼女の言動がその確信をさらに強めた。
(……私には見えている。でも、サラシャさんは……わかっているはずなのに、そうじゃないふりをしている)
沙良の心臓が激しく鼓動する。この世界には何かが隠されている。そして、それを知っているのはサラシャだけだ。
「……どうかした?」
再びサラシャが微笑んで問いかけてきたが、その笑顔が今は恐ろしい…。
(なんか…サラシャさんの笑顔が……なにか含みがあるようで怖く見える…)
沙良の胸の中には疑念が膨らんでいくばかりだった。彼女は一歩下がり、再び周囲を見回した。
―――すると、世界の喧騒が戻る。まるで停止した動画を再生するかのように、世界が動き出す。行き交う人々は何事もなかったかように流れて行く。しかし、そんな異常な状況にもかかわらず、サラシャだけが何事もなかったかのように振る舞っている。
(……やっぱり、何か隠してる……)
サラシャはこの世界の異常さを理解している。そう確信した沙良はもう一度サラシャの顔を見た。その穏やかな表情の裏には、確かな意図が隠されているように思えた。
(……私を、騙そうとしているの?…いや、だとしたら…あの言動は不可解ね。サラシャさんが、ミスであんな…すぐに怪しまれるような言動をするようには思えないわ)
サラシャの不自然な言動とその真意を、沙良は心の中で考え始めた。
(それにあの時の彼女の表情……。サラシャさんの不自然な言動はおそらく……私へのメッセージ。真意はわからないけど、今はサラシャさんに合わせておくしかないか…)