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短編

じゃじゃ馬王女は護衛騎士を振り向かせたい

作者: 雑食ハラミ

「お兄様ったらわたくしの結婚相手を見つけるまでは自分も結婚しないとか言ってるのよ。あちらが年上なんだから順番としては先のはずよね。一体何を言ってるのかしら」


金髪のふわふわの巻き毛が愛くるしいジュリアは色とりどりのマカロンからどれを選ぼうか目を離さずに話していた。彼女自身甘いお菓子に例えられそうなキュートな容姿で、正にお姫様という形容がぴったりだ。


「私はもっとゆっくり時間をかけて伴侶選びをしたいの。だってまだ16よ。お兄様ったら何を焦ってるのかしら」


「……ジュリア様のことが心配でかわいくてたまらないんだと思いますよ。妹思いの殿下ですから」


ジュリアの話し相手になっているのは護衛の兵士のジャスティンである。本来ジュリアの相手をするのは付添人など決まった立場の人間がいるはずだが、ジュリアはよくジャスティンを茶飲み仲間として選んでいた。ジャスティンとしては、周りの目もあるので、警護という本来の職務をおろそかにして、ジュリアの話相手になるのは非常に気まずいのだが、ジュリア自身が許してくれなかった。ジャスティンは何度もジュリアに説明したが、その度に「あなたが仕えているのはわたくしでしょ?」と言いくるめられてしまうのだ。ジャスティンはジュリアを幼いころから知っているということもあり、強く言えずにいた。


「お兄様はまず自分の相手の心配をするべきだわ。国を継ぐ方のお母様になる人だもの、慎重に慎重を重ねた方がいいと思うの。わたくしお兄様の婚約者を選んであげたいわ。こういうことは同性の方が目端が利くのよ!」


「また変なことを言って殿下を怒らせないでください! 代わりに怒られるのは私なんですから……」


ジャスティンにたしなめられたジュリアは、ぷくっと頬を膨らませ、下唇を出して反抗の態度を見せた。こんな子供じみた態度を取れるのも、ジャスティンが気の置けない相手だからだ。これがいつもの光景だった。二人が出会ったのはジュリアが4歳、ジャスティンが7歳の時である。ジャスティンはジュリアの兄、アダムの友人兼将来の臣下候補として登用されたが、それよりジュリアのお世話係の方が主な役割だった。お転婆なジュリアを追いかけて危険がないように見張るのがジャスティンの役目になってしまった。大人になってからジャスティンは軍に入ったが、ジュリアの強い希望で彼女の護衛係に任命された。彼としては危険な任務も厭わなかったのに、ジュリアが「そんな危ないことさせられるわけないでしょう!」と猛反対したのだ。アダムも間に入ってジュリアを説得したが、彼女はどうしても言うことを聞かなかった。他のことに対しては素直なのに、ことジャスティンに関しては頑ななのがジュリアの欠点だった。


「そろそろ交代の時間です。失礼させていただきます」


ジャスティンは臣下の礼を崩すことなくジュリアに挨拶してからその場を去った。ジャスティンがいなくなった後のがらんとした部屋を見回し、ジュリアはソファにごろんと横になった。


ジュリアのジャスティンに対する気持ちは、城の中で知らない者がいなかった。鍛錬場で汗を流す兵士を見に来る少女たちも、ジュリアを気遣ってジャスティンには近づかないようにしていた。実際ジャスティンは恵まれた容姿と体格をしており、モテないはずがなかったのだが、良くも悪くも「変な虫」が付かない理由はそのような事情があった。彼自身は武勲を上げたい野望があるのに、ジュリアのせいでそれができないことも、周りからはジュリアのお世話係しかできない半端者としてバカにされているのも、ジュリアは知っていた。


(分かってる……こんなことやってたら嫌われるって……)


ジュリアはクッションに顔をうずめたまま考えた。


(でもこうでもしなくちゃわたくしのそばにいてくれない。だってわたくしは王女だもの。要求することはできても与えることはできない。本当は守ってあげたいのに守られるだけ……彼が戦場に行って怪我でもしたら生きた心地がしないわ。本当は軍に入るのだって反対したのに)


彼と一緒になれる身分であったなら、こんな強引なことはしなかっただろう。しかし、それは無理だということを彼女自身も分かっていた。国の駒として、政略結婚をしなければならない身の上であることを。しかし、理性と感情の折り合いがどうしても付かなかった。ジャスティンのためにはならないことを彼女が一番理解しているはずなのに、どうすることもできなかった。見た目はふわふわした可憐な王女なのに、心の内は常に嵐が吹き荒れていた。


「ジュリア様、アダム殿下が、話があるので執務室まで来るようにとのことです」


侍女に言われ、ジュリアは簡単に身支度を整え、兄のアダムのところへ行った。またジャスティンについてのお小言だろうか。アダムは、ジャスティンの境遇に同情して、ジュリアに態度を改めるように何度も説教をしていた。アダムが友人としてジャスティンを気遣うのは分かる。しかし、ジュリアはジュリアでどうしても譲れない一線があった。アダムがよく言う「男には男の意地とプライドがあるんだ」という言葉がどうしても分からなかったのだ。


執務室のドアを開けると、人払いを既にしておりアダム一人しかいなかった。これはジャスティンの話に違いない、とジュリアはピンと来た。


「ジュリア、大体想像はついているだろうが——」


アダムが重々しそうに切り出したところを、ジュリアは遮って話した。


「はいはい、ジャスティンのことでしょ。お兄様の話はいつも決まってるから察しがつくようになっちゃったわ」


「それなら話は早い。今までお前のわがままに付き合ってやったが、そろそろ限界だ。もうジャスティンを解放してやってほしい。本人から西方地域に転勤する希望が出ている。今まではお前に何回かつぶされてきたが、今回は彼の希望を通そうと思う。」


ジュリアは目をしばたいた。いつかこんな日が来るとは頭の片隅で思っていた。しかしいざ直面化すると、はいそうですかと受け入れられるものではない。


「西方って……自然が厳しくて脱落者が続出しているという場所じゃないの。なぜそんな厳しいところに行きたいの? そこまでしてわたくしの元から離れたいの?」


「そうじゃない。ジャスティンもそろそろ20になる。この辺でちゃんとした経験を積まないと一生使い物にならなくなるだろう。元々優秀な人材なのに、お前のせいで腐らせたら元も子もないだろう? 頼むから分かってくれ」


そんな言い方をしなくてもジュリアには分かっていた。ジャスティンにとって自分の存在が邪魔なことも。分かっているからこそ、ジャスティンとアダムとの間で交わされたであろう会話が想像できて辛かった。二人ともジュリアのわがままに手を焼いて彼女を疎ましく思っているのだろう。ほとほと困り果てているジャスティンにアダムが同情して助け舟を出してやったのかもしれない。そう考えると、自分が惨めに感じられてどうしようもなかった。好きなのにどうして嫌われることばかりしてしまうんだろう? 好かれてほしいのにどうして逆のことばかりしてしまうんだろう? ジュリアの目にはたちまち涙がたまり、堰を切ったようにぽろぽろと頬を伝った。それを見たアダムは戸惑った。予想していたこととは言え、自ら妹を泣かせてしまうのは気まずい。


「だから嫌だったのよ、兵士になるなんて。なんでもっと安全な道を選んでくれなかったの? それならわたくしもここまで心配しなくてよかったのに」


駄目だった。今度こそ受け入れようと思っても駄目だった。己の未熟さに腹が立ったが、「分かりました」というたった一言が言えなかった。どうしていいか分からなくなって、ジュリアはしゃくり上げながらその場にうずくまってしまった。


「ここまでお願いしても駄目か? それがジャスティンのためにならないと知っても? 本当に好きなら彼の望むようにさせてやりたいとは思わないのか?」


「もうやめて! お兄様なんか大嫌い! 失礼します!」


ジュリアは泣きながら執務室を飛び出した。もう何も考えられなかった。兄に八つ当たりするのはお門違いだということも知っていたが、自分でもどうすることもできなかった。その後は自分の部屋に閉じこもり、食事の時間になっても出てこなかった。


***********


次の日、ジャスティンはいつもの時間に来なかった。代わりに来た兵士に尋ねると「配置換えがあったようです」とだけしか言わなかった。


兄の差し金だろう。ジュリアが拒絶したせいで、これ以上ジャスティンをそばに置くことはできないと判断されたのだ。しかし意外にも、ジュリアはそれも仕方ないと反発する気が起きなかった。彼女自身、ジャスティンを縛り続けることに嫌気が差していた。だから今日は直接謝りたかったのだ。一晩考えた結果、ジャスティンの望み通りにさせてあげようと決意した。それを彼に伝えようと思ったが、それも叶わない。それならアダムに伝えようかとも思ったが、昨日あんな大喧嘩をした後では会うのが気まずかった。


そのまま数日が経過した。アダムとはあれ以来会っていない。ジュリアが避けているというのもあるが、元々アダムは公務が忙しくて城を留守がちにしていた。そのうち時間が解決するだろうとジュリアは思っていた。


そんなある日、ジュリアは驚くべき報告を受けた。なんと、アダムが山岳地帯を視察中、行方不明となったというのだ。山の中で単身馬を走らせている最中に姿を消し、残された臣下が辺りを捜索したところ馬が足を滑らせた跡が残っていたという。遭難した可能性が強いとのことだ。それを聞いたジュリアはその日の夕方、部屋を抜け出しまっすぐ兵士の宿舎へと足を運んだ。


さすがにジュリアでもジャスティンの部屋の場所までは分からなかった。ジャスティンに会うには、一日の業務を終えた兵士たちが宿舎に戻るところを捕まえるしかなかった。


ジュリアは木陰に隠れてジャスティンの姿を探した。そして数人の仲間と連れ立って歩く彼の姿を見たとき、鳥の鳴き声に似せた指笛を吹いた。これは幼いころジャスティンと遊んだ時によくやったもので、ジャスティンならジュリアがそばにいると即座に分かるだろうという判断からだった。


彼女の予想通り、それを聞いた瞬間ジャスティンの顔色が変わった。そして仲間に「先に行ってくれ」と言うと、人がいなくなったのを見計らってから辺りを探し回った。そしてジュリアの姿を認めたとき、顔に手を当てて大きなため息をついた。


「ジュリア様、こんなところにいたら何を勘繰られるか分かりません。すぐにお部屋へお戻りください」


「こうでもしなきゃ会ってくれないでしょ。お願いがあるの。一緒にお兄様を探して」


ジュリアは言いたいことは山ほどあったが、前置きを省略して一気に用件を言った。ジャスティンはジュリアのとんでもない要求に驚いて、その場で固まってしまった。


「すごくバカげたことだって分かってるわ。でもこんなことあなたにしか頼めない。数日前にお兄様と喧嘩になったの。その時捨て台詞を吐いたまま別れてしまって。それが最後になるなんて悔やんでも悔やみきれない。きっとお兄様はご無事だわ。すぐに探し出してあげなきゃ。わたくしの手で救い出してこないだのこと謝りたいの」


本当にバカげている。ジュリアが行ったところで無能の味方以外の何者にもなれない。下手すればジュリアだって遭難しかねないのに。ジャスティンはすぐさま駄目だと言おうとしたが、両手を組み目を潤ませるジュリアを見て言葉が引っ込んでしまった。ジャスティンのことでは意見が分かれるが、普段のアダムとジュリアはとても仲のいい兄妹だ。病で臥せっている王に代わり、王子のまま国の長として執務に当たるアダムをジュリアはいつも心配している。そんな二人を子供の頃から間近で見てきたジャスティンは、ジュリアがどれだけ心を痛めているか理解できた。彼だってできれば何とかしてやりたい。しかしあまりにも荒唐無稽だ。王女が城を何日も離れられるわけがない。そうジャスティンが考えていると、心を読んだかのようにジュリアが口を開いた。


「わたくしがいない間のことも考えているの。こういうこともあろうかと、影武者を用意したんです。前に偶然瓜二つの人間がいたから面白半分に採用したんだけど、本当に使う日が来るとは思わなかった。側近の者には真実を伝えているわ。だから周りの者がフォローすればすぐにはばれないはず。兄のことで心を痛めて誰にも会えないとしておけばしばらくは隠し通せます。あなたのことも裏から手を回しておくから。わたくしの最後のお願いだと思ってどうか聞いてください」


「最後? どういうことですか?」


影武者というのも突拍子もないが、それより最後という言葉にジャスティンはびくっとした。


「これ以上あなたを縛らないってことよ。今までわたくしの護衛を務めてくれてありがとう。わたくしのわがままでやりたい仕事をさせてあげなくてごめんなさい。実は兄と口論したのもそれだったの。どうしてもあなたが危険な任務に就くことを受け入れられなくて。でも一晩考えて考えを改めることにしたの。次にお兄様に会った時に言おうと思っていた。本当よ。でもこんなことになってしまって……」


ジュリアはそこまで言うと耐えきれずに涙を流した。ジャスティンはじっとうつむいて何やら考え込んだ。しばらくの間動かずにそうしていたが、やがてジュリアをまっすぐ見据えた。その真剣な表情は何かを決意したかのようだった。


「分かりました。私がお供してジュリア様の安全を守ります。実行するからには、今のお姿のままではまずいです。変装をしないと。特に若い女性の旅は不逞の輩に狙われやすいですから」


「ありがとう!感謝します!」


ジュリアの表情はぱっと華やいだ。これで最後だと聞いて了承してくれたのだろうと思うと胸がちくりと痛んだが、何より今は兄の安否が気がかりである。些細な問題に構っている場合ではなかった。


「変装ならもう考えているの。あなたが若い貴族の青年で、私が小姓というのはどうかしら? それなら二人旅でもおかしくないと思うけど」


「ジュリア様が小姓に変装なさるのですか?」


「そうよ。衣装ももう用意してあるの」


かくして、数時間後用意が済んだ二人は再び城の某所で落ち合ったが、ジャスティンはジュリアの変貌に驚いた。長い髪の毛はばっさりと切られ、少年のように短くなっていた。小姓の服もぴったりでよく似合っている。こんな小姓がいたらさぞかし主人は鼻が高いだろう。しかし、本人の意図しないところで、ほっそりした首筋やヒップから足のラインが強調される結果となっており、これはこれで新たな魅力を発揮していた。ジャスティンはなぜかどぎまぎして直視できなかった。


「小姓のジュリアンです。ジャスティン様よろしくお願いします」


ジュリアはすっかり小姓になりきっていた。ここではジャスティンが主人ということになっている。


「ジュリア様、身なりは問題ありませんが、あれだけ伸ばした髪の毛を切ってしまって大丈夫ですか? 女性にとっては命の次に大事なんでしょう?」


「髪の毛なんて時間が経てばまた伸びてくるわ。それよりお兄様のほうが心配よ。さあ、ジャスティン様、出発しましょう」


二人は馬に乗って城を出た。知らない人が見たらよくある貴族と小姓の組み合わせであり、ぱっと見疑う者はいなかった。アダムが行方をくらました現場は馬で2日かかる。ジュリアは早馬ですぐにも飛んでいきたかったがジャスティンに「無理のない計画で行きましょう」とたしなめられた。


既に夜も遅くなっていたので城下町外れの宿に泊まることにした。その日はどこも満杯で、何件目かでやっと一つ部屋が空いているところを見つけられた。ほっとしたのもつかの間、部屋が一つしかないということは、二人で同じ部屋に泊まるしかないということにジュリアは気が付いた。さらに気まずいことに、ベッドも一つしかない。


どうしたらいいかとジュリアが考えあぐねていると、ジャスティンは当然というように床に布を敷いてそこに横になった。そして何食わぬ調子で「明日は早いですからジュリア様もすぐにお休みになって下さい」と言った。


「ちょっと待って……あなたを床に寝かせるわけにいかないわ。それじゃろくに寝られないでしょう? わたくしが無理を言ってお願いしたのだからわたくしが床に寝るわ」


「ジュリア様を床に寝かせるなんてできるわけないでしょう? 私は野宿の訓練もしていますから、これくらいどうってことありません。どうかお気遣いなく」


しかし、ジュリアはジャスティンに負い目があることも手伝って、簡単に受け入れられなかった。


「それならベッドの端と端に二人一緒に寝るのはどう? 少し狭いけど、これなら辛くないかも」


ジュリアとしてはなかなかいい考えだと思ったのだが、それを聞いたジャスティンは顔を真っ赤にして黙りこくってしまった。


「それだけは……どうか、ご容赦を。とにかく私へのお気遣いはご無用です。日ごろの訓練に比べれば雨風がしのげるだけで贅沢というものです。お気持ちだけありがたく受け取っておきます。では失礼」


早口でそれだけ言うと、ジュリアにくるりと背を向けて寝転んでしまった。何を言われても絶対に反応するまいという決意の表れか、背中を丸めて身を守るような恰好になっている。それを見たジュリアはまた嫌われてしまったのかと落胆しつつも、諦めるしかなかった。そして早く寝て体力を温存しなければと考えを切り替えて、ランプの灯を消してベッドに横になった。


その頃、ジュリアに背を向けたままのジャスティンは目がギラギラに冴えて仕方なかった。床に寝るのなんて何のことはない、ジュリアと同じ部屋に一晩過ごすことの方が拷問だった。これなら一人で外で野宿しろと言われた方がマシだ。彼女の息使いや身じろぎが間近に聞こえるところで寝るなんてどうしても無理だ。しかも何も知らないジュリアは一つのベッドで寝ようなんてとんでもない提案をしてきた。あまりの無邪気さにくらくらしたが、それでもジャスティンはこの地獄のような一夜を耐えるしかなかった。


翌朝、目に隈ができているジャスティンを見て、やはり床の寝心地が悪かったのだろうとジュリアは考えた。無理を言ってもジャスティンをベッドで寝かせればよかったと後悔した。


「ごめんなさい……わたくしのせいで無理をさせてしまって……」


(確かにジュリア様のせいと言えばそうだけど、なんか違う……まあいいか……)


気を取り直したジャスティンは、ジュリアを連れて城下町を出た。だんだん家が少なくなり荒涼な平原と農地が代わる代わる見えるようになった。途中肩を寄せ合うように集まった集落をいくつか通り過ぎ、昼も近くなったころにある村の食堂に立ち寄った。


ジャスティン一人ならもっと馬を進めることができたが、ジュリアを連れているので彼女が疲れないように調整しなければならなかった。城下町に比べたら粗末で小さい食堂だったが、中はきれいに清掃されており感じは悪くなかった。二人は空いている席に通された。


しかし間もなくして、ジャスティンはこの選択が誤りだったと認めざるを得なかった。少し離れた席に昼から酒を飲んでいる客がいる。昼から酒を提供する店には見えなかったのに。ジュリアがいる以上絡まれるようなことがあってはいけない。なるべく目立たないようにしようと思った。


ちょうど12、3歳くらいの少女が給仕をしていた。小さな体に似合わず両手に大きなジョッキを持っている。まだ慣れていないのかよろよろして危なかった。そして運悪く、酒を飲んで大声を上げている客の一人に肩が触れてしまった。少女はなんとか持ちこたえて飲み物がわずかにこぼれただけだったが、男の方はぶつかられたと思い、その少女をぎろりと睨んだ。


「おい、お前今ぶつかっただろう? 飲み物が服にかかっただろうが。どう弁償してくれる?」


「す、すいません……でも服は汚れてないと思います……」


すっかり威圧された少女はかぼそい声で反論したが、それが却って男の逆鱗に触れてしまった。


「なんだと? ガキのくせに反抗するのか?」


男はがなり声をあげ少女を突き飛ばした。小柄な少女は、いとも簡単に飛ばされて床に倒れた。男が再び少女を立たせて更に殴ろうとした時、小柄な少年が間に入って止めた。否、小姓に変装したジュリアだった。ジュリアは少女をかばうように男の前に立ちはだかった。


「僕も見てましたけど、服は別に汚れませんでした。ですからこの子に罰を与えるのをやめてください」


ジュリアの行動が余りにも早かったため、目立たないことだけを考えていたジャスティンはすっかり遅れを取ってしまった。今度はジュリアが危ない。男はジュリアに向かって手を振り上げようとした。ジャスティンはすかさず椅子を蹴って立ち上がりその手を抑えた。


「私の小姓に手を上げるということは、私へ危害を加えることと同等なんだが、それを分かっているのか?」


ジャスティンは、ジュリアが見たことがないような表情をしていた。どこまでも氷のように冷たく、慈悲など持ち合わせていない冷酷な表情。体格はよっぱらい男よりは小さいがよく鍛えているせいか、片手で簡単に男の攻撃を止めた。今度は身なりのいい貴族が登場したことで他の客たちもざわざわと騒ぎ出した。そして、騒ぎを聞きつけ厨房の奥から食堂の主人らしき者が慌てて出てきた。


「だんな、この方はこの辺一帯を縄張りにしている賞金稼ぎです。腕っぷしが強いから何とか穏便に済ませた方が……」


「賞金稼ぎというより、賞金稼ぎに追われるギャングと言った方がふさわしいな。いずれにしても、こんなに素行が悪くてはいつ追われる側になってもおかしくない」


「なんだと! おい、外へ出ろ。決闘だ!」


すっかり頭に血が上った男とジャスティンは食堂から外に出た。他の客も見物しようと後から着いてきて外に出た。もちろんジュリアも一緒になって追いかけた。ジュリアは自分の正義感のせいでこんな大事になってしまったことを後悔していた。では、少女をかばわない方がよかったのかと言えば、それも分からなかった。


二人は向き合うように対峙してそれぞれ剣を抜き、同時に動いた。男は大きな声でわめきながら渾身の力で斬りかかったが、動作が粗大で力で押し切るつもりらしかった。対してジャスティンは男の攻撃をあっさりかわし、後ろに回って男の腰に蹴りを入れ転ばした後で背中の上に馬乗りになり、首元に剣の刃を突きつけた。


「無駄が多すぎなんだよ。こんなの専門的な訓練受けた者からすれば赤子の手をひねるようなものだ」


ジャスティンは男の耳元でそう囁くと、男から身を離した。もう勝負は決まったようなものだ。


「これに懲りたらもう子供相手に暴力を振るな。俺の小姓についてもだ。俺のものに手を触れることは何人たりとも許さない」


男たちはジャスティンを一瞥すると呪詛を吐きながらどこかへ去って行った。他の客たちはあっけにとられたまま、まだ身動きが取れないでいる。


「ジャスティン! ……様! 大丈夫ですか!? お怪我はありませんか?」


真っ先にジュリアが駆け付けた。ジュリアの身に何もなかったことをまず確認してジャスティンはほっと安堵のため息をついた。


「大丈夫だ。お前こそ何もなかったか? ここは騒ぎを起こしたからい辛くなってしまったな……おい、店の主人はいるか?」


ジャスティンは辺りを見回し店の主人を見つけた。


「これは迷惑料だ、受け取ってくれ。あいつらが戻ってくるとまた騒ぎになるから、俺たちはこれで失礼する」


ジャスティンは店の主人に食事代の何倍もの金を渡して帰り支度を始めた。外につないでいる馬の綱を外していた時、先ほどの少女が走って来た。


「あの……助けていただいてありがとうございます……家来の方にも感謝しています」


少女はそれだけ言うと、また食堂の方へと戻って行った。家来の方とはジュリアのことらしい。ジャスティンは、ジュリアと二人きりになったのでいつもの口調で話しかけた。


「よかったですね。ジュリア様が助けなければ、あの少女は男にぶたれてましたよ」


「私は考えなしに身体が動いただけよ……あなたがいてくれなかったら大変な目に遭ってた……勝手なことをしてごめんなさい。目立ってはいけないと分かっていたのに」


「ジュリア様は正しいことをしただけです。本来ならば自分がまず先に止めるべきだった。それが、目立ちたくないと考えていたせいで咄嗟に身体が動かなかった。私のせいでもあります」


ジュリアはそこまで言われても恐縮するばかりだった。ジャスティンに対して申し訳なさでいっぱいになる。そんな彼女の心情を察し、ジャスティンは気分を切り替えるように声を一段高くして話し出した。


「それより先を急ぎましょう。あいつらが戻ってこないとも限らないし、なるべくここを離れた方がいい」


「子分を連れて追いかけてきたりはしないかしら?」


「そしたら今度は容赦なく打ちのめすのみです。よほどのバカじゃなければ圧倒的な実力差があると知って手を出さないけど、可能性はゼロじゃないので。その時はジュリア様は真っ先に逃げてください。どうかお願いします」


自分がいることでジャスティンの足かせになることは重々承知していた。ジュリアは素直に了解した。


「では行きましょう。食事にありつけなかったのが残念ですけど、ジュリア様は大丈夫ですか?」


「わたくしは大丈夫よ。実は朝宿を出てくるとき、いくつかパンをもらっておいたの」


ジュリアはそう言うと、鞄からパンを取り出してジャスティンに渡した。そういうところに気が付くのがジュリアらしい。お陰で空腹がそれほど気にならずに午後の旅を続けられた。幸い追手も来なかった。


追手を気にして早めに馬を走らせたせいか、その日はまだ日が高いうちに宿に着いた。幸いなことに、部屋も二つ以上空いていて、昨夜のようにジャスティンが苦しめられる事態は免れた。


「明日ここを出発して、早ければお昼過ぎにアダム殿下がいなくなった場所にたどり着けると思います。道が険しくなるので今までよりきつい行程になります。今夜はゆっくり身体を休めてください」


それぞれの部屋に入る時、ジャスティンはジュリアに声をかけた。お互いおやすみなさいと言ってドアを閉める。部屋に一人になったジュリアは、昼の出来事を思い出していた。


(……不謹慎かもしれないけど、昼間のジャスティン格好よかったな……「俺のものに手を触れることは何人たりとも許さない」だっけ……わたくしが小姓という設定だからに過ぎないけど、本当にああいうことを言われてみたいな……)


身体は疲れているはずなのに、色々なことを思い出してしまいなかなか寝付けないジュリアだった。


**********


目的地はそれなりの難所なので、翌朝は早めに宿を出た。途中の村で一回休憩を入れ、予定通り昼過ぎにアダムがいなくなった場所までたどり着いた。そこは山の中腹のあぜ道で、日中でも光が差し込みにくい土地のせいか、先日の大雨の影響がまだ残っており地盤が緩かった。


「ここは昼でも見通しが悪いし、滑りやすい地盤をしているし、確かに危ないですね。おまけに道の片側が崖になっている。殿下はここから馬ごと足を滑らせたのでしょうか」


「こんなところから滑ったら無事でいられるの? お兄様は大丈夫かしら?」


「この下に行ける道がないか探してみましょう……ってジュリア様、危ない!」


ジュリアが足を着いたところの地面がぐしゃっと崩れ、彼女の身体が傾いた。彼女をつかもうとしたジャスティンだったが、慌てたためバランスを崩し彼女に体重をかける形になってしまった。その態勢のまま二人の体は崖の下に落ちて行った。


足をひっかけることもできず斜面を滑り落ちる最中にも、何とかジュリアを守ろうと、ジャスティンは彼女の身体を腕の中にすっぽり包み込んだ。その途中で頭を打ち付けてしまい、意識が遠のいた。


次にジャスティンが気が付いた時には、洞窟のような穴場の中にいた。はっとして身を起こすと身体のあちこちに痛みが走ったが、すぐそばにジュリアがいることを真っ先に確認した。


「ジャスティン、気が付いた? よかった。どこか痛いところはない? あっ、駄目よ。まだ動いちゃ」


ジュリアは意識を取り戻したジャスティンを見て微笑んだ。どうやら彼女に目立った怪我はないようで安心した。自分の方も、脳震盪を起こした以外は動けないほどの怪我は負ってなかったようだ。


「ジュリア様がここまで連れてきてくださったんですか? こんなに重い身体をどうやって……本来なら私がお守りしなければならないのに申し訳ありません」


「雨風防げるところを探したら、運よくここが見つかったの。あなたのことは持ち上げられないから肩を持って引きずるしかなかったけど、そのせいでまたどこか痛めてないかしら?」


「かすり傷と打撲以外は大丈夫なようです。本当にありがとうございます。感謝してもしきれません」


小柄で華奢なジュリアが遥かに体格の大きいジャスティンを安全な場所まで運ぶのにどれだけ大変な思いをしたか想像もつかなかった。ジュリアは可愛らしい外見から、か弱くて守ってあげたくなるような性格と見られがちだが、実際は根性があってちょっとのことではへこたれないタイプだった。自ら兄を探しに行くと決めるくらいなのだから。


「荷物に食べ物とか包帯とか入れておいたのに馬につなげたままだわ。落ちるなんて思わなかったから仕方ないけど」


ジュリアは残念そうに言った。残念ながら方位磁石や地図も置いてきてしまった。いずれにしても早くこの森から抜けなければならないとジャスティンは判断した。アダムのことも心配だが、まずはジュリアの身の安全が第一だ。ようやく動けるようになったジャスティンは、枝や落ち葉を集め、懐にあった火打石で火を起こしてたき火を作った。


「今夜はここに泊まることになりそうですね。今の季節でも夜の森は寒いですから体が冷えてしまいます。ジュリア様、ここは命がかかってますので失礼は承知ですがご理解いただきたい。あなたの身の安全を守るためと思って我慢してください」


きょとんとしたジュリアは何のことか分からなかったが、ジャスティンに後ろから抱きかかえられる形になった時は心臓が飛び出るかと思った。


「こうすれば寒さから身を守ることができます。ご不快な思いをさせてしまいますが、何があってもあなたのことは守らなければなりません。どうか無礼をお許しください」


背後から囁くようにジャスティンの低い声が聞こえ、ジュリアは卒倒するかと思った。言葉を重ねて何度も謝るジャスティンだが、謝る必要なんてないのに、不快どころかもっと……と考えたところで、顔が真っ赤になり慌てて打ち消した。


「……ねえ。せっかくこんな状況なのだから、前みたいに気さくに話しかけてくれてもいいのよ。どうせ誰も聞いてないんだから咎める人なんていないし」


ジュリアは変なことを考えてしまった恥ずかしさをごまかすように、あえてざっくばらんな口調で別の話題に変えた。子供の時は身分の上下はあったがもっとくだけた話し方だった。それが今のような完全な臣下としての口調になったのはいつからだろう。


「それはできかねます。私はジュリア様の臣下なのですから。いついかなる時も分を弁えなければなりません」


真面目な彼ならそう言うだろうと思ったが、心の距離が遠く感じられて寂しかった。でもそれは当然なのかもしれない。ジャスティンはジュリアを疎ましく思っているのだから。


「そうされても仕方ないことをわたくしはしてきたわね。自分のエゴであなたの人生を縛って来たわ。嫌われて当然だと思う」


それを聞いたジャスティンは明らかに驚いたようだった。


「嫌うだなんて、そんな」


「いいのよ、本当のことを言ってくれて。別に怒らないから大丈夫よ。むしろ謝らなければならないのはわたくしの方。お兄様にどれだけ説得されても頑なだった。あなたが自分の力を試したいと思っているのも、わたくしから逃げられなくて周りから陰口を叩かれているのも知っていたのに。ひどい女ね」


ジュリアはちろちろ揺れるたき火の炎を見ながら自嘲混じりに笑った。


「今更謝っても仕方ないけど、ごめんなさい。別に許してもらえるとは思ってないわ。でもわたくしが謝りたいから謝るだけ。もうあなたの自由にしていいから、まずは無事にこの森から出ましょうね」


ジュリアは泣きそうになったが何とか明るい口調で言った。ジャスティンは背後にいるので顔を見られずに済むのが唯一の救いだった。


「…………別に嫌ではなかったです」


しばらくの沈黙の後、ジャスティンが呟くように言った。まさか。ジュリアは耳を疑った。


「ジュリア様の護衛をするのは嫌ではありませんでした。そもそも軍隊に入ったのもあなたを守れる男になりたいと思ったからです。嫉妬で何だかんだ言う連中はいましたが、あなたが俺を心配してくれるのは純粋に嬉しかった。だがアダム殿下は俺を買ってくれて、優秀なのにもったいないといつも気にかけてくれた。もちろんその気持ちも分かります。だから、今のままでは限界が来る、もっと力をつけなければあなたを守り切れなくなる日が来ると思った。それしか俺にはできないから——」


ジュリアは驚きの余り何も言えなかった。いつの間にかジャスティンの口調が微妙に変わったのにも気づかないほどに。


「何かを望める立場ではないのは分かってます。アダム殿下のことも同じくらい慕っているから、彼を裏切るようなことはできない。せめて俺は自分のできる範囲であなたが幸せになれることをしたいと思います。だから今回の無謀な計画にも乗ったし、西方行きを志願したのです」


これは喜んでいいのか。嫌われてないと分かれば喜んでいいのだろう。しかし、ジュリアは切なさが全身を貫いてどうしようもなかった。ジャスティンもまたジュリアを思ってくれた。だが、現実には二人の関係は絶望的とも言えた。アダムに忠誠を誓うジャスティンは決して一線を越えることはしないだろう。ジュリアもまた大好きな兄を悲しませたくはなかった。誰かが不幸になる形で自分が幸せになるなんてありえないと思っていた。だからこの恋は絶対実らないのだ。


「ねえ……子供の頃にお母様の故郷の歌を聴かせてくれたじゃない? あれもう一回聴きたいな。不思議な異国のメロディで印象に残っていたの」


ジュリアは静かな口調でそう言うと、ジャスティンのたくましい腕に頭を持たせかけた。子供の頃の思い出の歌をお願いしたら、今なら聞いてくれる気がする。ジャスティンは低い声で歌いながら、時折ジュリアを抱える手に力を込めた。この時間がずっと続けばいいのにと思いながらジュリアは目を閉じた。涙がひと筋頬を伝った。


**********


翌朝は日が昇った頃から行動を開始した。お世辞にも寝心地がよかったわけではなく、満身創痍の状態だったが、それでも太陽を見たら希望が湧いてきた。


こんなところで迷子になっては大変なので、二人は手を繋いで歩いた。少し行くと馬が一頭倒れている。既に息はしていなかったが亡くなってから時間は経っていないようだった。


「きっとお兄様が乗っていた馬だわ。骨折して動けなくなったのね。かわいそうに……でも、お兄様の姿はないってことは、きっと歩いてここから逃げたのよ! よかった、無事なんだわ!」


「おそらく、山を下って水脈を探しに行ったと思われます。水脈があれば人家もあるかもしれないし。ジュリア様、我々も水のあるところを探しましょう」


道なんてものはないので、でこぼこした地面からずり落ちないように慎重に下って行った。1時間ほど歩いて体力の限界かと思われたちょうどその時、水が流れる音が耳をかすめた。


「ねえ、今の音聞こえた!? この辺に水路があるわ!」


ジュリアは今までの疲れも忘れてジャスティンに向かって叫んだ。


「左手の方ですね。危ないので慌てずに行きましょう」


ジャスティンの言う通り左手に回って進むと小さい川が流れていた。ジュリアは顔と手を洗ってから水を口に含むと一気に生き返った心地がした。


「水があるところに人も集まります。ここに沿って下って行きましょう」


「お兄様もそこにいらっしゃるかもしれないわね」


昨日から何も口にしていなかったため、水を飲んだだけなのにごちそうのように感じられた。これでもう少し頑張れそうだ。


更に時間が経過して少し山が開けてきた。もしやと思い進むと一軒の家が見える。しかも人が住んでいる気配が感じられた。


「まさか、ここにお兄様が?」


「まだぬか喜びはできません。私が行くので、ジュリア様は後ろに控えてください」


ジャスティンはジュリアを制し、家へと進んでいったそして呼び鈴を鳴らしたがなかなか出てこない。こらえきれずドンドンと扉を強く叩いて、やっとのことで家の主人が戸を開けた。見るとかなり高齢の老人で、目が不自由のようだ。


「突然申し訳ありません。山の中で遭難しかかってここまで歩いてきました。どうか助けてもらえないでしょうか?」


老人は耳も遠いらしく、ジャスティンは大きな声で何度も繰り返し言った。そのうち家の奥から「ジャスティンなのか?」という懐かしい声が聞こえてきた。


「アダム殿下! ご無事でしたか!」


ジャスティンがそう言うより先に、後ろからジュリアが「お兄様!」と駆けてきてアダムに飛びついた。


「まさかジュリアか!? どうしてここに?」


当たり前のことだが、アダムはジュリアとこんなところで会うとは思いもしなかった。おまけに髪の毛を短く切って、すっかり泥で汚れたが小姓の恰好をしているなんて。驚いたと一言で表すにはあまりにも言葉が足りなかった。


「責任は全て私にあります! 城に戻ったらいかなる処罰も受ける覚悟でいるので、ジュリア様にはご容赦を」


「ジャスティンは何も悪くないわ。私が無理言って着いてこさせたの。私がお兄様に会いたいって言ったから。喧嘩したまま別れたくなかったから、自分で見つけ出して謝りたかったの!」


アダムはぽかんと口を開けたままだった。喧嘩したことを謝りたいと言われても、本当に探しに来る人間がどこにいるだろうか。しかし、ジュリアはそんな人間だった。お陰で、自分が足を負傷して長時間立っていられないことも忘れてしまった。


やがて、老人にゆっくり事情を聞かせたところで、アダムからの話も聞いた。アダムは、ジュリアたちが予想した通り、馬ごと崖から落ちて、馬は駄目だったものの、自分は軽症だったため、歩いてこの近くまでやって来た。しかし、途中で足をくじき、歩けなくなっていたところを老人に助けられた。老人は単身でここに暮らし、目も耳も遠いため簡単にふもとの村までは行けない。そのため、アダムを助けたことを誰にも知らせることができず、行方不明とされていたのだ。


「皆に心配をかけてすまなかった。足が治るまでここで主人の世話でもしながらゆっくり過ごそうと思っていたんだが」


「冗談でもやめてください! 一体どれだけの人が心配したと思ってるんですか? お兄様がいなくなったらみんな困るんですよ!」


アダムはあははと笑った。これなら足の怪我さえよくなればすぐにでも下山できそうだ。


「ところで、お前たちは昨夜どこに泊まったんだ? この辺に宿なんてあっただろうか」


「殿下と同様森で遭難しかけたんです。洞窟に身を寄せて一晩過ごしました」


「なに!? ってことは、ジュリアと二人きりで夜を過ごしたということか?」


「変な言い方しないでくださいよ……なにもないに決まってるじゃないですか」


ジャスティンはあきれたように言ったが、アダムの表情は真剣だった。


「いや、これはゆゆしき事態だ。婚前のうら若き王女と臣下の騎士が一晩二人きりで過ごしたということは……何があってもおかしくない……これは厳罰に処すしかない……」


「ちょっと、お兄様。ジャスティンはずっと紳士的で身を挺してわたくしを守ってくれたのよ」


ジュリアは慌ててアダムを止めようとしたが、アダムの決意は固かった。


「ジャスティン、お前は責任を取って、このどこにも嫁に行く当てのないじゃじゃ馬王女を妻として娶れ。それがお前に対する罰だ」


えっ? ジュリアは何が起きたか分からず口をぱくぱくさせた。


「ちょ……ジャスティンにも選ぶ権利があるわ! いくら何でも結婚しろとかひど——」


「謹んで処罰を受けます。アダム殿下」


ジャスティンは臣下の礼を取って恭しく言った。そして今度はジュリアの方に向き直してひざまずいた。


「ジュリア様、幼少のみぎりに出会った時から私にはあなたしかいませんでした。一生をかけてお守りすると誓います。至らぬ点ばかりですが、こんな男でもいいとおっしゃるならば、どうか愛の告白を受けてください」


突然の急展開にジュリアの頭は真っ白になった。全て諦めていたのにこんなことになるなんて。信じられないあまり喜んでいいのか分からず、感情の整理が付かなかった。戸惑ったまま兄を見ると、いたずらを企むような表情でウインクしている。そうか、本当なんだ。ジュリアは思い切り力を込めてジャスティンに抱き着いた。ジャスティンも力強く抱きしめ返して、彼女の体を抱えたままくるっと回った。


「おいおい、ここは他人の家なんだから続きはよそでやってくれ」


アダムが言わなければそのまま続けていたかもしれない。家の主人である老人は、ジュリアとジャスティンにも優しかった。二人とも、汚れを落とし、怪我の処置をしてもらい、食事までご馳走になった。元々単身生活ゆえ備蓄が少ないだろうに、老人には感謝してもしきれない。後でできる限りのお礼をしようと決めた。


次の日、ジャスティンはふもとの村まで行って王宮に連絡を入れた。やがて迎えの者がやってきて、3人は山を下りた。


城に戻ってからがまた大騒ぎだった。ジュリアの影武者は何とか首尾よく任務をこなしてくれたらしいが、「この髪の毛が短いお嬢さんは誰?」ということになってしまい、つじつま合わせが大変だった。ジャスティンも不在の穴を埋めるべく積もり積もった雑用を片付けなくてはならず、なかなか二人きりになれる時間は取れなかった。


やっとひと段落ついたところで、二人の婚約が正式に発表された。そしてジャスティンは西方地域の任務に行くことが決まった。


「前はあんなに反対してたのに寂しくないのか? 向こうに行ったらしばらく会えないんだぞ」


「彼を信じてるから大丈夫よ。それにわたくしを守るためにもっと強くならなくてはならないんだって」


アダムとジュリアはジャスティンの見送りに来ていた。旅支度を終えたジャスティンが二人のもとにやって来る。


「アダム殿下、西方地域の守備のお勤めしっかりと果たしてきます。そしてジュリア様、どうか私が戻るまでお元気でいてください。必ず戻ってまいりますので」


「ねえ、ジャスティン、私たち夫婦になるんだからもっとくだけた口調になってもいいんじゃないの?」


「いえ、結婚するまでは臣下の関係は続いてますから。後のお楽しみに取っておきます」


「後回しにするとフラグ化するわよ? 今ここでやっておいた方がいいんじゃないの?」


「フラグ……? 何ですかそれ?」


ジャスティンが首をひねると、ジュリアはすかさず彼の唇にキスをした。


「はい! 今のはフラグ回避のおまじない! じゃあ気を付けて行ってきてね!」


そう言うと、ジュリアは身をひるがえし去って行った。


「……今の何だったんでしょう?」


「どうせキスなんて今まで散々やってたんだろう? 何がフラグ回避だよ、なあ?」


アダムがそっと呟いたのには聞こえないふりをすることにした。とにかく、これからも退屈しない日々が続きそうだ。空を見上げると、ジャスティンの門出を祝うかのようにどこまでも青空が広がっていた。


最後までお読みいただきありがとうございました!よかったよという方は長編「婚約破棄された令嬢は忘れられた王子に拾われる」https://ncode.syosetu.com/n6815hs/も連載中なのでそちらも覗いてみてください。

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