走れ……なかったメロス
メロスは激怒した。必ずかの邪智暴虐の王を除かなければならぬ、となぜか固く決意した。メロスには政治がわからぬ。経済もわからぬ。女心もわからぬ。
メロスは村の牧人である。笛を吹き、羊とのんきに遊んで暮して来た。けれども、邪悪に対しては人一倍敏感であった。
メロスは、結婚する妹の花嫁の衣裳や祝宴の御馳走などを買いに、シラクスにやってきた。
そういえば、シラクスにはメロスの竹馬の友であるセリヌンティウスが住んでいる。これから、会いに行こうか。
そこで、ひっそりとした街の様子を怪しく思った。道ですれ違った若者に声をかけてみるが無視された。続いて老爺に今度はしつこく質問してみた。
「王様は人を殺します」
「なぜ殺すのだ?」
「悪心を抱いている、と言うのです。自意識過剰、被害妄想が激しすぎますな。誰も王様になんて興味ないというのに……」
「で、たくさんの人を殺したのか?」
「はい。説明すると長くなるので省略しますが、親戚とかたくさん」
「驚いたなあ。国王は乱心か?」
「人を信じることができないようですね。まあ、人間不信というやつですな。ちなみに、今日は六人殺されました。少ないですね」
老爺の話を聞き、メロスは激怒した。
「呆れた王だ。生かしてはおけぬ」
メロスは単純な男であった。真正面から王城に入っていき、呆気なく巡邏の警吏に捕縛された。調べると、メロスの懐から短剣が出てきたので、騒ぎが大きくなった。
メロスは縄でぐるぐる巻きにされて、王の前へと引き出された。
「この短刀で何をするつもりであったか――言えっ!」
暴君ディオニスは怒鳴った。
「市を暴君の手から救うのだ」
メロスは悪びれずに答えた。
「なるほどな」
王はうんうんと頷いた。
「死刑」
「ま、待ってくれ!」
「待たぬ。死刑だ、死刑。この愚か者の首を即刻はねろ」
「ま、待て待て待て待て……」
メロスは焦った。思い描いていた展開とまるで違う。
彼の想像では、竹馬の友セリヌンティウスを人質(犠牲)に、三日の猶予権をもらうはずだった。そして、妹の結婚式に出席し、いろいろ苦労して王城に戻ってきて、なんやかんやあって最後はハッピーエンド。
理想の計画が一瞬にしておじゃんである。
ゆえに、メロスは激怒した。
「おい、クソ野郎――クソディオニス、話を聞け!」
「不敬罪も追加」
「ま、待ってくれ!」
「待たぬ」
「この市に、我がセリヌンティウスという石工がいます。彼を私の代わりに――」
「お前の代わりなど、誰にもできないわ。儂はお前を死刑にしたいのであって、セリヌンティウスという男になど何の興味もないわ!」
「ま、待ってくれ!」
「待たぬ」
王が命令すると、メロスは磔にされた。
メロスは竹馬の友であるセリヌンティウスの名をしきりに叫んでいた。叫べば、彼のもとにメロスの声が届くのではないか、と思ったからだ。
しかし、その頃、セリヌンティウスは恋人と楽しくディナーをとっていた。彼の頭の中は恋人のことでいっぱいで、メロスのことなど頭の片隅にすらなかった。
「私を殺すのか? 後悔するぞ!」
「儂が今まで何人――何十人――何百人殺してきたと思っている? 儂の手は殺してきた者の血で汚れ染まっているのだ!」
「わ、私に情けをかけたいつもりなら、処刑までに三日間の猶予を与えて下さい。たった一人の妹の結婚式に出たいのです! 最後には、必ずここへ帰って来ます!」
「うるさい黙れ! お前の事情など、儂の知ったことではないわ!」
「嗚呼、慈悲を。慈悲をくれませんか?」
「儂を短剣で殺そうとしたくせに。ふざけたことを言うな!」
「謝ります。あなたを殺そうとしたことは謝りますから――」
「いまさら謝ってももう遅い! 死後の世界で懺悔するとよい!」
「誰か! この邪智暴虐の王を殺すんだ!」
しかし、王の家来は誰一人として動こうとはしなかった。
「この男を殺さなければ、シラクスはひどくなる一方だぞ!」
「ひどくなる、だと? この儂――ディオニスに統治されて、人々は幸せに決まっておろう。そうだろう?」
そうでございます、と家来は口をそろえて言った。
「「「「「ディオニス万歳! ディオニス万歳!」」」」」
「おい、こいつらもメロスと同様の方法で処刑しろ。こいつら、儂のことを呼び捨てにしやがった。不敬きわまる」
了解しました、と残りの家来が口をそろえて言う。
「セリヌンティウス! セリヌンティウス! セリヌンティウス! 助けに来てくれ、セリヌンティウス!」
「助けに来たところで、お前はセリヌンティウスを人質として儂に差し出すのだろう?」
「ぐ、ぐぬぬ……」
図星だった。
セリヌンティウスは何も悪いことをしていないというのに、竹馬の友であるメロスに売られようとしていたのだ。
メロスは後悔した。
メロスは反省した。
「よし、メロスと家来五人を殺せ」
「ま、待ってくれ!」
「待たぬ」
「情けを――」
「何度目だ? もう、このやり取りには飽きた。自らの罪を悔い、死ぬがよい」
「セリヌンティウス!」
メロスが最後に叫んだのは、妹の名ではなく竹馬の友の名だった。彼は自分の妹の名すら知らないのだ――。
こうして、シラクスは破滅への道を突き進むのだった。