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キンモクセイの春

作者: 兄鷹

私は父の墓参りのため、お盆に故郷へ帰ってきた。

 風は冷たく暗くなり、川は静かに流れていった。

 沈みかけの夕日が、故郷の山の頂を、あかあかと染めている。

 私は十八歳、東京の学生で、しばらくぶりに田舎に帰省していた。いたって普通の黒い学生鞄も、郷では勲章の代わりだった。

 私は白黒の学生帽に陽を受けながら、はっと気が付いて、ひけらかすように笑った。


「これじゃあ、魯迅だ」


 小舟を操る舟人は、“我関せず焉”といった様子で、黙々と舵を取っている。

 小舟は、真紅の鏡面の上を滑り、小波を引き起こして映り込む木々を掻き消した。

 私は舟の真ん中あたりに陣取って、見覚えのある山々の稜線をなぞりながら、そうして子供の頃の記憶を確かめていた。


 川辺からキンモクセイの芳香が届いてくる頃には、木でできた古い桟橋に、母の姿を捉えていた。

 小舟の老父に銅貨を幾らか握らせて、私はそっと舟を降りた。


「“おかえりなさい”。遠かったでしょう」


「そんなこと……」


 母は年齢の刻まれた口元を歪ませ、夕日の下にゆっくりとほほ笑んだ。


「今夜は御馳走ね。薫に鶏を捌いてもらおうかしら」


 母は何でもないという風に言ってのけたが、顔に出る喜びを隠せずにいた。

 昔は、大切な客人が来た時や、季節の節目ゝに、鶏を捌いて食った。

 捌くのはもっぱら男の仕事だったが、父がいなくなり、私が家を出た今は、妹が代行しているようだ。

 私は懐かしさに目を細めた。


「母さん。家に戻る前に、一度父さんの所へ寄らせてください」


「それなら私も行くわ。大きくなった姿を見てもらいましょう」


 おもむろに頷いた母を連れて、記憶を頼りに道を歩き始めた。

 夕暮れ時の郷は侘しかった。かつて走り回った場所や、あったはずの建物。すべてが時間と共に過ぎてしまった。

 子供時代の事は、つい昨日のことのように思い出せるが、最近のことはなかなか思い出せない。毎日が忙しすぎて、立ち止まって振り返る余裕がないのだ。

 牛の鳴き声や吠える犬などは、思い出を一層鮮やかに蘇らせて、近頃の悩みを洗い流していく。


 墓石が林立する中から、父を探し出すのは一苦労だった。

 墓場だけは、今も相変わらず当時の面影を残しているが、私の記憶が正しければ、墓石の数は昔より増えている。

 柄杓で水をすくい、父の名が刻まれた石の上に、ちょろちょろと流した。

 墓を作ったのはだいぶ昔なのに、埃の一つも被っていなかった。


「明日、薫も連れて、みんなで来ようと思っていたけれど――」


「……毎日来ているのでしょう」


 母は向き直って、私の顔を少し見つめたが、暫くして何も言わずに歩き出した。

 私も何も言わずに、ただ黙って父の元を後にした。

 不意に、視界の端で何かが動いた気がして、私は足を止めた。

 だが、視線の先には虫一匹おらず、私はなんでもないという顔をして、また歩き出した。

 キンモクセイの甘ったるい匂いだけが、そこに残っていた。


 翌る朝、床板の軋みで目を覚ました私は、大きく伸びをして辺りを見回した。


 ――そうだ、田舎に帰ってきているのだった。


 誰かの足音で目を覚ますのは、本当に久しぶりだった。

 学生寮では起床のベルが鳴らされ、それでも起きない者には、寮母の怒号と朝飯抜きの一日が待っているのだ。

 十二分に寝たためか、爽やかな目覚めだった。

 布団を畳んでから居間に行くと、奥の台所から、味噌汁のいい匂いが漂ってきた。

 せっかく家にいるのだから、料理の手伝いをするのもいいかもしれないと思ったが、母と妹がせわしく動き回る中、私は突っ立っていることしかできず、遂には妹に、


「邪魔」


 と言われて、出される料理を大人しく待つことにした。

 それでも、運ばれてきた料理は文句なしに旨かった。

 昨夜の様な御馳走もいいが、豪華な料理なら東京にもある。やはり家では“いつもの御飯”が食べたくなるものだ。


 私は昔から、蕪の味噌汁にご飯を入れて、かき混ぜて食べるのが好きだった。

 小さい頃はよく注意されたが、ああ旨い、と言いながら食べていると、今日は何も言われなかった。

 熱い味噌汁が、体に溜まった澱を流してくれるようだった。朝食は、漬物と味噌汁と白米だけの質素なものだったが、私にとっては何よりも旨い飯だった。

 妹は昔から料理が上手くて、よく母の手伝いをしていた。

 私は程よい塩気の胡瓜を箸でつまんで、ぼんやりと妹の方に振り返った。


「薫は、きっといい嫁になるな」


 恥ずかしさで肩を振るわせた妹が、私の味噌汁の具を掻っ攫っていった。

 母親は、黙って息子の頭を小突いた。

 朝食後は皿洗いを少し手伝い、着替えは父の古着を借りた。

 たんすの温度が染みついた古着を着て、弁当と詩集を持って散歩に出かけた。どこか日当たりのいい場所で、静かに読書でもするつもりだった。

 母と妹は、この村から一番近い街まで買い物に出かけるので、午前中は家に誰もいないらしい。


 私は家の戸を閉めて、垣根一つ越えた酒屋に入った。

 戸が軋む音が埃っぽくて、窓から射す陽光が店内に浮かぶ砂埃を映し出した。

 店の奥で、ガラス瓶の擦れる音がした。


「……まあ!久ぶり。嗚呼、随分と大きくなって……。これはお父さんの着物?やっぱり親子ねぇ」


 店の奥から出てきたおばさんは、つま先立ちで手を伸ばし、私の頭をわしゃわしゃと撫でた。

 朝早かったからか、店には誰もいなかった。

 思い出で胸をいっぱいにしたおばさんは、私の腕いっぱいに果物を積もうとしたが、さすがにそれは遠慮した。


 それから、他に郷を出て行った人たちの話や、誰がどこの家に嫁いだのかなど、近所の懐かしいような話をたくさんした。


「辰はもうお酒呑めるの?」


「いいえ、まだあと二年ありますから」


 おばさんは首をかしげて、愉快そうに笑った。


「でも都会の子は、呑む子は呑むでしょう?」


 どこに行ったって、未成年で呑む奴は結局呑むだろうが、それは黙っていた。


「まあいいわ、二十歳になったら、初めてのお酒はウチで買ってってよ」


 そういって、おばさんは僕に林檎を一つ持たせた。

 できれば、あと三軒ほど回りたかったが、この分だと、話し込んでいたら疲れてしまいそうだった。

 私は店の扉を閉めて、矢継ぎ早に村を後にした。


 ――近くの山の、小さな獣道を登っていくと、こじんまりとした池がある。そこをさらに奥へと進むと、川辺の草原に出る。


 数刻歩けば、そこは懐かしい思い出の遊び場だった。

 長く伸びた草を避けて、ブナの木陰に腰を降ろすと、むっとした草の濃い匂いがする。

 懐中からハイネを取り出して、しおりを挟んであった頁を開いた。


 ……「北海」海のまぼろし――


 ハイネのユダヤ教に対する未練を背景にした、美しい旋律の詩だ。

 私はこれを読んでいると、浅い夢を見ているような心地になる。

 その浅い夢で舟に乗った私は、水の中を視力の許す限り、ずっと深くまで見おろしている。

 硝子の様だった水中に、ほのかな霧が立ち込める。それが次第に色を帯びてゆき、見たこともない、異国情緒の建物を成していく。

 教会の尖塔や、高くて丸い塔。そうして霧の町全体が、いにしえのオランダ風の建物が、道を行き交う人々が、陽の光に照らされて、次第に鮮明になってきた。

 私は道に立っていた。

「Guten Morgen!」

 黒いドレスの貴婦人達が、私の後ろで挨拶した。

 彼女らは、皇帝の像が建っている広場の中を縦横無尽に駆け回り、長剣を提げた騎士達を引っ掛けている。

 皇帝の像は笏と剣を持って、行き交う人々を見守っていた。

 そう遠くない路地では、黒い帽子から吹きこぼれる金髪が、生娘の可愛らしい笑みを隠している。

 着飾ったスペインの若者が、気取ってゆきずき、会釈する。

 時代遅れの着物を着た老女が、その手に讃美歌と念珠をもって、大きな礼拝堂に向かう。


 礼拝堂から漏れるオルガンの音が誘い、不思議な慄きが、私をとらえる。

 古い憧れと深い悲しみが、交互に私に忍び寄る。

 私の心の傷が、あの人の唇にふれて、血のほとばしる様な思いがする。

 熱くて赤い雫が、いつまでも落ち続けるのだろう。

 下のうみぞこの家にある、たかい破風の家に落ちて、わびしく、がらんとして……。

 ただ下のほうの窓辺に、娘が独りで座っている。

 頭を腕にもたせ掛け、哀れな忘れられた子のように座っている。

 私だけが知っている。

 哀れな忘れられた娘よ。

 お前は子供じみた気まぐれで、深い海の底のほうに隠れていたのだね。

 そしてもう上がってこれなくなって、知らない人の中で幾百年も独りで座っていたのだろう。

 その間私は胸を焦がして、地上をくまなく探していたよ。

 とこしえの恋人よ、もう見つかったんだ!

 そして再び、お前の懐かしい顔を見つめる。

 澄んだ清らかな瞳。

 愛らしいほほえみ。

 もう私はお前を離さない。

 さあ、お前の胸に飛び込んでゆくよ!


 ――だがその刹那だった


 水夫が私の足をつかんで

 ふなばたから私をひっぱった

 そして怒ったように笑いながらさけんだ… 



「『…先生、あんたは気がふれたんですかい』……と」



 急に耳元でささやく声が聞こえ、私は詩集から目を離した。

 振り返ると、ブナの根元に少女が立っていた。凛々しい顔立ちの、歴史小説の中から出てきた様な娘だった。

 良い香りのする麻色の髪が日本人離れしていて、本当にドイツに来てしまったのかとさえ思った。

 結い始めたばかりの様な亜麻色が、娘の幼さを誇張していた。

 髪が風に揺れると、甘ったるい匂いがした。


 村の子かとも思ったが、私の知る限り村人の誰とも似ていなかった。

 しばらくその黒眼を見つめていると、兄と思しき男が小走りで駆け寄ってきた。私と同じか、それよりも若いくらいだろう。

 もう一度娘を見やると、娘はひどいはにかみようで、ブナの木陰からぱっと飛びのいた。


「妹が――申し訳ない。しかし、いい塩梅に晴れましたね」


 昨日は雨など降っていなかったが、私は無難に返事をした。

 柔らかい物腰に、私はほっとして男と話し始めた。

 彼らは村の者ではなく、一番上の姉の療養のために都会からやってきたのだという。

 娘は二人が話し始めたのを見て、後ろから私の手元を覗き込んだ。

 私がその視線に気が付くと、慌てて兄の元に駆け寄っていった。

 ハイネを閉じ、私は娘に本を差し出して、その顔を見上げた。


「興味があれば、どうぞ」


 しかし娘は、麻色の髪をわなわなと振るわせるだけで、受け取ろうともしなかった。

 変わった子だと思い、自分の手元にある林檎に視線を落とすと、こみ上げてきた笑いを抑えきれずに、噴き出してしまった。

 真っ赤になった妹が恥ずかしそうに林檎を受け取るのを見て、男は申し訳なさそうに挨拶した。


「何度もすみません。……ところで私、このような果実を見るのは初めてなのですが、なんという名前の実なのですか」


「――林檎を見たことがない、と?」


 都会から越してきたというので、私は驚きつつも、林檎のことについて話した。


「……この実はリンゴと言って、離乳食に良く、智慧の実とも言います。島崎藤村もこの実を謡っていますし……――まあ、ここらには柿しか生えないので、私もそんなに詳しいわけではないのですが……」


 林檎を珍しがる二人が面白くて、再び私はくすりと笑った。

 ついさっきまでおどおどしていた娘が、不意に喋りだした。深みのある、爽やかで明瞭な声だった。


「ここの柿はおいしいよね」と、娘は兄に言った。


「それは秋でしょう」と私が尋ねると、娘は非常に困った様子で目を泳がせた。


 村はまだ春だった。

 ちぐはぐな物言いの目立つ兄妹だったが、不思議と私にはそれほど大事だとは思えなかった。

 むしろ、聞いてはいけないように思えた。

 深く尋ねてしまったら、もう取り返しのつかないことになる気がする。

 林檎を前に、どう食べようか躊躇している娘から、私はひょいと林檎をつまみ上げ、懐中の小刀できれいに割った。

 兄と妹にそれぞれ渡すと、二人は鼻を利かせた後、一口でぱくっと飲み込んだ。

 その食べ方があまりにもそっくりだったため、私も真似して飲み込んだが、すぐにむせ返ってしまった。

 兄妹はおかしそうに笑った。


 娘が絹に林檎を一房包むのを見ていると、自然と目が合って、恥ずかしそうに彼女は微笑んだ。


「姉にも食べさせたいので……」


 私は、村でもう一つ貰ってこようと言ったが、二人は遠慮してか、村に降りようとはしなかった。


 おもむろに歩き出した二人の後について、私も歩き出した。

 長い草がごそごそと揺れていたが、二人の兄妹は気にも留めず、歩を進めた。

 草むらを覗き込む私に気づいた娘が、ぱっと草の中に飛び込むと、男が歩を止めて振り返った。

 困ったように笑っていた。


「……あれは落ち着きのない子でしてね」


 私は、そんなことはないと憤慨する気持ちを押さえつけた。


「ええ、快活な妹さんですね。私にも薫という妹がいるのですが、どうもきつくていけません」


 男はそれを聞いて、これはいけないと思い、名乗ろうとしたが、私がそれを遮った。

 私も暫く黙っていた。

 少しすると、蛇を鷲掴みにした娘が、草をかき分けてやってきた。

 私はぎょっとして悲鳴を上げたが、幸いにもそれは声にならなかった。

 慌てて尻もちをついた私を見て、兄妹でおかしそうに笑うので、私も至極当然だという風にして笑った。


 二人は、この村で生まれ育った私でさえ知らないような小道も知っていた。一見、背の高い草木に阻まれているような場所でも、この兄妹には道が見えているようだった。

 どのくらい歩いたかも忘れ、いつしか、私には見当もつかないほど深い森の中へ来ていた。

 まだ昼前だというのに山中の森は薄暗く、時々射し込む木漏れ日が暖かい。

 春だというのにタンチョウの声がしたし、撫子の花が咲いていた。

 季節感が滅茶苦茶な風景を目の当たりにしてもなお、私には畏ろしさというものが感じられなかった。

 むしろ、四季の部屋に案内された浦島太郎の様な心境で、美しさに目を奪われ、思考が麻痺していた。

 ハイネの詩に陶酔するのと、少し似ている。


 そういえば、昨日も秋のキンモクセイが香っていた。

 村はまだ春だった。


 道中、十八の私でも息が上がるような坂道を幾度となく越えてきたが、兄のほうはともかく、妹でさえ遅れることなく歩いていた。むしろ私の歩幅に合わせてもらっているのかもしれない、と思うほどに娘の表情には余裕があった。

 男が急に立ち止まり、私と娘がその背中に追いついた。


「ここで一度休憩しましょう。すぐそこに泉があります」


 水と聞いて、私の足は途端に軽くなった。

 覗いてみると、苔がこびりついた岩陰から清流が流れ出し、一帯に泉を創っている。

 走り寄った私は、両手で水をすくって喉をならし、濡らした手拭いで額を拭いた。

 娘は手で顔に水を掛け、頭をぶるんと震って水気を飛ばしていた。

 密かに手拭いを貸す機会をうかがっていた私にとっては、自分を省みるいい機会になったが、野性的に顔を洗う娘の姿は生命力に満ち溢れていて、私の胸を静かに満たした。


 私は竹筒に水を汲み、近くの岩に腰を降ろした。


「いやぁ、参りました。足がお早いですね」


 男は、ええ……、とだけ言ってそれ以上喋ろうとはしなかった。

 私は娘のほうを顧みたが、娘はあらぬ方を向いて、口笛を鳴らしていた。

 その視線をたどると、立派な巨樹の根元に、栗毛の雌狐が一匹佇んでいた。

 娘は口笛を短く区切りながら、ゆっくり雌狐に近づいた。

 次の瞬間、何を思ったのか絹の布を解いて、中にあった林檎の一房を雌狐の方に投げやった。


「お食べなさい」


 しかし狐は、その黒い目をこちらから離そうとしなかった。

 娘がもう一度繰り返すと、林檎に鼻を擦り付けた狐は、すぐにそれを咥えて走り去っていった。

 私は今の光景を見て、懐かしい風景を思い出していた。

 スケッチブックに色鉛筆で描いた様な、鮮やかな記憶と一緒に、むせ返りそうな夏夜の草いきれが蘇った。


「…………そういえば、私の家では鶏を飼っているんですが、狐に喰われてしまうことがあるんです。金網の柵があるのですが、賢い狐は穴を掘って下から中に入ってしまうんですよ」


 そこまで言って、もしかして私は取り返しのつかないことをしているのではと躊躇したが、その意に反して口は饒舌だった。


「一度、夜中に鶏の声がして、私だけ目を覚ましたことがあって……ひどい熱が出ていて、本当に寝付けなかったんです。

 そうしたら、狐が柵の下に穴を掘っている真っ最中で、じっとこちらを見つめてくるんです。近づいても全く逃げない変わった奴で、私が木から柿を採って地面に置くと、ひゅっと掻っ攫って山に逃げて行ったんです。

 朝起きたら、熱はすっかり引いていました。医者にはその夜が峠だと言われていたと、後から知りました」


 独り言の音量で言った後、私は二人の顔を見て、にっこりと笑おうと努めた。

 娘も、その不自然なほど美しい笑みで、頬を紅く染めた。


「お姉さんの林檎、無くなってしまいましたね」


 私がそう言うと、兄妹は不思議そうに顔を見合わせた。二人して、こっそり笑っているようにも見えた。


「――……ええ、また明日。林檎を持ってきて下さいましね」


 妹が立ち上がると、それに続いて兄も膝を伸ばした。


「さあ、帰り道も私が案内しましょう。なぁに、行きは大変でしたが、帰りは簡単ですよ――」






 ……――次の日も、その次の日も、私は森に足を運んだが、あの兄妹は現れなかった。

 あの日の別れの時も、そんな気がしていた。この兄妹は霞のように消えてしまうのではないか、と。

 遂に出立の日まで、あの兄弟は姿を見せなかった。およそ一週間滞在したが、その間に二度とは会えなかった。村の人々に聞いて回っても、誰一人そんな者は知らないと言う始末で、もう探しようがなかった。


 昼を食べ、いつものように森の中を歩いていると、キンモクセイの香りが漂ってきた。気のせいかと思って鼻をこすると、もう香りは消えていた。

 かなり深くまで進むと、廃墟の様なトンネルが見えた。

 崩落すると危ないからと言われ、小さい頃は決して近づくことはなかった。

 実際トンネルは今にも崩れそうだった。


 何故、誰もいない山奥にトンネルがあったのか、そこを抜けた先に何があるのかを、確かめた者はいない。

 ただ今は、そんなトンネルが運命の一片のように思われ、不思議と心を誘惑した。

 子供のころから建っていたのだから、今日入っただけで崩れるとは思いたくなかった。

 トンネルの中では水の垂れる音が響いて、畏れを感じるほどに真っ暗だった。

 湿った壁を手で確かめながら、靴が濡れるのもお構いなしに前へ進んだ。

 苔のぬるりとした感触が、腕を伝って肩に響いた。

「『先生、あんたは気がふれたんですかい』……」

 ハイネの一節を口ずさむと、自虐的なその条が、壁に反響してひとりでに増えていく。


 遠くに、ぽつんと小さな光が見えた。

 その光が周りの暗黒を強調するようで、私は背筋が寒くなった。

 突然、後ろからごうごうと風が吹き荒れて、身体が強張った。

 私は壁から手を離し、追い風を受けながら疾走した。

 恐怖で身体の芯が麻痺して、一種の自己陶酔にも似たような心地だった。

 詩が頭の中で回転しだす。


 その時だった。蜘蛛の巣が顔に絡み付き、思わず目を塞いで倒れこんだ。

 固い地面に身体が近づき、身にぐっと力を込める。

 ふっと足場が消えて、深い水の中に落ちる感覚があった。水中で、自分のくぐもった息が反響した。

 目を瞑ったまま泳ごうとしたが、意外にも足をつけて呼吸ができた。

 緊張の糸が切れ、全身の力がゆっくりと抜けた。

 私は、見覚えのある小さな池から這い上がり、細い獣道を進んだ。

 水を滴らせながら空を見上げると、身長より高い崖の上に、トンネルの一部が見えた。


 開けた草原についた。ブナの木陰がある。

 林檎を切ったその場所に歩いていくと、木の根元がきらりと光った。

 ブナの木の根元に屈んで、目を凝らすと、膝ほどの高さの場所に麻色の毛が絡んでいた。


 取り上げて見ると、狐の毛のようだった。

 あの時の雌狐のものではないと、私の直感が告げた。

 キンモクセイの香りがする毛を握りしめ、私は代わりに林檎を置いていった。

 きっと、気が付いてくれると信じていた。






「――……淋しくなるよ」


 薫の細い声は、初夏を告げる蝉の声にかき消されそうだった。

 私は妹に、来年の命日にも帰ってくると約束して、事前に用意してあった花色の櫛を渡した。

 私からのお祝いだと、そう付け加えた。

 薫は恥ずかしそうに背を向けて、にやけるように笑った気がした。

 惜しくも、結婚式は私がドイツに研修に行く最中に行うらしい。

 相手は、隣町の宿屋の跡取りだそうだ。私には顔なじみのない相手だった。

 薫にはきついところがあるが、根っこは優しい奴だ。きっといい若女将になるだろう。


 もう一度、いつか宿屋に足を運ぶと、そう約束した。

 薫は、肩に乗せた学生鞄を私に手渡し、母から預かったという父の懐中時計を取り出した。それには私も見覚えがあって、父が祖父から譲り受けた物だという。

 発条仕掛けの形見時計は、錆びついてもう動かない。私はそれを懐に提げた。

 そのあとも、どうでもいい事を長々と話しながら、桟橋で陽が沈むのを見た。白い月が光を帯びていく。


 小舟の老父が到着すると、来た時よりも大きくなった荷物を積み込んで、そうして私も舟に乗り込んだ。


「淋しくなるな」


 別れを惜しむ間もなく、舟は動き出して、薫の立ち姿はどんどん遠くなっていった。

 まだ村から出ていないのに、郷愁の念が一層強くなってきて、ぽろぽろと涙が弾けた。

 舟乗りの老父は、私の方を見ようともせず、ただ白い月を仰いでいる。

 私は鞄からハイネの詩集を取り出して、しおりを挟んだ頁を開くと、ふわっと甘い匂いがした。亜麻色で作ったしおりを懐中にしまい込んで、本に目を落とす。

 途端に、ふっと月明かりが消え、文字が黒い点になった。


「不吉だね」


 老父のしゃがれた声がして、私は顔を上げた。


「雲で満月が隠れやがった。こうなったらもう、妖の時間だ。舟は流れに任せるしかねえや」


 適当に舵を投げた老父は、舟底に身を委ねた。

 私は本をしまって暗闇に目を凝らしたが、この闇で視覚はあまり役立たなかった。だが、耳をすませば蝉と鳥の声は聞こえた。

 そっと目を開けると、一つの小さな青光が点滅していた。

 炎のように揺らぐ光は、手を伸ばしてもつかめず、遠くの岸辺にあるらしかった。

 川面が青い光を受けて、てらてらと輝いている。


 私は老父を揺さぶり起こそうとしたが、一向に目を覚ます気配はなかった。

 独りなのかと思ったら、急に背筋が凍り付いた。

 兄妹と森を歩いた時よりもずっと美しく、独りでトンネルを走った時よりもずっと畏ろしい光景だった。


 光はどんどん強さを増していき、やがてあたり一帯を濃く映し出した。

 視界は広くなったが、余計に暗闇が強調されて、何が潜んでいるかわからぬ恐怖があった。

 その時だった。


 ――ヴワアァァァアウゥー!!!!!


 突如、獣の叫びが鳴り響いて、耳周りの筋肉が震えあがった。

 うなじが総毛だち、悪寒が背中を走り抜ける。

 水中の水草が震え、水飛沫が私に襲い掛かった。

 強い青光りに照らされたその獣は、彼方の岩に腰を降ろし、栗毛を風になびかせていた。


 その獣、―――狐は、えもいえぬ美しさを煌煌と放ちながら、クックックッと短く喉を鳴らした。


 訳もなく、涙がぼたぼたと落ちた。

 操る者のいない小舟は、ゆっくりと暗礁に向かって進む。

 心を乱された私は全くそれに気づかず、ただ上ばかりを仰ぎ見ていた。

 甘ったるい香りがもはや懐かしく感じられ、私の感情は激しく血を流している。


 舟が大きな音を立てて岩にぶつかり、私は安定を失って青い川に放り出された。

 私は状況が飲み込めないまま、目を強く閉じた。


 きっとそうなのだろうと信じたかった。彼女はリンゴに気づいたのだ、と。


 深い水の中に落ちて、必死で手を掻いた。

 顔が水面に出ると、自然と狐と目が合った。

 感覚が狂いでもしたのか、川は何よりも暖かく、柔らかだった。

 思わず、自虐的な笑みがこぼれた。

 私は流れる涙を出まかせにして、両手を彼女に向かって差し出した。



 ――私は思い出してしまったのだ。どうして、この(お盆)に故郷に帰ってきたのかを。


 妹が家を出て、母が一人になってしまう。だから私はどうしても、この家に帰ってきたかったのだ。


 あの酷い高熱が出た夜に、私はとっくに死んでいたのだ。


 ――死者()が唯一帰れる時期だから……。


 しかし彼女は、柿の恩を忘れていなかった。だから私は最期に母と喋り、妹と喋ることが出来たのだった。



 ……それが彼女が私に見せてくれた、最後のまぼろしだった。




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