雨を見る人
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
あ、先輩お疲れ様です。
早いですね。集合時間まで、まだ15分くらいありますよ。先輩らしいっちゃ、先輩らしいですけど。
――ん? この天気で傘を持ち歩いているのが変?
いや、天気予報を見たら、帰りの時間帯で降水確率が10パーだか20パーだかあったんです。念のための用心ってとこですかね。
――わざわざ長い傘じゃなくても、折りたたみでこと足りる?
うーん、なんとなくですけど、長い傘の方が防御力ありそうな気がしません?
そりゃ、雨でぬれるのが嫌なこともありますけど、過去にもっと厄介なものに絡まれたことがありまして。
――そのときの話を聞きたい、ですか?
うーん、あれから久しく遭っていませんし……大丈夫ですかね。
じゃあ、みんなが来るまでの間で、お話ししますか。
僕が以前、通っていた学校のクラスメートに、よく目を潤ませていた男の子がいました。悲しいことがあったとか、いじめられているとかに関係なく、涙をまぶたにたたえているんです。
常に涙目でいると、涙道閉塞の疑いがありますよね。余計な涙が流れていく、鼻までの通り道。そこのいずれかが閉じて、涙が流れていかない病気です。場合によっては手術する必要もあるでしょう。
ただ、見るだけでは涙目の泣き虫にしか思えません。「男の子は泣くべきじゃない」って風潮も強く、その子は影でも日なたでも、バカにされることしばしばでした。
当の本人はもう平気の平佐といったところで、どんな悪口にもこたえた様子を見せません。その反応のなさゆえか、表立って彼を貶める声は、少しずつなくなっていきました。
その彼ですが、涙目以外にも少し奇妙な癖を見せます。
雨が降っている日の、休み時間になりますとね。彼はついと席を立って、足早に教室を去っていきます。そして時間が終わる頃に戻ってくるんですが、髪も服もびっちょり濡らしているんです。外に出ているのは明らかでしたね。
先のいじりに対する無関心さもあるのか、そのことを彼に突っ込もうとする人はほとんどいませんでした。僕は尋ねてみた派なんですけど、言葉を濁されましてね。はっきりしたことはわかりません。
でも、隠されたら暴きたくなるのは、人間の性分じゃありませんか?
僕は彼が出ていったあと、さりげなく校舎内を歩きながら、窓越しに雨のグラウンドを眺めます。しかし、彼の姿は見当たりませんでした。方角を変えて、裏庭や体育館方面を探っても同じ。
ひょっとして、と階段を上っていくと、ちょうど屋上のドアを開けて、彼が中へ入ってくるところだったんです。
僕は階段からちょっと顔を出していただけで、彼とは目を合わせていません。それでもすぐ教室へ引き返しました。
ひとまず屋上に出ていたということさえ分かれば、その日はオッケー。きっとあそこで彼を問い詰めても、まともな答えは返ってこないでしょう。なら尋ねるより、じかに自分の目で見た方がいい。
そう考えた僕は、一足早く戻った教室で彼が帰ってくるのを見届け、次の雨の日を待ったんです。
それから一週間ほどたち、雨足と一緒に風も強まる日のこと。
彼は再び屋上へ向かい、僕もこっそり後をつけていきました。彼が屋上のドアを開ける音を立ててから、少し待ち、ドアのすき間から屋上の様子をうかがいます。
彼はドアから数メートル離れたところで、こちらに背中を向けつつ、空を見上げていました。腕は何も持つことなく、だらんと身体の横に下げた棒立ちの状態です。
雨は降り続けています。風は吹き続けています。そして彼の袖や裾からは、濡れ雑巾のように水が勢いよく垂れ続けていました。それでも、彼はピクリとも動く気配を見せません。
見ている僕の方が、よっぽど寒気を覚えます。これは関わるべきではないものだと、産毛が逆立つ気さえしてくるんです。変化なく立ち尽くす彼の姿を、僕は最後まで見届けることができませんでした。
ドアから遠ざかる瞬間、初めて彼が肩を動かし、こちらを振り向くような気配を見せましたが、もう僕の意識はほとんど、降りていく階段に向いていましたね。
翌日。雨はいったん止んだものの、いつまた降り出してもおかしくない、灰色の雲が広がる放課後のこと。
例の彼はいつも通り、登校しています。雨が降っていないから、休み時間に出ていくことはありませんでした。ただ違うのが、今度は帰りのホームルームが終わるや、真っ先に教室を出ていったことくらい。
僕は彼の後を追う気になりませんでした。昨日の微動だにしない背中が、まなこに焼き付いています。またあの格好を見ることになるかと思うと、無性に鳥肌が立ってきてしまいました。
昇降口に、先に出ていったはずの彼の姿はありません。もう帰っちゃったのかと、一応左右を見回して用心しながら、外へ一歩踏み出したときです。
ぽつん、と一滴の水が頭のてっぺんで跳ねました。
「雨?」と空を見上げる僕ですが、本来なら見える灰色の雲を、半分ほど遮る校舎の壁。そのてっぺんに、色の違う黒点がくっついています。僕の真上にあたる位置でした。
目を凝らし、それがあの彼の姿と分かります。彼は屋上の柵を越え、まさに校舎から落ちるギリギリから、こちらを見下ろしていました。
彼は声を出さず、すっ、すっと大きく右腕を横に振ります。「どけ」といわんばかりでした。
僕がその場をのくと、間髪入れずに、立っていた位置へ一滴、ぽたりと水が垂れます。じゃりの上でじわじわと広がっていく、黒いシミ。すでに昇降口からは僕以外の人も姿を見せており、さんざんに水滴の跡を踏みにじっていきます。
僕はその場を動かず、屋上の彼をじっと見つめていました。「どけ」サインを送っていた右腕は、今度はそっと高く振りかぶったまま、固まっています。
そして人がはけたかと思うと、シャッと音が聞こえてきそうな動きで、彼が何かを投げたんです。
ひと呼吸遅れて地面に刺さったもの。それは細い銀色の針のように見えました。しかも刺さった地点は、――すでに多くの人の靴に荒らされ、ほこりをかぶり、はっきりとはわかりませんでしたが――あの水滴が垂れたところに思えたのです。
すると、どうでしょう。針の刺さったところを中心に、姿を消していた水滴の跡がまた、じんわりと染み出し、広がっていくのです。
先ほど埋まったものが出てきた、などと考えはしません。土を掘らないまま、新しく針を刺しただけで、出てくる液体。
それはつまり、刺さったところの下に何かあるということ……。
「どけ!」
今度こそ、はっきりした声が頭上から降ってきました。
次の瞬間、針のてっぺんが新しく降ってきた靴底によって踏まれ、そのほとんどが一気に土中へ沈んだんです。
彼がそこに立っていました。手とひざをつき、目を閉じながら身体を小刻みに震わせて、何かに耐えているかのよう。
いや、何かの正体は察せます。屋上からここまで、律義に階段を下りてきたなら、こんなに早く姿を見せるはずがない。
きっと彼は、あそこから飛び降りてきたんです。そして耐えているんです。着地の痛みに。
針の下のシミは、いっそうその広がりと速さを増しました。あっという間に彼の靴底に収まらないところにまで伸び、加えてほのかな生臭ささえ漂ってきます。
「あんまり見せないんだけど、特別だ」
震えの止まった彼は、シミの上から足をどけます。黒々とした池の中心には、もはや数ミリ程度だけ出っ張るにとどまる、針の姿が。
彼はかがんで、その先を指でつまみ、ぐっと引き上げ。ある程度抜けた時点で、今度はつかみ直し、勢いよく引き抜きます。
刺さったものの正体は、針じゃありません。串でした。
バーベキューで肉や野菜を通すときに、お世話になる一品。数十センチほどの姿が、完全に地面から抜き出た時、とがった先端に刺さるものがありました。
ミミズに思えましたが、その体色は深い緑色かつ、太さは手の指三本ほど。ところどころにケミカルさをにじませる青やピンクの斑点を浮かべ、その胴体の真ん中を串に貫かれたまま、身もだえしている。
それを彼は、串の肉を食べるようにがっと噛みつき、串を滑らせながら食べたんです。
一瞬の早業で、口元からは汁一滴さえ漏らしていません。ギュッギュッと、砂を噛みしめるような音は、およそミミズを思わすあの身体を噛みしめているとは、とうてい思えないシロモノです。
ごっくりと彼が喉をならすと、異状の気配はもはや土のシミと、緑色の汁が絡みついた串以外ありません。それらも彼が土をかけ、串をしゃぶりつくすまでの数秒間に過ぎませんでしたが。
その後、少し彼と話したところ、最初に垂らしたのは彼の涙のようです。
ただ涙腺からあふれたものじゃなく、雨が混じったものだとか。あのとき、屋上にいた彼は雨を一心に、まなこへ受けていたんですね。話を信じるなら、まばたきもしないままに。
そうして垂らす涙は、あの串に刺さった獲物を呼ぶんだそうです。ただ地面深くにいるから、普通に立って垂らすだけじゃ届かない。ゆえに、屋上のような高いところからこぼしたということですね。
彼の目がいつも潤んでいるのは、あの雨交じりの涙を極力キープしているから、とのこと。
彼はそれからも、雨のたびにびしょ濡れになっていました。きっと獲物も何度か仕留めたんでしょう。
僕は意識して、その現場から離れるよう努めましたが、いまだ不安なことがあるんです。
彼の涙を受けてから、何日か経った後、頭がむずむずするようになったことですね。最初の内は数ヶ月に一度くらいで気にしてはいなかったんですが、年々間隔が狭まっていまして。今はもうほぼ毎日のように来ているんです。
――もしかしたら、彼の涙の効果がようやく出てきたのかもですね。
そうなったら、いつあの串が来るか分かりません。だからこうして傘を持ち歩いているんです。ぴちょんときたら、ばっと開いて、串を防げたらなあ……なんて。




