第9話 外で遊んでおいで
「あれっ……」
窓から差し込んだ光が瞼をくすぐる。
ハルデンブルクは冬が長く、夏が短い。
海から吹き込む湿った風が雪を降らせるので、ウェーカー市はハンデンブルク最南端の都市だが、積雪の多い都市としても有名である。
街の外観を形作るハルデンブルクの家屋は、冬季の寒さに耐えるべく、高断熱・高気密を重視する傾向にあり、窓が少なく建物自体の背が低い。
南側に開いた窓からの光を遮るように手をかざしながら上体を起こす。
体には少し気だるさがあって、もう一度ベッドに戻ろうかとも思うが、自堕落な生活は良くない、と亡き祖父の声が聞こえた。
眠気の冷めない目を擦りながら光の方に目をやると、窓際には何処か遠くを眺める黒のチェスターコートを着た男が背を向けて立っていた。
「おはようコーデリアちゃん。いい朝だね。」
窓の外を眺めながら、右手のマグカップに口をつけた。朝の日を背にうけながら窓から、椅子を移動させてベッドの隣に腰をかけた。
ベルゴッドは左手に持った湯気の経つマグカップを渡してきた。
中身は、鼻腔をくすぐる甘い匂いを放つホットココアだった。受け取る為に手を伸ばすと、掛け布団がずり落ち、冬の空気の冷たさが肌に触れた。
「ありがとうございます。」
私は普段コーヒーに砂糖入れない。
決して甘いものが嫌いという訳ではなく、むしろ好きなのだが、甘い物ばかり食べていると歯がダメになると言う祖父の言いつけ(というか迷信)を律儀に守っているのだ。まぁ、久しぶりだからいいかなんて思って口をつけた、甘味は舌がとろけるようだった。
「ふぅ…」
窓の外からは子鳥のさえずりが聞こえ、庇から雪解け水が滴っていた。
外からは賑やかな街の人々の喧騒が聞こえる。エルマドーラが面しているのは1番の大通りではないが、そこそこ人通りのある大きな通りだった。
(ん?喧騒?)
「ごほっ…今何時ですか?!」
恐るべき予感に行き着き、口に含んだココアを吹きそうになりながら聞いた。
「今は11時だね。」
「へっ……?」
思わず口から出た間抜けな声。
(寝坊なんてこの数年1度もしたことがなかったのに!)
ココアなんか飲んでる場合ではないと、熱々のココアを流し込んでベルゴッドに返そうとすると、ベルゴッドが先に口を開いた。
「今日は仕事も授業も休みにしてある。アンナちゃんにも伝えてあるから、ゆっくりしてていいよ。」
その時、初めて気がついた。
手に力が入らない。それどころか、全身に上手く力が入らない。
軽くなったマグカップが手から落ちそうになる。
「おっと。」
ベルゴッドが落ちる前に受け取り、2つとも机に置いた。振り返って足を組んで座り直すとベルゴッドは徐に口を開いた。
いつになく真剣な声音でベルゴッドは話し始めた。
「コーデリアちゃん。君は強くなったね。」
ベルゴッドはノータイムで拳を顔に放ってきたが、咄嗟に左手で肘を打って流れを逸らし、右手を鼻っ柱に寸止めで放った。
「君は、そこら辺の大人たちなんかとは比べられない、それこそ軍人なんかにも引けを取らない程、強くなった。」
自覚はあった。
体は145cm(少し前に服を仕立て直してもらう時に測った)と平均より少し大きい程度だが、体つきが明らかに変わった。なんというか密度が変わった。私自身にも上手く表現出来ないが、とにかくそうなのである。1年前はもっと筋肉が膨れていたような気がするが、そこから無駄な筋肉が削ぎ落とされた、とでも言うのか。どちらにせよ、ここまでの体つきの人間は同世代どころか、年上でさえあまり見たことがない。
(ベルゴッドの裸は見たことがないし、スーツを着込んでいるのでよく分からない。)
最近、アンナが落としそうになったグラスを空中でキャッチしたら、力のコントロールをミスして握ったまま割ってしまう事件があった。
その時アンナに「もはや怪力だね…」としみじみ言われたのは胸に刺さった。
さらに不満(というか不安)を言うなら、13歳になってやっと膨らんできた胸は果たして、胸なのか、胸筋なのかという点である。着替えの度にこんな複雑な気持ちになるとは思わなかった。
「そこで、コーデリアちゃん、改めて聞こうか。」
1つ息を吐いて言葉を繋げた。
「僕はこの部屋を借りている期間が終わり次第、旅に出る。この旅は別に、戦いを目的としている訳では無いけど、必要なら何度だって戦う。その過程で僕は、目的を達成することを最優先で動く。君が目的の妨げになるなら、瀕死でも無視する。」
息を飲んだ。
ベルゴッドの言葉に嘘偽りはない。
目を見ればわかる。
「関係ありません。私はあなたについて行きます。」
私は即答した。
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目の前の少女は即座に首を振った。
その澄み渡る瞳に迷いは見えなかった。
「ダメだよ。よく考えるんだ。コーデリアちゃんの人生を決めることなんだよ。今日一日よく考えるんだ。」
即答するのがわかっていたかのように、迷わず首を振った。
(結論は見えている。だが、)
傷んだ木目の床に視線を落とす。
そっと顔に手を当てた。
何気ない動作だった。
(ーーその迷いと決断が、退路を断つ。)
湧き上がる笑みを隠すためでなければ。
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一瞬何故か俯いたが、直ぐにいつもの胡散臭い笑顔に戻り立ちあがった。
「まぁ、日がな一日、こんな部屋にいるのも不健康だし、外で遊んでおいで!」
謎のセリフを残して、マグカップを両手に持ったベルゴッドは部屋を出ていった。
(遊んでおいで、なんて初めて言われました…)
エルマドーラを出ると、少し寒い風が髪をふわりと持ち上げた。いつもは仕事用に高く結んでいるが、今日は特に目的がないので、低めのサイドテールで無造作に結っていた。
1番上のボタンを外した白いシャツに、同じく白いニットカーディガン、黒いパンツという、同世代の子ならきっとしないであろう簡易な服装で裏口を出た。
祖父から最後に買ってもらった純白のワンピースは、ベルゴッドと出会ってから1年程で着れなくなってしまった。寸勁を繰り出せるようになったのもその頃だった。
(勁を打てるようにはなり、軽は私の中から忽然と姿を消しましたね…)
自虐的な笑みが浮かんだ。
ニットカーディガンも去年の休暇に買ったものだが、当時はブカブカの大きなサイズを買った。
無論それは来年はもう一回り大きくなるかもしれないという、不安しかない予感があったからであり、自分の体を見れば、見事その予感が的中したことが分かる。
(もう少し可愛い服が着たい気持ちはありますが……)
気持ちはあるのだが、いざ見てみると、「この作りでは肘打ちがしずらい」とか、「スプリントしたら破けそう」とか考えてしまって、買う気になれなかった。
結局、毎回若干男装のような格好になってしまうのだが、コーデリア自身の整った顔立ちも相まって「男装の麗人」といった雰囲気をかもしていることに、本人は気がついていない。
久しぶりに貰った休暇で、久しぶりにお洒落な服をしたいと年相応に思った結果がこれなのだから、機能性主義者ここに極まれりである。
(まぁ、考えていても仕方ありませんし、街を少し歩きますか。)
中央通りに敷かれた石畳は、市が雇っている掃除屋に日々磨かれている為、いつもピカピカだった。隙間から雑草が生えて出てくることなどもなく、手入れが行き届いた状態である。
(この街は美しいですね…)
ほぼ真円状に広がるウェーカー市は、南部に港、北部に下町という異なる顔を持つ。市庁舎や市立図書館、その他公営施設は全てこの中間地点のエリアに居を構えている。
唯一の例外が、市の最北端にある裁判所である。華族と呼ばれる元貴族が支配階層から離れた時に四民平等を謳って建てられたのが裁判所だった。
(と言ってもこの街以外を知らないので比較できませんが…)
現在、先代の市長がひと月ほど前に急逝しててしまったので、ウェーカー市の長は副市長だった男が任されているらしい。先代市長は、元々南部に本拠地を持つアークラー商会の会長で、息子に代を譲って隠居していた時に、周囲からの推薦で市長になった。切れ者かつ、商人仕込みの鋭い金銭感覚を持ち合わせ、少ない財源で北部に点在する貧民街の環境改善政策や、南部と北部の協調など、大衆の心を掴む政治を展開していた。
(この世の半分は金で回っている……ベルゴッドの言う通りですね)
就任時に既に60を過ぎていた前市長は、着任と同時に、選挙を争ったライバルである華族の男を副市長に任命したそうだ。
私の知ってる情報はここまでで、そもそも大して政治に興味が無かった。新聞や図書館で調べられるような表側の事情しか知らない。
(全てベルゴッドの言いつけで読んでいる新聞記事の情報ですしね……)
家事に教育、戦闘訓練だけでなく、情勢にもある程度通ずるべく新聞を読むように言いつけられていた。何処にそんなものを読む時間を作るんだ、と問い返したかったが、その問いが無駄に終わるのは分かりきっていたので言葉を飲み込んだ。
(綺麗なお花ですね。)
中央の目抜き通りを市庁舎を背に南へ進む最中、ひとつの花屋が目に止まった。色とりどりの花が店先に並んでおり、そのどれもが自身の色を主張するように咲いていた。
軒先の右手側には、ターバンを巻いた女性が、ポッド一つ一つに噴霧器を吹いていた。
「これはなんというお花ですか?」
後ろから声をかけられ驚いたのか、女性は噴霧器を落としてしまった。
「突然すみません。この美しい青い花はなんと言うのですか?」
持ち上げるスカートなど無かったが、右足を引いて、左膝を軽く曲げて見せた。
女性は噴霧器を拾い上げると、うふふと口元を隠して小さく笑った。
「随分と礼儀正しいお嬢さんね。これは交易で流れてきた『ヴリュンヒルデ』っていう珍しい花よ。」
「ヴリュンヒルデ、ですか?」
なんと言うか、花の名前とは思えない力強さを感じる名前だった。6枚の丸く青い花弁を携える一輪の花は、小さいながらも真っ直ぐ伸びていた。
(香りも強すぎず上品ですね…)
植木鉢の中にありながら他の花の香りに埋もれない、凛とした爽やかな香り。不思議と心が安らぐようなそんな香りだった。
「この花はかなり変わっていてね。気温が低くなると、姿を一切変えず硬質化してしまうのよ。」
「硬質化?」
「ええ。硬質化する前に茎を少しけずってあげれば髪刺しにすることも出来るわ。何故そんな特徴を持っているのかは知らないけれど、ヴリュンヒルデというのは異郷の地に居た戦乙女の名前らしいわ。私の想像だけど、この花はその女性の姿を彷彿とさせるのではないかしら。」
たしかに、この花からは意志の強さのようなものを感じる。ヴリュンヒルデのモデルになった女性は、凛々しく美しい女性だったに違いない。
「ウェーカーは寒いから、切って一晩外気に晒してあげればすぐ硬質化するわよ。」
この子なんてどうかしら、と指を刺したの数本の中で、小ぶりながらも形の整った一輪だった。
「では一輪頂きます。」
パンツのポケットから皮袋を取りだし、中から金貨一枚を女性に渡した。
渡された女性はコインの色に驚いたのか、首を横に振って手を返してきた。
「幾ら珍しくたってこんなに貰えないわ。」
花の相場は知らないが、おそらく一輪の花を買うには法外な額だったのだろう。
「いえ、いい話を聞かせて頂きましたし、」
だが、これと言って趣味も使う時間もない私にとって、金貨の価値は目の前の一輪の花に比べればちっぽけなもののように感じられた。
(それに、)
ふと空を仰ぐと、雲ひとつなく澄み渡った美しい青が広がっていた。
「今日は天気がいい、そういう事で良いのではないでしょうか。」
女性は私の言葉に面食らったのか、頬を赤らめてコインを受け取った。
「あと10年若かったら、貴女に夢中だったに違いないわ。」
うふふ、と嬉しそうに笑う姿は無邪気な少女のようだった。
(気分が良かっただけだったのですけど、何かおかしなことを言ってしまったのでしょうか)
同じ女でも学びと訓練に時間を費やしてきた12歳のコーデリアでは、自分の言葉が発した効果を理解しきれていなかった。
「花は切っちゃっていいかしら?」
「ええ、お願いします。」
15cm程茎を残してパチンと切ると、茶紙で綺麗に包み渡してくれた。
「どうぞ。もし良ければまた来てね、可憐なお嬢さん。」
女性は、裾広がりのワンピースを持ち上げると、片足を下げて膝を曲げた。
「ええ、また来ます。」
被っていない帽子を外して空中で一回転させ、腰を折った。
チラッと上目で見ると、女性は益々嬉しそうな顔をしていた。
花を受け取り、通りに戻ると歩く人の数が先程より大幅に増えていた。
(もう、お昼ですね)
とは言っても、起きた時間が時間だったし、出る前にアンナにまかないを貰ってしまったので、お腹は空いてなかった。
端々から香る芳ばしい肉の焼ける匂いや魚介独特の匂いに目を向けつつ、港に向かってゆっくり歩き続けた。