第4話 依頼
カランカラン
ステンドグラスのはめ込まれたドアを押して、出ていった時と変わらぬ姿でベルゴッドは戻ってきた。
「たっだいま〜」
陽気な声と共にベルゴッドが帰ってきたのは10日後の朝だった。
「ベルゴッド!アンタ遅いじゃないか!」
レイモンドと呼んでいたはずだが、気がつくとアンナもベルゴッドと呼ぶようになっていた。
ベルゴッドの軽い帰宅の声を聞くや否や、アンナは怒り心頭と言った感じで、開店準備の為に机を拭いていた台拭きを握りしめベルゴッドに掴みかかろうとした。
「おおっと、ごめんごめん」
襟をつかもうとする手を上手く躱して、私の背後に近寄ってきた。
「コーデリアちゃんは寂しかったかな〜?」
そんなふざけた態度で吹いたばかりの椅子に座って、いつもの革のケースを床に下ろすと足を組みながら「コーヒーひとつね」などと言ってきた。
「ちゃん付けは辞めてください。不愉快です。まだ開店してないので、注文は受けられません。開店をお待ちください。この10日間何してたんですか。早くも私の事捨てたのかと思いましたよ。」
早口で返答しつつ、ほんの少し安堵している自分がいることに苛立ちを覚えた。
ムスッとした態度を表に出すのは良くないけど、どうしても隠しきれなくて、誤魔化すようにアンナが拭き終わったテーブルから順に椅子を下ろし始めた。
「いやぁ、僕も罪な男になったもんだ。」
肘をついて、人差し指で顔をトントンと叩きながら目を細めて薄く笑う姿は、胡散臭さ以外何も感じられないペテン師と自己紹介しているかのような顔だった。
「んで、結局どこに行ってたんだい。」
さっきまで怒りはどこへやら、アンナは落ち着いた風でコーヒーの用意を始めた。
白く光沢のある、店で使っている陶器のソーサーの上に、湯気と香りが立ちのぼるコーヒーが注がれたマグカップが置かれた。アンナは自身の分と私の分を机に置くと、向かいに座った。
「今日は少し開店を遅らせる。コーデリアもこっち座んな。」
アンナに呼ばれて、おずおずと2人の間に座った。
「仕事をしてきただけさ。」
コーヒーに口をつけると、「苦っ」と眉間に皺を寄せた。アンナはシロップを渡そうと手を出したが、ベルゴッドの手が届きそうな所で手を引いた。
「待ちな。あんた仕事なんて最近ロクにしてなかったじゃないか。なんだってこの娘が来た途端に仕事に行くのさ。」
どうやら真意を聞くまでシロップはお預けらしく、察したベルゴッドは両手を上げて降参のポーズをした。
「今回はまとまった金が必要でね。悪魔の群生区域に潜ってたんだよ。」
悪魔の群生区域。
「悪魔」と称されるこの世とあの世の狭間を漂う存在。触れた生者の魂をあの世へ連れていこうとする死者の残滓。悪魔は共にこの世を離れる道ずれとして生者を求めるが、同時に悪魔同士も集まる習性がある。その中でも、ウェーカー市近郊の悪魔の群生区域は推定10000体以上の悪魔が存在すると言われている。
アンナはベルゴッドの発言に驚きを隠せない様子だった。「早くシロップ頂戴?」という囁きも全く耳に入ってなかったらしい。
「あんな危険なところに行ってたの?帰って来れなくなったらどうすんのさ!」
立ち上がって机を叩くと今度こそベルゴッドの首を絞めあげようとして襟を掴んだ。
「いやいや、あのぐらい俺一人ならどうとでもなるから。とにかく早くシロップとミルクと朝ごはんちょうだい。」
その手を軽く払うと、ベルゴッドは軽くウィンクして「お土産だよ」と紙袋を渡してきた。中身はバウムクーヘンだった。
「どうにでもなるって!あそこは最重要警戒域ですよ!幾ら以前教会にいたからって……」
一瞬お土産に釣られそうになったが、ベルゴッドの台詞は聞き逃せなかった。
はっとして、アンナを見ると、一瞬驚いて納得したのか「別にこんな奴の前職に興味はないよ」と軽く笑うだけだった。
「でも、どうして突然金なのさ。あんた金だけは持ってるって言ってたじゃないか。」
コーヒーで口を濡らすと、アンナは話を進めた。
ベルゴッドのいない間に色々聞いたが、どうやらベルゴッドは今後遊んで暮らせるだけの貯金を既に持っているらしい。
「君に正式に依頼する為だよ。」
足元に置いたケースを薄く開けると1枚の羊皮紙をアンナの前に置いた。
「120万ヴェルだ。金貨で持ってくるのは重いからハンデンブルク小切手だ。これで君に依頼をしたいアンナ。」
ハルデンブルク中央銀行が発行する小切手で、正式な取引等の際に用いられるものだが、そもそも小切手自体が5万ヴェルと高額の為これを使う人はほとんど居ない。アンナも生まれてハンデンブルクを出たことは無かったが、人生で初めて見る小切手とその金額の大きさに驚きを隠せなかった。
「これで、あたしに何を依頼しようってのさ。まさか、」
金額の大きさに声を若干震わせながら、言葉を続けようとしたが、私の目を見て口を閉ざした。
「いや、この宿に泊めて欲しいのは確かだが、コーデリアちゃんを置いていくつもりは無いよ。」
軽く微笑みながら、コーヒーを口に含むと「苦っ」と言ってまたしても眉間に皺を寄せた。
「今とってる僕と彼女の部屋を後3年間借り続けたい。勿論、朝食付きでね。それとコーデリアちゃんには引き続き一通り家事を教えて欲しい。僕では教えられないからね。」
予想外の回答に私が面食らってしまった。
「3年もお世話になるんですか?」
民宿を3年間も借り続けるなんて聞いたことがなかった。
「そうだよ。客として滞在するのは問題ないが、流石に3年は長すぎないか?」
建物の老朽化に伴い1階のカフェは改装され綺麗だが、宿として使っている2階以上は古い木造のままで、南部に新しく建てられた安宿よりも酷かった。
「3年で仕上げる。問題ない。」
そう呟くベルゴッドの口元には小さく犬歯が覗き、不敵な笑いが垣間見えた。