第2話 よろしくお願いします。
カランカラン。
一陣の風が通り抜けた。
雪解けを知らせる、少し冷たい春の風。
洒落たステンドグラスがはめ込まれた扉の前には一人の少女が立っていた。
商人や安月給の下級役人が好む店には珍しい客である。
そこそこ裕福な家の息女のようで、フリルの着いたワンピースに、イエローのカーディガン、ブルーのリボンが目を引くストローハットという春らしい出で立ちだった。
ハットからは美しくウェーブのかかったブロンドが流れ、手に持った革のアタッシュケースが重たいのか、少し前かがみに立っていた。
「ここにベルゴッド・ヘルハウンド様はいらっしゃいますか?」
ウェーカー市に立つカフェ・エルマドーラで少女の発した第一声はそれだった。
区画整理が進み碁盤の目状の近代都市に姿を変えたウェーカー市は、首都ヴェルゴーンに次ぐ第二の都市である。
ハルデンブルク公国最南端に位置するウェーカー市には、諸外国の商船が集まる海上貿易の中心であるヒック港がある。
輸入される調度品や海外の品々もさることながら、世界中の文化が入り乱れるこの都市はヴェルゴーンと遜色ない独自に発達した文化を持っている。
また、十数年前に大規模な区画整理と隣接都市の合併を行っており、市内北部と南部は全く異なった顔を持つ。
派手な格好の異国の行商人が闊歩する南部に対し、地元に根付いた商人たちが行き交う下町が北部である。
そのちょうど中間に位置し、南部から北部へ貫く目抜き通りにエルマドーラは居を構えていた。
北部の下町に住む住人も、港に訪れた外国商人も訪れるちょっとした人気店である。
「どーしたんだいお嬢ちゃん?人探しかい?」
カフェ・エルマドーラ店主、アンナ・エルマドーラは早くに旦那を無くし、女手一つで店を守ってきた。
無造作に纏められた赤茶色の髪を旦那から貰ったという茶色のシュシュで結いており、その首筋にはいつも汗が流れていた。
ヒールを履かずとも高い身長、やや筋肉質なスタイルに加え、美貌と言っても差し支えない整った顔立ちは、彼女の飾らない態度と相まって巷では有名な女性である。
アンナはカウンターでコップを磨いている最中だった。
が、入ってきた少女の切羽詰まった表情を見て、どうかしたのかと声をかけるべく入り口付近のテーブルへ座るよう促した。
少女はアンナの手ぶりに、軽く首を振りながら答えた。
「いえ、ベルゴッド・ヘルハウンド様がいらっしゃらないのでしたら、失礼させていただきます」
少女は頭を下げて再びステンドグラスの扉に手をかけた。
言葉遣いは丁寧だが、カフェに来店しておいてコーヒー1杯飲まずに帰ろうとする非常識な少女に一人の男が声をかけた。
「僕になんか用かい?」
客の少ない店内で中央のテーブルに座るスーツの男。
右手には北部の新聞社が発行する今朝の朝刊を持ち、左手には未だ湯気の立つマグカップを持っていた。
「何言ってんのさ!この娘が探してるのはベルゴッド・ヘルハウンドって名前だよ、レイモンド!」
アンナは半ば怒鳴りながら男の声を否定した。
重そうな、見方によっては旅装にも見える荷物を持ち、人探しをしている少女。
少女には何か事情がある。長年の経験で培われた客商売の勘がそう告げていた。
そんな少女の探し人でもない男が、何を言うつもりだ。
アンナは睨みつけるように男の顔を見た。
「あー」
対するレイモンドと呼ばれた男は、アンナの視線の意味を全て見抜きつつも敢えてはぐらかすように声を出した。
と言っても、本人にはぐらかす意図はない。
単純に男の癖なのだ。
男が頻繁にする人を小馬鹿にする様な言動は、実はすべて無意識に行われているものである。
男は自身の着ている上質な上下黒のスーツの下襟を撫でると、組んだ足を解いて立ち上がった。
(この人がベルゴッド・ヘルハウンド…?思ったより普通の人のように見えるけれど…)
少女は、二人の会話に耳を傾けつつ立ち上がった男に目を向けた。
どうにも、自分が描いていた人物像とは違うように見える。
「ベルゴッドは僕が昔使っていた名前だよ。お嬢ちゃんのお父さんかお母さんは昔の僕について知っていたみたいだね」
少女は、優しげに言う男の顔をじっと見あげていた。
優しげ、と表現しているのは少女の対人経験の少なさが言わせる好意的にとった表現であって、アンナにしてみると「なんて胡散臭い笑みを浮かべているんだ」と言わせるような顔である。
少女には、この男が自身の探し人であるかどうかを判断する材料がなかったが、兎にも角にも、ベルゴッド・ヘルハウンドを名乗る男に出逢えたのであれば話を進める以外の選択肢はなかった。
「君の名前を聞いてもいいかな?」
笑みを浮かべたベルゴッドは、ほんのり珈琲の匂いを漂わせて目の前でしゃがんだ。
男の顔をよく見れば、そこそこに整った顔立ちをしていることが分かる。
今は年齢もあり皺やほうれい線が出始めているが、若い頃はそこそこの美少年であったのかもしれない。
「私の名前はコーデリア・フィルムクロイ。フィルムクロイの姓はご存知ですか?」
(この名前を知っていれば、ある程度は信用できる…)
というか、それ以外にベルゴッド・ヘルハウンドとの繋がりがない。
この名前で思いあたりがなければ、例え本人であっても、これ以上話を続けることはできないだろう。
ベルゴッドは一瞬驚いた様に目を見開くと、悲し気に目を伏せて頷いた。
「そうか。お嬢ちゃんはロベルト先生のお孫さんか」
ベルゴッドが10年ほど前まで所属していた聖教会は、大陸西端の都市国家リーラに本拠地を置く独立組織である。
悪魔を代表とした怪異の情報収集、研究及び討伐を旨とした組織であり、その形態は完全結果主義の会社と言って差し支えない。
コーデリアの祖父ロベルトは、その聖教会において汚れ仕事屋と呼ばれる教会内において唯一人を殺すことの許される「異端者審問部」のNo.2だった。
ベルゴッド自身も所属していた時期があり、初めてまともに格闘訓練をつけてくれたのがロベルトだった。
かの老人の実力は拳聖と呼ばれ、教会では「赤い拳」の名で恐れられていた。
「先日は大変だったみたいだね。お悔やみ申し上げるよ」
ロベルトは年齢による衰えから異端者審問部を外れるのと同時に教会から引退した。戦わない腑抜けがでかい口を叩くな、が口癖だった彼は引退後、上席への誘いを断り教会から一切手を引いた。
5日前の朝刊はウェーカー市北部で起きた大規模な火災が一面を飾っていた。
火災の中心はフィルムクロイ邸の隣に立つ家屋で、区画整理の追いついていない北部の木造建築が幾つか巻き添えになったらしい。
(フィルムクロイの姓を知っていて、おじい様のことも知ってる。若干印象とは違うけれど、背格好は聞いていた通りだし、この人が……)
目の前に立つ男が、《狂戦士ベルゴッド・ヘルハウンド》。
元教会第二席の鎮魂者にして、「黒い悪魔」と呼ばれた戦闘のスペシャリスト。
一部では最強とまで言われた男が目の前にしゃがんでいた。
「ありがとうございます」
「身辺整理の手伝いには親族の方が来てくださったって聞いてるけど」
顔を上げた時に見えた彼女の瞳に嫌な予感を覚えた。この目には覚えがある。
「祖父の遺品の中に私への遺書があったんです。」
少女は膝を着いて、革のケースを床に下ろすとケースを閉めていた金具を開け、中から一通の手紙を出した。
「日付からしてだいぶ前に書いた遺書のようです。」
視線を落として、少し目をおそめると懐かしむように封を空けられた便箋の上辺を撫でた。
「生前、祖父は私の事をとても可愛がってくれました。私も祖父のことが大好きでした。なので私はこの遺書に従い貴方を探していたのです。」
ワンピースに着いた土埃をはらって少女は立ち上がり、便箋を突き出してきた。
(この流れは非常に良くないな)
「他人の家族の遺書を読む趣味は持ち合わせていないよ。」
話を終わらせる為に、受け取らずに立ち上がると、少女は俺の腕を引っ張ってきた。
「遺族が読むよう求めているのです。問題ありません。」
この頑固さには覚えがある。
白髪を全部後ろに流した矍鑠とした老人の姿が瞼に浮かんだ。
「いや、それでもNoだ。僕はそれを読まない。」
寒気を感じて首を横に振った。
(この血筋には本当に呪われているのか…?)
久しぶりに冷や汗が流れるのを感じた。
「貴方は師が残した遺言を拒絶すると?」
(おいおい、それを君が言うのか… )
分かっていた手だが、孫の彼女はどうやら俺についてある程度は知識をつけてきているらしかった。
渋々読んだ遺書の内容は、教会時代に作った数多くの借りをコーデリアの身元引受けによって返して欲しい、という簡素かつおかしなものだった。
「いやいや、あのじいさん何処まで未来見えてるんだよ。コーデリアちゃん、君は今何歳?」
呆れを超えて笑いさえ混み上がっていた。
あの老人は死んでなお、僕の道に立ち塞がるらしい。
「今年で11になります。」
少女は終始澱みなく答えた。
(先程の問答といい、数日前に家族を失った子供とは思えないな。)
「11か、それなら尚更親族の方の家へ行った方がいい。僕みたいな男の近くにいるべきではないよ。」
これは本音で提案し、本音で心配し、本気で拒絶したかった。
(そもそも、本人は縁もゆかりも無い初めて会う中年に身元引受けを頼むなど論外だろう。)
話の様子を伺っていたアンナも首を振りながら蔑むような目で俺を見つめた。
「そうだよ。こんな根無し草の男のとこより、よっぽどいい生活ができるよ。」
うんうんと頷くコップを磨く店主を無視して、目の前の少女の目を見た。
「いえ。この時世で他人の子供を歓迎してくれる家はありません。それにこの遺書には貴方は祖父からの願いを断れないと書いてあります。なので貴方が頷くまで私は貴方に身元引受けを頼み続けます。」
(本当に、どういう教育を施したらこんな子供が生まれてくるんだ。)
一瞬の迷いさえ感じられなかった。
弱冠11歳にして、他を跳ねのける自我が確立しているとでも言うのか。
「遺書のことは分かった。だがこれも答えはNoだよ。」
「なぜですか?」
さも当たり前の聞くかのように首を傾げて聞き返してきた。
「僕は定住しない。定職も持ってない。妻もいないし、子育てもしたことが無い。君のような年齢の子供を育てる術を知らない。なにより、君は僕のことを何も知らない。」
この程度で目の前の少女が折れないことを知っていながら、虚しい抵抗をしてみた。
「私が貴方と会ったのは今日が初めてですが、貴方のことは何年も前から祖父から聞いていました。変わり者で酒好き、独特の感性を持ちながら、執着がほとんどない。そんな貴方に私は会ってみたかったし、会った結果、尚更貴方のことを知りたいと思いました。」
コーデリアの澄んだスカイブルーの瞳はどこまでもまっすぐで、僕の瞳を貫き心を見て話しているようだった。
「貴方に帰るべき家がないことも、現在妻子が居ないこと、子育ての経験がないこと。そんなことは些事に過ぎません。私は私の意思で貴方の元に来たのです。」
言っていることは滅茶苦茶で、明らかに人に物を頼む態度では無いのに、それがさも自然かのように見えるのはあの男の血を継いでいるからなのだろうか。
「なるほどコーデリアちゃんは僕のファンなんだね。でも僕だって男だ。もしかしたら君のことを襲うかもしれないよ?いいの?」
アンナの冷たい目線を受けながら、心にもないことを言ってみた。
「貴方はそんなことをする人ではないでしょう。」
敢えて癪に障るような話し方をしているが、もはやコーデリアには意味がなかった。
「僕は無職でフラフラしている中年だ。一応ギルドに籍は置いてるが、殆ど仕事だって受けてない。いつ死ぬとも分からないし、ひとつの場所に長居もしない。だから危険だし友達だって出来ないかもしれない。それでも君は着いてくるのかい?」
最後の問と共に手に持っていた遺書をコーデリアの方に差し出した。
「ええ。私は貴方について行きたい。」
キッパリと答えたコーデリアは手紙を受け取って鞄にしまってワンピースの土埃を軽く払うと姿勢を正した。
「コーデリア・フィルムクロイです。今日からよろしくお願いします。」
その真摯な眼差しに首を横に振れなかったレイモンドは自身の負けを確信した。