21
チャイムの音。頭の中で、反響する。
目を開ける。見覚えのある天井。むずむずする、埃っぽい匂い。外は薄暗い。
「いたたた……」
思い出して不意に感じる、私が横たわっていた床の固さ。それのせいかもしれない背中の痛み。床を手で触れると、少し冷たく感じた。漂う空気も、昼間の熱を失いつつある。
その冷たさが引き金になって、記憶が呼び起こされた。夢が現実なのかも、わからない記憶。だけど、確かに残る感覚。温かさ。
「お姉ちゃん……!」
ふっと、お姉ちゃんに触れていた両手が熱を持った気がした。起きあがる。その熱を奪われたくなくて、床から手を離す。一瞬だけお姉ちゃんの影を探して、気づく。
お姉ちゃんはいない。そうだ、いるわけがないんだ。
その時、自分の中にぽっかりと穴が空いたように思えた。光を失って冷めてしまった空気が、その中をすうすうと吹き抜けている。
だけど、すぐにその穴を別の何かが満たしていく。両手に持った熱と同じ体温が、注がれている気がした。
お姉ちゃんは、生きている。例えそれがもう出会えない場所だとしても、確かな体温を持って、存在している。そして、その事実が今の私を勇気づけている。
「千波……さん?」
私の背後で、動く影。背中を押さえながら起きあがる純哉くん。
「純哉くん、大丈夫?」
「なんとか、大丈夫」
「建哉くんと、会ったの」
「ああ、会った」
「そっか」
数秒の沈黙。時間が現実として、流れている。
「……あのね、純哉くん」
『純哉くんのこと……よろしくね』
お姉ちゃんの言葉が、私の中で繰り返される。やっぱりお姉ちゃんと出会ったことは、夢なんかじゃない。だから、お姉ちゃんと交わした約束は、守らなきゃ。
「私、純哉くんに話したいことがあるの。これまでのこととか、これからのこと。本当に、いろいろあるの」
「うん、聞くよ。千波さんの話したいこと、全部聞く。むしろ聞かせてほしい。千波さんのこと、僕はもっと知りたい」
眼鏡の奥にある純哉くんの瞳が、薄暗い夜の色に混ざっている。でも、そこに絶望はない。
「その代わり、僕の話も聞いてほしい。建哉のことも含めて、僕もいろいろ千波さんに話したいんだ。いいかな?」
その瞳に映るのは、明日を見る希望。知らなかった。純哉くんがこんなに真っ直ぐで、美しい瞳を持っているなんて。
答えはもう決まっている。私に、断る理由なんてなかった。
「はい、喜んで」
私は初めて、純哉くんの前で、笑えた。
「おーい、何してるんだそんなところで?」
びくっ。私と純哉くんは揃って背筋を硬直させた。
「す、すいません、ちょっと探し物をしてまして……」
とっさに出たらしい、純哉くんの言い訳。でも、見回りに来たおじさんの先生は、特に怪しんでいない様子だった。
「そうかー、もう最終下校時刻だからさっさと帰れよー」
「は、はいっ」
背後の人影が遠くなっていく。
「び、びっくりしたー。ありがとう純哉くん、助かった」
「いやいや、まさか見回りに見つかるとはね……」
そこで初めて、今の時間を確認する。もう午後6時を回っていた。
「帰ろっか」
「そうだね」
私達は埃を払いながら立ち上がる。鞄を背負い直して、首からかかっていたカメラが揺れた。
「あ、ちょっと待って」
最後に私は1枚だけ、写真を撮ってみた。
シャッターを切るその瞬間。正直、淡い期待はあった。
だけど、そこに境界線が現れることはなかった。
「……見えない、みたいだな」
「うん……でも仕方ないや。純哉くん、帰り道はどっち?」
「あっちの国道のほうだけど」
「それじゃあ、私と一緒だ」
初めて知った、純哉くんの帰り道。彼は今まで、私にとってどこか遠い存在のような気がしていた。でも、そんなことはないんだと思う。むしろ、今はとっても近くにいる。帰り道が一緒だったり、知らないうちにお姉ちゃんと仲良くなっていたり。ただ、いろいろなことを知らなかっただけ。
『純哉くんのこと……よろしくね』
背中を押す、お姉ちゃんの言葉。革靴の踵を鳴らして、近くなった距離をさらにもう一歩、近づけていく。
「純哉くん、一緒に帰ろ」




