20
「私、ずっとお姉ちゃんに近づきたかったんだと思う」
起きあがって気づいたこと。
いつの間にか私とお姉ちゃんは、小高い丘の上にいた。よく2人きりで泥だらけになって遊んだ公園。そこの一番高い場所。風に押されて、独りでに揺れるブランコ。さび付いた滑り台。複雑に入り組んだ影を地面に映すジャングルジム。そこからさらに下って眼下に広がる、私達の生まれ育った街。
「だから私も、お姉ちゃんの見てた世界を見てみたくて、カメラを始めたんだ」
どうして、私達がここにいるのかはわからない。ただ、ここは2人にとっての思い出の場所だ。写真には残っていなくても、今も鮮明に生きている記憶。もしかしたら、私達は思い出の中でつながっているのかもしれない。
「それでね、今年から友達と写真部を結成したんだ! 今は2人しか部員がいないけど、来年は後輩にも入って欲しいな、って」
その思い出の真ん中、芝生の上で私とお姉ちゃんは隣り合って座っている。そこで、今の自分をお姉ちゃんに話した。他にもお姉ちゃんに話したいこと、聞きたいことはたくさんある。
「お姉ちゃんは、どうなの?」
「実はね、私も今年写真部を作ったんだ」
「そうだったんだ!」
でも、考えてみればなるほど、と思った。あの旧校舎で出会ったということは何かの文化系の部活に入っていたわけで。その中でお姉ちゃんが写真部に入るのは、自然なことかもしれない。
「でも、作ったのはほとんど一緒に活動してたサエちゃんっていう友達のほうなんだけど」
「え、さ、サエちゃん!? それって堀江彩絵ちゃん!?」
「そうだけど、え、ちーちゃんも知ってるの?」
「知ってるも何も、うちの写真部の部長だよ!」
まさか、ここでお姉ちゃんの口からその名前が出てくるとは思わなかった。だけど、それこそありえる話だ。私とお姉ちゃんの生きる世界に多少の誤差はあっても、根本は同じ世界だ。だから、両方に共通して生きていて、出会っている人間がいたって、何も不思議じゃない。
「サエちゃんの行動力ってすごいよね」
「うん、たぶん将来大物になるよね」
「起業して社長になったりして」
「ありえるかも!」
それから私達は、サエちゃんについての話で花が咲いた。
「私、サエちゃんに大山くんと話してるのがバレた時は、本当にどうしようかと思ったよ~」
「ちーちゃんもそうだったんだ。あの子、そういう肝心な時の勘の鋭さはすごいよね!」
話していて、不意にある光景が浮かんだ。夕暮れの放課後、写真部の部室。年季の入った傷だらけの床に、3つの影。私とサエちゃんと、お姉ちゃんの影。
てきぱきと写真部の今後の方針について決めていくサエちゃんがいて。ただ純粋に写真に夢中になっているお姉ちゃんがいて。そんな2人に憧れ、ふわふわとその輪に加わる私がいる。
もし、私とお姉ちゃんが同じ世界にいられたならば、そんな光景が当たり前の日常の一部として存在していたのかもしれない。きっと、最高に息のあった3人組だったに違いない。考えたら切なくなって、自分の中心がきゅっと縮こまる。鼻と目の間の、奥の方が熱くなる。
神様は、意地悪だ。普段は神様なんて特に信じていない私だけど、今この瞬間だけは本当に意地悪だと思った。
「ちーちゃん、大丈夫?」
「ううん、ごめん、何でもないの。ただ嬉しすぎて……ちょっぴり、寂しいだけ」
「そっか……」
太陽を見つめる。徐々に、地平線に届こうとしている。この一瞬を、写真で残したいと思った。だけど、今の手元にカメラがないことに気づいた。
「ちーちゃん、建哉くんに会ってたんだよね」
「うん、建哉くん、いい人だったよ。……お姉ちゃんは、純哉くんと?」
「そうそう、純哉くんもよかったなー。いいキャラしてたよ、彼。クールそうに見えて、掘り下げると結構面白い人なんだと思った」
「建哉くんも、そんな感じだったよ。やっぱりあの2人も双子なんだね」
さっきの想像に、純哉くんと建哉くんが顔を出す。最高に息の合った3人組は、5人組になる。ああそうか、こんな未来も、あったのかもしれない。
「純哉くんのこと……よろしくね」
ぽつりと、お姉ちゃんがつぶやく。
「お姉ちゃんも、建哉くんと仲良くやってほしいな」
「うん、任せて。彼ともいろいろ話してみたいし、約束する」
「私も、帰ったら純哉くんといろいろ話をしてみるよ」
帰ったら。
元の世界に帰ったら、その時にはもう隣にお姉ちゃんはいない。
はちみつ色の空はいつの間にか青いソーダ色と混ざって、深くなる。日が沈む。私達が決して届くことのない未来へ。次に日が昇る時、私達は別々の未来を生きる。
覚悟はしていた……していた、はずだったのに。
隣に座るお姉ちゃんの肘のあたり。私は身体をぎゅっと押しつけた。温かな肌に触れると、どこか懐かしくてほっとするのに、苦しかった。
「イヤだ、やっぱりイヤだよ」
私はまだ、子供のままで。どんなに年月を重ねても、お姉ちゃんの、中里穂波の妹であることに変わりはなくて。
「お姉ちゃん、私から離れないでよ……!」
一度お姉ちゃんを失ったのに、いや、失ったからこそ、お姉ちゃんの存在は大きい。またお姉ちゃんが消えてしまうことに私はきっと、耐えられない。
お姉ちゃんは、何も言わずに私を撫でた。何度も頭の上から髪を滑り降りて、襟足を伝って、背中へ。私の存在が今ここにあることを、確かめるように。
私は、瞳をじっと閉じてお姉ちゃんに身を委ねる。もう、目の前の沈みゆく夕日は見たくない。
じっとお姉ちゃんの肌に触れ、その熱を感じている。すると、やがてある違和感に気づいた。
「お姉ちゃん……?」
私は、見た。ちゃんと目を見開いて、終わりの夜に浸食される世界の中で、私はお姉ちゃんの横顔を見た。お姉ちゃんは、何も言わなかった。いや、言えなかったんだ。
お姉ちゃんは、静かに泣いていた。大粒の涙を流して。だけど、しっかりと沈みゆく空を、逃げずに見つめている。
私の中で描いていたお姉ちゃんは、いつも涙は流さなかった。私の前にいた。笑顔しか見せなかった。私の心をときめかせる写真を、何枚も撮っていた。そんなお姉ちゃんは特別な人で、私とは違うんだ。今までずっと、そう思っていた。
でも、今なら言える。それは違う。
お姉ちゃんだって普通の女の子で、私と同じ感情があって、今だって私と同じように、悲しいんだ。
「……お姉ちゃんも、辛かったんだ」
それでも、逃げないから。ちゃんと現実を見つめて受け止めるから。だからお姉ちゃんは、写真を撮るその瞬間、心を震わせる景色に出会えたんだ。だからお姉ちゃんは、すごいんだ。
「ダメだよね……私もちゃんとお姉ちゃんみたいに、強くならなきゃ」
どうして気づかなかったんだろう。たった、それだけのことに。
私も、空を見た。私とお姉ちゃんで見る、最後の空。
それは、涙で滲んでめらめらと燃える、地平線に真っ赤な空。夜に包まれる前の、最後の輝き。
悲しみの中で出会った夕焼けは、最後の煌めきを私の心臓に突き刺した。自分の血液が、太陽と同じ色になっている気がする。果てしなく遠い景色なのに、自分の身体と一体化している気がする。今まで私が撮ったどんな写真よりも美しい、自分史上最高の夕焼け空。
これが、お姉ちゃんが写真を撮るときに見つめていた世界なんだ。丸裸になった感情で触れた、外の世界。
「お姉ちゃん……私、強くなるから。お姉ちゃんの分まで、生きるから」
「うん……私も、別の世界で……」
そして、世界が白に染まる。まるで、超新星爆発を起こしたように、リセットされる。
「ありがとう、お姉ちゃん……!」
「ありがとう、ちーちゃん……!」
そして、私達は離ればなれになる。
意識が、遠くへ――




