17
ようやく、心の整理がついた気がする。
サエちゃんとチーズケーキと紅茶を食べながら、心に溜まっていた澱みを言葉にして吐き出した。サエちゃんはただ、それを静かに聞いて、受け止めてくれた。何かはっきりした解決策を提示してくれたわけじゃない。でも、サエちゃんに話していると、自然に自分の必要とする答えが見えてきた。
だから、私は学校に戻ることにした。別れ際、サエちゃんは「頑張れとは言わないけど、幸せになんなさい!」と、サエちゃんらしい言葉でエールを送ってくれた。もし上手くいったら、何かお礼しなきゃ。
時間は午後5時。また学校に戻ってきた私が向かった場所は、部室だった。ちゃんと、境界線の向こうにいる大山くんとのけじめをつけないといけない。また会えるかどうかはわからないけど、今なら会える気がする。根拠はないけど、なぜか大丈夫だと思えた。
首から下げていたカメラを構える。ファインダーを覗く。
外はすっかり晴れていた。夕日から注がれた暖かい日差しは、部室の中一杯に満たされている。ほのかに太陽と木の匂いがした。どこか、懐かしさを感じる匂い。
真ん中の机を中心に、ピントを合わせる。大山くんが座っている姿を想像する。
そして、私は大きく息を吸って、祈りをこめて、シャッターを切った。
世界が、瞬いた。
「……久しぶり」
私の正面、同じくカメラを構えたシルエットがあった。
黒縁眼鏡に、理知的な顔立ち。冷たそうに見えて、時に笑顔を見せてくれたりもした、彼がそこにいる。
「……ひどいよ」
自然に出た、私の第一声。
「私にも、ちゃんとお別れの言葉くらい言わせてくれたっていいのに」
境界線が見える。
大山くんが、そこにいる。
「それは、ごめん」
「でもいいよ、またこうして会えたから。会えてよかった」
「……そうか」
伏し目がちになった大山くんの瞳。その中に、見えそうで見えない葛藤が宿っている。
「私、ちゃんと話しておきたいことがあるの」
「うん」
「私も何とか気持ちの整理がついて……私が決めたこと、最後に話しておきたかった」
伏せていた彼の視線が、私を見る。
「私、大山Aくんのことがずっと好きだった。だからそのことを、こっちの世界で本人に伝えようって決めた」
その言葉が、私の見つけた答えだ。
「でも、私は大山くんのことも、好きだった。最初は正直、大山Aくんの代わりだった。でも今は違う。大山くんと出会って一緒にお弁当を食べて、いろんなことを話した日々は何にも代えられない。だから、忘れてくれって頼まれても、絶対に忘れられないと思う」
再び思い返す、彩りに満ちた大山くんとの日々。お別れは悲しいけど、2人で歩んだ時間のことを無駄にしたくなかった。
「だから……できることなら、記憶の片隅でいい。大山くんも私がいたこと、私と過ごした日々のことは、覚えていてほしいな」
ふと、大山くんの固くなっていた表情が少しだけ和らいだ。その淡い笑顔に、光が差し込む。
「ありがとう。そう言ってくれると、僕も嬉しい。……それから」
一瞬、大山くんは言葉に詰まった。迷い、それを断ち切るように一度、深呼吸。彼の息づかいが聞こえる。
「それから、僕のほうもまだ話してなかったことがある。もしかしたら結構驚く話かもしれないけど、落ち着いて聞いてほしい」
「うん、わかった」
そして、大山くんは大事な言葉を1つ1つ拾い集めながら、話し始めた。
「僕は、ずっと中里のことが気になっていた。あ、これは別に変な意味じゃなくて……ある程度の好感を持って、僕は中里のことを意識していたんだ」
「つまりそれって……私のこと、好きだったの?」
「まあ、厳密には中里Aのことだけど。だから本当に、僕らは同じだったんだよ。僕にとっても、中里は中里Aの代わりで、この現象の調査というのは口実でしかなかった。僕は純粋に、中里に会いたかった。そして、中里がもはや中里Aの代わりではないことに気づいた。お互いにとってこのままじゃいけないと思った僕は……中里を、突き放そうとした」
「そうだったんだ……」
次々に明かされていく、真相。驚きと同時に、それほどまでに私を想ってくれていた大山くんに、最大級の愛おしさを感じた。
「でも、どうしてまた会ってくれたの?」
「後悔したんだ。僕は、中里に対して冷徹になりきれなかった。資料室での別れ際、中里が叫んで僕を留めようとした。その瞬間の表情が焼き付いて離れなかった。……それから僕は自分を責めた。だから、もし出会えるなら、全てをちゃんと正直に話した上で謝ろうと思った。本当に今日、会えてよかった」
すると、大山くんは最敬礼の角度で頭を下げた。
「中里、ごめん! それから、こんな僕と出会ってくれてありがとう! 僕も、中里と過ごした日々は絶対に忘れない!」
初めて聞いたかも知れない、大山くんの叫び。真正面からぶつかってきたその言葉は私の心を震わせた。
「……大山くんって、意外と不器用なんだね」
「かもな。僕は、不器用だ」
「でも、そんな大山くんも、私は嫌いじゃないよ」
「そうか、嫌いじゃない、か。なんか照れくさいな……」
大山くんが、手を伸ばす。その伸ばした手は私の目の前、境界線からわずか数センチのところで止まる。決して触れることのできない、空間をなぞる。
「一度でいい、中里に触れてみたかった」
「それは、これからの楽しみに取っておきなよ。たぶんそっちの私も、大山くんのことを待ってるから」
「そうだな……僕も、頑張らないと」
伸ばしていた手を下げる。そして、改めて大山くんは宣言した。
「僕も、告白する。ちゃんと思いを伝える」
私も、続けて宣言する。ちゃんと、まっすぐに大山くんを見て。
「うん。私も告白する――」
「――大山Aくん……いや、大山純哉くんに告白する」
刹那、一気に空気が緊張した。
まるで見てはいいけないものを見てしまったかのように、大山くんの瞳が見開かれた。
「……今、なんて言った?」
一転して、張りつめた声。最初、それが大山くんの声だとは思えなかった。驚愕の色で塗りつぶされている。
「僕の名前は……大山純哉じゃない」
「え、ちょっと待って、それじゃあ、あなたは……?」
常識。固定観念。大前提。全てがひっくり返る。大山くんが、何を言っているのかわからない。そもそも、大山純哉でなければ――
「あなたは、誰?」
「……僕は、大山建哉。大山純哉は双子の弟で……小学校の頃、事故で死んでいる」
「そんな……」
こっちの世界と、向こうの世界。これまで調べてきた中でも、少なからずズレはあった。それが今、最も根底を揺るがす形で、現れた。
「なあ……何でもういない弟の名前を知っているんだ? そっちの世界に、弟がいるのか?」
そして、信じられない仮定が浮かび上がる。大山純哉は、双子の弟だった。境界線の向こう側では、大山純哉はいない。代わりにそこにいたのは、兄の大山建哉という別人。
「じゃあもしかして、君も違うのか?」
それをもし、私自身に当てはめたとしたら。
「君は――中里穂波じゃないのか?」
中里穂波。
その名前を聞いて、じっとしていられるわけがない。
「私、会わなきゃ……お姉ちゃんに会わなきゃ!」
私は、部室の扉に手をかけた。
「待て、中里!」
境界線を越えて、大山くんの声が響く。私の手がぴたりと止まる。
「……いや、止めようと思ったが、やめた。ただ1つだけ訊きたい。……君の名前、教えてほしい」
「私は、千波。中里千波」
「チナミ……」
大山くんが初めて、私の下の名前をつぶやく。大山くんが呼ぶ「チナミ」の響きは、まるで私の名前ではないような気がした。
「お姉ちゃんに会えたら、また大山くんと……いや、建哉くんと話がしたい。いいかな?」
「ああ、もちろん」
「よかった……それじゃ、またね」
それだけ言い残して、私は部室を出た。
そして、彼に会った。




