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僕は来た道を一目散に引き返した。少女の鋭い牙を紙一重で避け、転がるように自分の家に向かって走った。
けれど、走るのはそんなに得意ではない。足の遅い僕はすぐに追いつかれた。少女の小さな影がすぐ後ろに迫っていた。
そのとき、視界の端に井戸が見えた。僕は覚悟を決めてその中へと飛び込んだ。幸い、井戸の底には水が張っていた。実は三日ほど前に嵐が来て大雨が降った。洪水になりかけるほどだった。昨日は快晴であったけれど、それで井戸が干からびたりはしなかった。
また、僕は泳ぐのは得意なほうだった。長い時には2分くらい水の中に潜っていることができた。だから、水の底に沈んで様子をうかがった。彼女が井戸の底を覗き込んでいたとしても、僕が沈んだまま浮かんでこなかったら、死んだと判断してどこかに立ち去るかもしれない。彼女の目的は僕を殺すことのようだから。また、こんなに深い井戸に飛び込む勇気が彼女にあるかどうか。
ところが、予想外のことが起こった。水面で激しい水しぶきが起きた。少女までが井戸に飛び込んできたのだ。僕の考えを悟ったのだろうか。これではいよいよ逃げ場がない。
僕は井戸の底に沈んだまま、壁面を探る。どこかに抜け穴でもないかと。だが、古いが故の亀裂しかなく、人間が一人通れる穴はない。
ああ、おしまいだ。今にあの鋭い牙が僕に噛みつく。ところが、いつまで経っても少女が迫ってくる様子はない。
水面を見上げた。そこはバシャバシャと泡が立ち、いつまでも消えない。短い足が、水の中でやみくもに動いて、沈むまいとしている。やがて水しぶきが小さくなり、泡がひとつふたつと消えていく。脱力した黒い影がゆっくりと沈んでくるところだった。
僕は水面に顔を出し、息を吸った。少女を引き寄せると、肩に担ぎ、井戸の壁面の歪に爪をひっかけた。少女はぐったりとして動かなかった。
どうにか地上に上がる方法はないかと辺りを見回した。しかし、壁面にはロープもなければ、手をひっかける出っ張りもない。僕は改めて青ざめた。少女の追跡を回避したところで、僕が無事に家に帰れる保証はどこにもなかったのである。
「たすけてー! 誰かー!」
沈まないように必死に足をバタバタと動かす。声は内側に反響するばかりだった。夏の空は透き通って青い。しかし、井戸の底は暗くて寒々しい。じわじわと体温がなくなっていくようだ。どうしよう。このまま助けが来なかったら。
「誰かー! 誰か―! ……母さぁん」
叫び声は情けないすすり泣きに変わる。こんなときにならないと僕は命の大切さを実感しない。
そのとき、井戸の中がまた少し暗くなった。
「あたしンちの井戸でなにしてんのよ。あんたたち」
いつもぶっきらぼうで不愛想な近所の水使いのおばさんが、不機嫌そうな顔でこちらを覗き込んでいた。