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月の子




 なかむらくん、


 いつも以上に、藤代くんの呼ぶ「仲村くん」がやわらかかった。少し艶めかしいくらいに。


 目の奥がずきずきして、瞼が思うように開かない。やっと開くと今度は日差しが眩しくて、体を起こすのにも時間がかかった。


「おはよ。」

 見覚えのある彼に、見覚えのある部屋。

 しかし彼とこの部屋の組み合わせは、初めてだ。どうやら僕が一夜を明かしたのは叔父のベッドらしい。


「これ、文也さんが飲ませてこいってさ、」

 藤代くんが差し出してきたのは、荒く絞られたフルーツジュースだった。林檎の繊維がまだ残っていて、グレープフルーツの酸味と苦味が強い。

 お陰で目が覚めて、それとなく昨夜の記憶がよみがえってきた。






 週末の仕事終わり、久しぶりに実家に呼び出された僕は、年甲斐にもなく母から説教を喰らい、その後やけになって慣れない飲み方をした。

 付き合ってくれた相手が藤代くんだったこともあり、すっかり心弛みしてしまい、気付けば彼の肩を借りて歩いていた。


 迷惑な酔っ払いとなった僕は、自分のマンションでも実家でもなく、無意識に叔父の家に彼を案内してしまったらしい。終電を逃した後だったから、そこしか選択肢が無かったのかもしれない。



「夜分晩くにすみません。君依くんのご家族の方ですか?」

 僕を抱えながら、玄関先で藤代くんがそんなことを言っていた。


「ああ。見間違えでなければ、こいつは俺の甥だな、」

 酔い潰れた僕を眺めて、文也兄さんは言った。


 記憶が確かなら僕はこのとき、妙に愉快な気分になっていて、眺める兄さんと目が合うなりへらっと笑って、ピースサインを向けていたような気がする。



「見間違いじゃなくても、あなたの甥御さんみたいですね。」

 藤代くんと文也兄さんは同時に笑っていた。







「ごめん、まったく憶えてない。」

 ばつが悪いもんで嘘をついた。二人は口々に、いかに面白い状態だったかを報せてくる。


 もういいよ、わかったから。開き直る僕にまた二人は笑った。

 自分で招いた状況とはいえまさかこの三人で、文也兄さん宅の食卓を囲む日がくるとは思わなかった。初めての集いとは思えないくらい、場の空気が軽い。


 食後のコーヒーが済むころ、藤代くんは文也兄さんに礼を言って席を立った。


「もう帰るのか、」

「お店に車置いたままなので、取りにいかないとなんです。晩くにお邪魔したのに、ご親切にありがとうございました。」

「いやいや、こっちこそ、こいつが迷惑かけたな。」

 僕の頭をぐりぐり撫でまわしながら、兄さんは言う。



「あの、」


 藤代くんは玄関で何かを言いかけたようだったけど、すぐにいつもの表情で、品の良いお辞儀を残して出て行った。


「育ちの良さそうな友達だな。本当におまえと同学年か?」

「留年してるから一学年下。あと、三月生まれだからほとんど一歳(いっこ)下だよ。」

「余計に切ないな。」

「余計なお世話だよ。」


 せっかくの休日だったけれど、癪なのでもう少し居座ってやることにした。りたちゃんは明日まで出張だし、特に予定も無い。







 りたちゃんと暮らし始めて、もう三年半が過ぎる。


 笑美子さんが亡くなってから三ヶ月後、僕は今まであまり手をつけていなかった貯金と、短期アルバイトで稼いだ資金で、りたちゃんと新居に引っ越した。

 家財は彼女が使っていたものがあったし、引っ越しの繁忙期もすぎたあたりだったので、初期費用はだいぶ抑えられたけど、一つだけ、大きな家具を買った。

 大人用の二段ベッドだ。


「一人一部屋もいらない。」


 僕が口に出さず考えていたことを、まさか先に言われるとは思わなかった。

「でも、寝る部屋とは別にソファとテレビを置く空間が欲しい。」

 それも丸々、僕が考えていたことだった。


「でもさすがに、同じベッドっていうのは、ちょっと……ね。今までみたいに、片方は布団敷く?」

「スペース、勿体ないじゃない。」


 色々話し合った末の結果が二段ベッドだった。

 僕が下段で、りたちゃんが上段。ちょっと改造して、カーテンもつけた。僕らにはこの秘密基地のような、最低限のプライベート空間がちょうどよかった。



「あまり分けると、意識しちゃうから。」


 僕らは相変わらず、名前のわからない関係を続けている。

 血の繋がりも無く、付き合いも浅い同世代の若い男女が、一度も肉体関係を持たないまま暮らす。しかもそれが苦じゃない。ブラジャーもつけずシャツとパンツ姿でくつろぐりたちゃんに何も反応しなかったとき、さすがに自分が異常(おか)しいのではと危惧した。


 大学三年生の終わりごろ、気紛れに参加した合コンで、試すように女の子と寝てみた。りたちゃんとは違う女くさい女の子だった。初めてのセックスは、まあ、よかった。オナニーの別パターンのような感じで。でもまたしたいとは思えなくて、二度目は起こさなかった。風俗にも行ってみた。感想は同じく、まあ良い。でも、たまにでいいや。


「いよいよ、恋人作れなくなるな、」

 文也兄さんは冗談めかして笑う。


「恋人、いらないよ。」

 りたちゃんがいるから。自分でも怖いくらい真摯に言ってしまった。



 もし『恋人』の条件が、すごく大切で大事にしたくて、色々な所に遊びに行ったり、喋らなくても一緒に居るのが苦じゃない相手を指すのなら、僕にとって一番近いのはりたちゃんだ。

 でもそこに、キスやセックスも条件に入るとすれば、りたちゃんは違う。

 触れ合うのは平気だけど、抱きたいとは思わない。りたちゃんだって僕を恋人だなんて見ていないだろう。


 その名前のわからない関係は心地良い。名前のわからない関係を維持したいから、意識したくなかった。

 りたちゃんが女で僕が男だということ。

 構造上、肉体関係のもてる体をしているということ。


 しかし、僕がどんなに心地良くても、りたちゃんはどうなのだろう。



「彼女さんの荷物になってるんじゃないの、」

 昨夜母に言われたのはこれだ。


 何度か否定はしているけれど、母から見ればりたちゃんは僕の『彼女』らしい。

 母は案外、会ったことも無いりたちゃんに好意的だった。だからこそ、言及されたことだ。



 りたちゃんは大学三年生の冬にはもう、外資系企業の内定をもらい、就職活動を終えていた。その優秀な情報のお陰で、母は寛大になっていたのだ。


 一方の僕は、いくつかの中小企業から「お祈り申し上げられた」のち、大学四年生の初夏に、ようやく小さな法律事務所の事務員として内定をもらった。

 仕事だからそりゃ大変なこともあるけれど、所長を始め穏やかな人に恵まれたため、こんな僕でも働きやすく、他の社会人に比べればストレスの少ない職場だ。土日祝は絶対休みだし、朝はのんびり出社して、たいてい定時にはあがれる。


 しかし当然のことながら、安月給だった。りたちゃんの給料の半分にも満たない。


「女の子におんぶに抱っこなんて、恥ずかしくないの、」

 最初こそ将来有望な『彼女』との関係を、温かいまなざしで見守っていた母だったが、比べてあまりにも不甲斐ない僕との差に、見るに堪えなくなってしまったらしい。

 たしかに僕のやっていることなんて、大卒の男がやるには易しすぎる仕事だ。


 母の言葉は半分、突き刺さった。



「キミはあたしのごはん作らないとなんだから、休みが多くて定時にあがれるなんておいしい話よ。」

 内定の返事に迷う僕に、りたちゃんが後押しした言葉だ。


 忙しいりたちゃんに代わり、家事全般を担うのは平気だったし、やりがいもあった。自分の、男としてのプライドにも、まったく、と言ったら嘘になるが多少は目を瞑れた。



 痛かったのは、りたちゃんを縛りつけているかもしれないということだ。

 母の言うとおり、結局僕はりたちゃんにおんぶに抱っこで、彼女の荷物でしかない。



 揃って社会人になった際、りたちゃんはあるルールを提示した。

 生活費は極力彼女の稼ぎからまかない、僕の給料はできるだけ貯金にまわそう、と。

 おかげさまで、僕の預貯金には初任給から最近の給料が、ほぼ全額貯まっている。


 もしかしたらりたちゃんは、僕がいつでも同居をやめられるように、逃げ道を用意してくれているのではないのだろうか。

 僕が安月給でもすぐに一人でやっていけるよう、資金を貯めてくれているのではないだろうか。

 僕が解消したいと一言発すれば、即了承してしまうのでないだろうか。


 僕がどんなに心地良いこの関係も、彼女にとってはそうでもないのかもしれない。







 日曜の午後、りたちゃんは帰ってきた。


「見どころはガラス床くらいね、スカイウォーク。」

 上海出張の感想を聞くと、簡潔に返ってきた。あまり意気揚々と話さないのは彼女の優しさだろうかと勘付いたのは、つい最近のことだ。

「夕飯、なに?」

 昼もすぎたばかりなのに、こんなことを聞く。おばあちゃんじゃないんだから。僕が笑うと、りたちゃんはその場で着替えながら言い返してきた。


「家のごはんが一番ってこと、」

 「キミの作った」と言わないあたり、かわいい。


「リクエスト応えるよ。一緒に買い物行こうか、」

 脱ぎ捨てたシャツを受け取りながら提案すると、りたちゃんはそそくさとジーパンを履いた。




 社会人になる手前で、りたちゃんはあの派手な恰好をやめた。

 過剰な露出は控え、偽物の睫毛を外し、髪の色も濃くして、最近では背丈以外、更にりささんそっくりになってきた。本人に言ったら怒られるから口には出さないけれど。

 そのりささん関連についても、りたちゃんは幾分丸くなった。


「距離がちょうどよくなったの。」


 りささんに子供が産まれ、りたちゃんが社会人になり、それぞれの型にはまったのでむやみやたらに跳ね除ける必要は無くなった、それが言い分だった。

 仲良し姉妹、とまではいかないけれど、一応年末年始の挨拶くらいは交わすまでに関係が修復した裏に、月乃さんの介入があったのはいうまでもない。


 僕も僕で、月乃さんとそこそこ親しくなった。


「お姉ちゃんと妹なんだもん。仲良いほうが嬉しいよ。」

 怒られるかもしれないけれど二人で会うこともあった。もちろん疾しいことは無い。


「わたしね、りたも、りさちゃんも大好きなの。」


 不思議なことに妙に馬が合ったのだ。

 藤代くんは酷評したけれど、月乃さんと藤代くんは相通ずるものがある。



「りたをよろしくね、仲村くん。」

 仲村くん、の呼びかたが藤代くんと同じだったのだ。



 話す内容はたいてい、りたちゃんのことか彼女の旦那さんことばかりで、深刻な相談などは無く、のほほんとした近況報告が主だった。

 想像どおり、月乃さんは前向きで、ひとの悪口なんか絶対言わない女性だった。



 ろくな女じゃないよ、彼女。



 藤代くんが何を意図したかはわからないけれど、あのときの彼を思い出すたび僕は、彼は女の子に厳しいから、と適当に解釈するものだった。







「もう寝るの?」

 明日は代休にも関わらず、りたちゃんは僕と同じタイミングでベッドに上がった。

「起きててもすることないし。」

 仕事帰りならともかく、りたちゃんは出張後、疲れたという言葉は絶対使わない。これも優しさなのかな。僕に気を遣っているのかな。少し考えたけど、やめた。


「ねえ、りたちゃん、」

 灯りを消して、下段で寝転びながら、上段で寝る彼女を呼ぶ。

「なに、」

 まだ寝てないみたいだ。


「犬、飼わない?」

「なに、突然。」

「テレビみてたら欲しくなっちゃたんだ。一応ここ、ペット大丈夫だし。」

「欲しくなっちゃったで飼うもんじゃないわよ、生き物なんて。」


 受け答えの様子から、睡魔は強くないらしい。僕は調子に乗って話を続けた。


「飼うとしたら日本犬がいいな。それか日本犬の入った雑種。顔が好きなんだ。」

「わかる。小型犬って、犬って感じしないわよね。」


 もう少し、喋っててもいいかな。


「でも現実的に考えると小型犬になっちゃうのかな。もういっそ猫にするとか。雄と雌ってどっちが飼いやすいんだろ。あ、つけたい名前とか、ある?」

「キミ、」


 声を整えて、りたちゃんは話を遮った。

 カーテンを捲ると、りたちゃんもカーテン捲って顔を出し、見おろしている。

「どうしたの?」

 やわらかく、首を傾げてくれた。



 どうもしないよ。一旦は強がった。でも、すぐにだめになって、懇願した。



「……こっち、きて、くれる、」



 りたちゃんはなんの抵抗感もみせず梯子を降り、隣にごろんと寝転んだ。


 近距離で向き合う彼女の髪と頬に、そっと触れてみた。


「あたし、男には抱かれないわよ。」

「僕も、りたちゃんは抱けそうにない。」

 懐かしい掛け合いに、お互い吹き出した。


「昔も言ったね、これ。」

「昔じゃないわ。三年と七ヶ月前。」


 昔だよ充分。

 二段ベッドの下の段、カーテンで囲われた小さな密室に、くくくとひそめた笑い声が響く。


 手は頬に触れたまま、足首が勝手にりたちゃんの脚に軽く絡まった。

 りたちゃんはやはり、抵抗も動揺もみせない。


「へんなの。……僕たちさ、しないけど構造上はできるんだよね、セックス。」

 へんなの。僕は繰り返した。


「構造上、が男女を意味してるなら大間違いよ。男と男でも、女と女でもセックスくらいできるわ。快楽に着眼した時点で、人間のセックスは成立するんだから。」


 そうじゃなくて、生物として、このままセックスしたら、子供が作れるんだよね。うまくできず下世話になった説明に、りたちゃんは少し不機嫌になった。


「作れる保証なんて無いわ。気安く言うもんじゃないわよ、そう言うの。」


 久しぶりの目つきで睨まれた。思わず手が離れる。


「月乃ね、なかなかできないんだって、赤ちゃん。珍しく、けっこう参ってた。」

 りたちゃんは今でも、月乃さんのこととなると目の色を変える。

 僕が無神経に口にした下世話は禁忌だったらしく、りたちゃんは暫し不機嫌に黙りこんだ。


「……ごめん、軽率だった。」

 びくびくと謝りながらももう一度頬に手を伸ばすと、意外なことにあっさり触らせてくれた。頬と髪と、調子に乗って頭も撫でまわす。


「あたし、性格悪いの。」

 不機嫌の延長とは別の(かげ)りをみせて、りたちゃんは呟いた。


「月乃からそれ、聞かされて、安心しちゃった。嬉しい、って思ったのかもしれない。」


 本当、嫌な奴よね、あたし。撫でまわす僕の手を摑まえて、沈むように言った。

「りたちゃんは優しいよ、」

 今度は軽率なつもりはない。でも、慰めているつもりもない。

 たぶん、がっかり、に近い思いをこめて、僕は続けた。


「大丈夫。月乃さんには可愛い赤ちゃんができるし、そのとき、りたちゃんはきっと喜べるよ。りたちゃんは、優しいから。」

 りたちゃんは優しいよ。……ほんとう、本当に。



「僕のことだって、」


 少し間を置いて、続けた。


「こんな僕を、見放さないでいてくれてるじゃないか。それなのに、いつでも自由にさせようともしてる。僕が何を選んでもどう転んでも、大丈夫なのように、逃げ道、作ってくれている、よね、」


 がっかりしながらひと息に伝えた。



「キミ頭悪すぎ。」


 懐かしい冷たい語調が僕の言葉をばっさり斬った。



「あたし、あんたに逃げ道なんて作ってない。逃がす気なんて無い。」


 摑まえた手を強く握って、じっとを見据えた。

 嘘の色が見当たらない眸にたじろぎながら僕は、じゃあなんで僕の稼ぎに一切手を出さないのか、自分ばかり損をするやりかたをするのか、問いただした。


「ああしておけば、キミの性格上、うしろめたくて同棲解消なんて言い出せないでしょ。絶対逃がしてなんかやんないんだから。」


 横柄に言い張られたその刹那、体じゅうに重く圧し掛かっていた不安や恐怖が消えて、同時に、自制の利かない腕が、りたちゃんを抱きしめていた。



「逃げたい?」

 僕の震えが止まるのを見計らって、りたちゃんは尋ねてきた。



「……ううん。ここに、置いてくれる?」

「あたし、あんたの子、産まないわよ。」

「うん。」

「セックス、しないわよ。」

「うん。」


 AVと風俗くらいなら大目にみてくれるのかな。大真面目な問いに、りたちゃんは「相談する相手考えなさいよ、」と、脚を蹴ってきた。


「キミってほんとう、本物なんだから。」

 ゆるく密着したまま睡魔を待った。



 心地いい。心地良すぎて眠ってしまうのがもったいない。

 りたちゃんに触れながら、過去に寝てみた女の子や風俗の女の人を想像してみた。全然違う。やはり僕はりたちゃんを抱けそうにない。

 強がりか嘘なのかと疑ったけれど、残念なことに本音だった。実際、女を抱くようになって確信が持てた。


 僕はこの子を手放したくない。


「ばか。……なんで、あたしにしたのよ、」

 眠ったと思っていたりたちゃんが、声をおとした。



「あたしなんて……選んだのよ……」



 本当だ。たしかにこれはきついや。

 頭のなかで文也兄さんに同情して、ついでに笑美子さんをちょっと責めた。



 名前、何にしよっか、犬。

 …………文遠。

 ぶんえん? なんか強そう。

 強いわよ。中国の武将。

 小型犬にはつけられないなあ。



 逸らした話でまた、小さな密室に、くくくとひそめた笑い声が響く。






 それから一年くらい経ってから、新しい家族、文遠はやってきた。

 妹の伝手で譲り受けた仔犬で、おそらく柴犬が混ざっている、僕好みの顔をした黒い雑種犬だ。親犬から察するにあまり大きくならないからマンション飼いにはうってつけらしい。


 僕らが文遠を迎えてから程なくして、月乃さんにも新しい命が宿った。

 結婚五年目、待望の第一子に月乃さんは勿論、りささんも、僕も、そしてりたちゃんも大いに喜んだ。




 なにもかも幸せなはずだった。




 月乃さんが、名塚月乃容疑者として報道されたのは、それから数ヶ月後のことだった。



 身重(みおも)の妻が起こした夫への刺殺事件は、世間の関心をひきつけ、渦中の妻……月乃さんは獄中出産直後、助産師から盗んだボールペンで喉を一突きして、自ら命を絶った。


 『仲の良い夫婦に一体何が』『幸せの絶頂での悲劇』『殺人妊婦の闇』……トップニュースや週刊誌は様々なフレーズで事を煽ぐ。

 無理もない。一連の経緯だけでも衝撃的なものなのに、加えて月乃さんの並外れた美貌が話題を呼び、報道を過熱させていた。


 月乃さんの葬儀は、親族の意向から営まれなかった。

 親族といっても、彼女にはもう実家が無いので、つまりご主人側の親族……いってしまえば被害者遺族だ。

 月乃さんは世間からも、親族であるはずの人たちからも、僕らの知る彼女とはまったくの違う、殺人犯という烙印を残して、僕らの前から消えた。



 りたちゃんは、信じられないくらい、冷静だった。

 しずかに、しずかに、壊れた。



 頭に、目に、耳に、報道を入れないよう、仕事に没頭したのだ。

 それまでよりも多く海外出張に出向くようになったし、家ではニュースやパソコンも観なくなって、文遠と戯れて遊ぶことが増えた。


 そしてベッドの上段で寝ず、僕と身を寄せ合って夜が明けるのを待つようになった。




「………キミ、居る?」



 寝言か、確認か、夜中に何度も呟く彼女に、僕は決まって、いるよ。と、彼女の肩や背中や時々頭を軽く叩きながら、自分の存在を報せた。


 月乃さんの名前は絶対口にしなかった。

 月乃さんのために流す涙も、嘆く声も無かった。

 まるで、名塚月乃なんて人間は、最初から存在しなかったかのように。




 ベッドの上段にあった毛布は常に畳まれ、枕が下段に移り、封印でもされたかのようにカーテンは閉めっぱなしになった。



 僕らの境界は、完全に消えた。

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