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トワイライト




「笑美子叔母さんには、お世話になったでしょう、」

 出掛けだというのに、母はまだ粘っている。だんだん声も荒々しくなってきた。


 母の怒りの原因は、葬儀の出席を頑なに拒む妹の依世(いよ)だ。

 ついに父が割って入り、「仲良くしてもらったからこそだろう、」と母を宥めた。



 僕は口出しすることも、妹を説得することも無く、そんな光景をただぼんやりと眺めていた。








 二ヶ月前、笑美子さんが倒れたと一報を受け、病院へ向かった。


「よお、君依、」「あら、君依くん、」

 夫婦はほぼ同時に僕を呼んで、迎え入れた。


 嫌な予感に反し、病室で叔父夫婦はいつものように談笑していた。笑美子さんは点滴を射していたけれど、ちゃんと笑っていて、文也兄さんは相変わらず妻を甘やかし、林檎を兎のかたちに剥いている。

「あの……具合は、」

 呆気にとられた末、やっとでた質問だった。


「ぜーんぜん大したことないの。心配かけてごめんなさいね。」


 笑美子さんは眉を八の字に笑いながら、あざとく手のひらを合わせる。


「姉さんは大袈裟だからなあ、」

 続けて兄さんも参ったようにへらっと笑い、剥いたばかりの林檎兎を差し出し、「食うか?」なんて勧めてきた。


 ほんの少しだけ、三人で喋った。

 僕の近況とかテレビの話とか、普段家で話してるような内容ばかりだった。

 なんでほんの少しだけだったかというと、笑美子さんが文也兄さんに帰るよう促したからだ。


「明日は一人で起きなきゃなんだから、早く寝るのよ? 私なら、大丈夫だから。」


 文也兄さんは家まで送ると言って車に乗せてくれた。

 車内でも彼はいつもどおりだった。僕がりたちゃんと仲直りして以来、また色々根掘り葉掘り聞いてくるようになっていて、この日もまさしくそんな話の流れが始まった。



「兄さん。本当のこと、教えて、」


 もういいだろうと、流れを遮った。



「笑美子さん、どういう病気なの?」



 伊達に弟分を二十年もやっていない。甥をなめないでほしい。

 彼女のことなら、僕だってずっと見てきたんだ。

 憤りにも似た感情に不安を混ぜ込んで、叔父に詰め寄った。



「……依世には、余計なこと、言うなよ、」


 文也兄さんは、此方を向こうとしなかった。






 病気のことは詳しくは教えてくれなかった。

 ただ判るのは、著しくないということ。家にはしばらく戻れそうにないということだ。


 どうして、こんな急に。最初はそう思った。

 でも、もしかしたら叔父夫婦がうまく隠していただけで、前々から何かあったのかもしれない。そう考えると、今回二人が僕に隠し通そうとした件については、責められないなと反省した。


 仕事が終わってすぐに、笑美子さんのもとへ向かうのが、兄さんの日課になった。

 週末になると病室に泊まった。兄さんが居る時を狙って、僕もちょくちょく足を運んだ。二人の邪魔をするのは気が引けたけど、笑美子さんと二人きりで会うのは、この期に及んで、まだ怖かった。



「ふたりきりになるべきよ。」

 ペディキュアを塗る手を止めて、りたちゃんは見据えてきた。



 いつもの何気ない時間をすごすなかで、何気なく笑美子さんのことを話したら、思いのほか食いついてきたのだ。


「キミ、好きなのよ、叔母さんのこと。」

 りたちゃんは簡潔に言う。


「昔の話だよ。もう結婚してるし、すごい年上だし、それに、叔母さん、だし。」

「じゃあ、月乃が好きなあたしの立場はどうなんのよ。」

 だらだらと濁す僕に、りたちゃんは率直な言葉をぶつけてきた。

 ご、ごめん。ソファの上で正座になって、謝罪した。


「あたし、りさが婚約したとき、一時期だけど月乃と関係断ったの。一方的に。」


 唐突なりたちゃんの過去を、正座したまま聞いた。


 月乃さんは永年の片想いを、りたちゃんとりささんだけに打ち明けていた。にも関わらず、りささんと彼の婚約は決まり、りたちゃんは月乃さんに合わせる顔が無くなったのだという。


 学校も連絡先も変え、次に再会したのは、高校を卒業したあとだった。


「本当、お人好しよね。あの子、なんにも変わってなかったの。」


 月乃さんはりささんとのことも、関係を断ったことも一切咎めなかった。恨み節のひとつくらいあっても良かったのに、と、りたちゃんは申し訳なさそうに苦笑をこぼした。


 月乃さんは、りたちゃんの大好きな月乃さんのままだった。

 しかし再会したときにはすでに、彼女はりたちゃんの知らない誰かと婚約をしていた。



「後悔したわ、すごく。あたしの気持ちなんてさ、もともと成就しないって割り切ってたんだけど、なんで関係断っていたんだろう、って。報われないってわかってても、堂々とあの子を好きでいられる時間、無駄にしたんだなって。あたしが捨てた時間があれば、あの子に気持ち伝えるチャンスだってあったかもしれないじゃない。」


「チャンスがあったとして、気持ち伝えて、本当に関係が壊れたら、どうするの?」


 屁理屈をこねるように僕は聞いた。


「そんなのそのとき考えるわよ。あたしは、「そのとき」さえ捨てちゃったんだもの。」

 意外にも冷静に、怒ることなくりたちゃんは答えた。



「だけど、キミにはまだ、時間が残っているじゃない。」



 残された時間、僕は何をするべきなんだろう。


 答えを求める前に、りたちゃんはくしゃりと、髪を撫でてきた。ペットを扱うような手つきにそれこそ僕は犬みたく、余計なことは慎んだ。








 病院には、次の日、行った。


 りたちゃんの勧告どおり一人で行った。

 僕の訪問に笑美子さんは、当然後ろから夫も現れるものと思っていたのか、不思議な顔で首をかしげた。


「すみません。今日は、僕だけです。」


 聞いた瞬間はきょとんとしていたが、やがてぱっと笑って、

「どうして謝るの、」と、親しんできた。


「……笑美子さんと、話がしたくて。」

 彼女から目を逸らさぬよう、頑張った。



「笑美子さんの話、聞かせて下さい。」



 なんでもいいんです。寝る前の、絵本をせがむこどものように、僕は懇願した。



「そうねえ、じゃあ……」

 笑美子さんは手のひらを合わせて、ゆっくりと話し始めた。




 可愛くないこどもだったの。こどもって言っても、中高生くらいのころだけど。

 笑美子さんは言う。

 努力とか嫌いでね、一生懸命がかっこうわるいって思っちゃうタイプ。きらきらした人なんて、ださいって思ってたわ。今の彼女からは想像できなかった。


「いつから、そんなに笑えるようになったんですか?」僕は時折、質問も挟んだ。


 心当たりがあるとしたら、お姉ちゃんの結婚かな。

 お姉ちゃんの彼ね、小学校の先生で優しくて真面目で、でもユーモアもあって、仕事にも生徒にも真剣に向き合う、みたいな、私の大っ嫌いなタイプだったの。ドラマや漫画じゃあるまいしって、気持ち悪かったの。


「可愛くないっていうより、へそ曲がりですね。」


 本当にそれ。でもね、その彼、私に本性みせてくれたわ。

 私が思っているよりずっとずっと性格悪いんだよって、笑ったの。自分とお姉ちゃんのためなら、いくらだって騙し切るんだって。嘘つくのだって平気だって。それが羨ましかったのよね、私。




 笑美子さんは少女時代の話が済むと、続けて文也兄さんとの思い出を話し始めた。


 内容は、いつか兄さんに聞いたものとほとんど同じだった。

 笑美子さんは文也兄さんが大学時代に、アルバイトしていたカフェでの、年下の先輩。

 兄さんの就職が決まり、勤務最終日に笑美子さんから告白して、付き合うことになった。



「恋人には、ならないつもりだったの。」



 笑美子さんは伏し目がちに言った。

 伝えるだけで満足だったこと。交際どころか、結婚なんて夢のまた夢なのだと、常日頃から自身に教え諭していたこと。独り言に近い口調で、笑美子さんは続けた。


「どうして、私なんかと結婚しちゃったのかしら、あの人、」

 声はもう完全に独り言だった。僕は黙って、彼女をみつめていた。



「文也くんね、私が子供産めないって知ってたの。」



 以前叔父から聞いた、新婚当初、夜が来ると泣きじゃくっていたという彼女の姿が容易に目に浮かび、重くのしかかった。



 結婚できたときね、自分はたまたま運が良くて、優しい人に巡り合えて、ひとより幸せに恵まれたんだってくらいにしか思わなかったの。でも、だめね、私。少し考えればわかることだったのに。視線と笑顔を戻した笑美子さんは、ひといきに喋った。



「私、文也くんを独りにしちゃうのね。」



 笑顔のままの笑美子さんから、涙が一滴落ちて、シーツにじんわりと染みた。



「何も、遺せないくせに、文也くんの人生を好き勝手しちゃった。私なんかと結婚して、外れくじ、引かせちゃって。せめて今度は、自由にしてあげたいわ。」



 俯く笑顔から、水滴はぽとりぽとりと音も無く落ちる。

 点滴を射す腕は細く白くて、手首には青い血管が浮き出ている。髪の艶はほとんど無かった。

 涙のせいか、また別の理由からか声もか細い。



 キミにはまだ、時間が残っているじゃない。

 りたちゃんの声を心で唱えて、自分を押した。



「……僕は、文也兄さんが、羨ましかったです、」


 残された時間は短い。


「笑美子さんが奥さんで……羨ましかったです。」


 伝えるんだ。


「兄さんだけじゃない、です。依世が、笑美子さんと出掛けたり……羨ましかったんです……本当は。」



 ちゃんと声を出して、彼女を見て。へたくそで、いいから。



「もし笑美子さんが、兄さんに、申し訳ないって、思うなら……今度は自由にしてあげるんだって、言うなら、そのときは、」



 キミ、好きなのよ、叔母さんのこと。

 頭のなかで、りたちゃんが言う。




「今度は、僕と結婚してください。」



 俯く彼女に、僕は跪いた。






 僕は本当にこの人が好きだった。


 十一年前、彼女は僕の前に現れた。

 真白いワンピース姿に、肩まで伸びたふわふわの髪。ほんのり朱色の頬と唇。兄のように慕う叔父の隣で、僕に「初めまして。」と微笑んでくれた。

 特別美人なひとじゃない。でも、この人の笑顔が好きだった。


 思えば、こどもみたいなひとだった。

 小学生だった僕と同じアニメで笑っていたし、叔父や妹と四人で外食するときは、僕や妹と一緒になってデザートをねだっていた。デザートはいつも僕らと違う物を注文して、一口ずつ交換するのが恒例だった。

 一緒にテレビゲームもした。小学生の僕に勝てば本気ではしゃいで、負けると悔しそうに「もう一回」と何度でも挑んできた。



 中学生になる手前で、彼女と叔父の関係が理解できた。



 それからしばらくして彼女は僕の叔母になった。


 僕はだんだんアニメを見なくなって、ゲームも一人用の小難しいものを好むようになって、デザートの一口交換なんてとても出来なくなっていた。同じスプーンを使うのに抵抗があったんだ。


 高校生になるころには、彼女と妹が出掛けるのを見送るだけの立場になっていたし、誘われたとしても何かと理由をつけて断っていた。


 大学生になるころには、敬語で接するようになった。

 叔父夫婦の家に訪れる際は彼女のいない時間帯か、必ず叔父の在宅中を狙うようになった。彼女と、距離をとった。




 笑美子さんってさ、文也兄さん、大好きですよね。




「ええ、大好きよ。私と結婚してくれたんだもの。」




 彼女を避け続けても逃げ切れなかったあの日は、

 僕と彼女の、最後のデートとなった。







 冬の真ん中で、笑美子さんは死んだ。


 結婚六年、出逢って十二年。一緒にいるには短くて、失うには永すぎる夫婦の時間だったと思う。


 結局妹は笑美子さんの葬儀に出なかった。母さんは怒っていたけれど、僕には妹の気持ちがわかる気がした。

 笑美子さんの葬儀ではたくさんの人が泣いた。

 通夜でも、告別式でも、出棺のときも、常に涙の音が鳴り続けるその空間は、彼女の死を知らしめる残酷さで満ちていたからだ。妹はこの空間に踏み入りたくなかったのだろう。


 多くの哀悼のなか、文也兄さんは一度も泣かなかった。

 通夜でも、告別式でも、そして出棺のときも、もう動かない妻を前に、一滴の涙も流さなかった。



 僕は、泣いた。

 我慢していたけど泣いた。

 その場にいる誰よりも声をあげて、もう動かない笑美子さんにすがりついて泣いた。



 嫌だ

 燃やさないで

 笑美子さんを燃やさないで



 いやだ笑美子さん。いなくなっちゃ嫌だ。死ぬなんて嫌だ。いなくならないで。もっと一緒にいたかった。


 僕も動物園に、水族館に遊園地に連れて行ってよ。

 ただの買い物でもいい。近所のスーパーでもコンビニでもいい。

 もう意地張らないから、僕も一緒に連れて行ってよ。


 文也兄さんのばか。

 なんで泣かないんだよ。

 どうして。悲しくないのかよ。愛していたんじゃないのかよ。


 あんなに仲良かったくせに、甘やかしていたくせに、猫可愛がりしてたくせに、大好きだったくせに。僕の欲しかったもの独り占めにして、無くしたくせに。どうして泣かないんだよ。



 文也兄さんの、ひとでなし。




 僕は泣いた。

 その場にいる誰よりも、文也兄さんの分も、声をあげて泣き崩れた。








「来てたんだ、」


 灯りも点けず、ベッドの隅で蹲っている僕をみつけて、りたちゃんは声をかけた。

 僕は俯いたまま、愛媛のご当地キャラのぬいぐるみを握りしめ、蚊の鳴くような声で「おかえりなさい」を告げた。


 (へや)を暗くしたまま、りたちゃんは上着やバッグを片づけ始めた。


「……月乃さん、どうだった?」

「きれいだった。」

「月乃さん、美人だもんね。」

「でも前代未聞よ。ブーケ手渡してくる花嫁なんて。」


 顔をあげるとパーティドレスのままのりたちゃんが、小さな花束を持っていた。薄闇のなかでも目立つ白い花。名前は知らない。


「あたしの番なんて、回ってこないのに。」

 呆れた笑顔でりたちゃんは言う。


 最近は同性カップルでも式挙げられる場所、増えてるよ。りたちゃんの笑顔につられて笑うと、「そういう夢見がちなことはしないの。」と、おでこを弾かれた。


「式がどうこうの前に、まずは新しい恋探さなきゃだし。」


 隣に座って、りたちゃんは大袈裟なため息をつく。


「新しい恋って響き、りたちゃんに似合わないね。」

 もう一度、おでこを弾かれた。



 礼服のままの僕と、パーティドレスのままのりたちゃんは、暗い室のベッドの上で並んで座り、僕はぬいぐるみを、りたちゃんは花束をいじり、しばらくそのままでいた。



 月乃さんの次じゃ、ハードル高いね。ネクタイを緩めながら僕はからかった。

 ずっと同じハードルの前で立ってるあんたよりは、楽。りたちゃんはすぐに言い返してきて、やっとふたりで、ちゃんと笑った。



 ……ねえ、りたちゃん、



「一緒に暮らしてくれないかな、」



 ふつうに会話してるなかで、ふつうに聞いてみた。



「なにそれ。」

 りたちゃんは真に受けなかった。


「りたちゃんにごはん作るの、悪くなくて。」


 自分がどんな顔をしているかなんて、わからない。

 必死に笑っているつもりだったけど、出る声はどうしても水っ気を帯びていて、鼻を啜らずにはいられなくて、嗚咽も震えも出てきた。


 りたちゃんは両手で僕の頭を包んで、ペットを扱うような手つきでぐしゃぐしゃと、乱暴に撫でた。


「あたし、男には抱かれないわよ。」

「僕も、りたちゃんは抱けそうにない。」



 もう一度、ふたりでちゃんと、笑った。




 神楽坂は高くて住めないね。二人なら、もっと広くなきゃだし。

 あたし、トイレと風呂は別じゃないと絶対いや。

 どうせならペットも大丈夫なところにしよっか。



 礼服とパーティドレスのまま、暗い室でパソコンを開いて、新居について調べた。

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