結目
課せられたノルマのお陰で、夜中に何度もトイレに起きた。昨日あれだけ熟睡したのに、目覚めたのが十一時過ぎだったのは、そのせいだったのかもしれない。
寝転んだまま、スマホで時刻の確認をしていると、人の気配が近づいてきた。
「おはよ。具合はどうかな?」
体は昨夜よりずっと軽く、熱っぽさも少ない。しかし寝起きの意識は朦朧としていて、しかも眼鏡もみつからなくて、焦点の定まらない視線で人影を追った。
「りたちゃん…?」
違和感はあった。気配も声質も、いつものりたちゃんじゃない。
「りたならお買い物。すぐ戻るって。」
甘ったるい声がのんびりと彼女の名前を出した。
それじゃあ今、傍にいるこの声は誰なのだろう。
朦朧とした意識のせいか、警戒心がゆるんでいた。
「ちょっとごめんね、」
言うと同時に温かい手が僕の額に触れ、前髪をかきあげた。驚く間もなく声の主は、額に額をあてがってくる。裸眼とはいえこれだけ接近されれば顔も判る。
やっぱり、りたちゃんじゃない。
「よかったあ。熱、下がってるね。」
安心したように言うと、人影は眼鏡を手渡してくれた。
鮮明になった視界で見つけたのは、ものすごく可愛い女の人だった。
顔が小さくて、肌と髪がきれいで、ふわふわとした雰囲気の、とにかく透明感のある人。
思わずぽかんとしてしまった。
「月乃っ、」
部屋の入口で聞き覚えのある声をあげたのは、りたちゃんだった。コンビニの袋をひっさげて帰宅した彼女は、女の人に説教を始めた。
「あんたね、近づいちゃだめって言ったじゃない、」
「でも、お熱、計らないと、」
りたちゃんのお説教に、女の人はほんわかと対応する。
「体温計があんでしょ。なんでわざわざ不明確なやりかたすんのよ。それに近づくならマスクする。こいつは病原菌なのよ?」
ひどいや。相変わらずのりたちゃんからの扱いに、不覚にも意識はどんどんはっきりしてきた。彼女は本日も、乱暴に体温計を突っ込んでくる。
「りたあ、お友達にひどい。」
女の人はまたほんわかと、僕を庇ってくれた。
もっと言ってやってください。体温計を咥えながら心のなかで応戦を歓迎した。
いや、それよりもこの人は誰だろう。熱を計られたまま横目で女の人を眺めた。品の良い薄化粧に、ピンクの唇と大きな瞳。やっぱり可愛い。
「キミ、悪い癖、出てる。」
厳しい指摘に視線を戻すと、りたちゃんがじとっと睨んでいた。
計り終えた体温は三十七度弱。結果を確認するなりりたちゃんは新しいスウェットを寄越して、シャワーを使ってこいと命令した。スウェットは卸したてで、一緒に新品のトランクスも入っていた。
二日ぶりのシャワーは気持ちよかった。爽快な気分で部屋に戻ると、りたちゃんと女の人は上着を羽織っていて、明らかに外出の準備をしていた。
「留守番、頼んだわよ。夕方には帰るわ。冷蔵庫の中は好きに食べていいから。」
留守番……って。出掛けるならおいとますると伝えたところ、
「病み上がりが何言ってんのよ。もう一日、おとなしくしてるの。どうしても暇ってんなら、洗濯しといて。」
あっさり却下された。
「あの、」
出掛ける間際、りたちゃんがブーツを履き終えるのを待ちながら、女の人は僕に向けて声をかけてくれた。
「ケーキとチョコレート、おいしかったです。ごちそうさま。」
甘い声でふわふわとした笑顔のお礼に、またぽかんとしてしまった。
彼女の鞄に、りたちゃんと同じドラえもんがいたと気づくのに遅れたのは、そのせいだ。
ドアが閉まる寸前で確認できたドラえもんは、Apr.10と刺繍されたハートを抱えていた。
間違いない。りたちゃんが「つきの」と呼ぶこの人が、例の友人だ。
気づかれないようにベランダから、出掛けてゆく二人を眺めた。
ふわふわと笑う「つきの」さんの隣で、りたちゃんが笑っている。彼女が、蕾の綻ぶようなしぐさで笑顔をこぼした瞬間、僕は想像よりもずっとずっと耐え難い敗北感に陥った。
りたちゃん、あんな表情するんだ。あんな気さくに喋られるんだ。
収拾がつかない正体不明の感情は、冷蔵庫のなかにずらりと並ぶ大量のカフェオレを見た瞬間、跡形も無くふっ飛んだ。
テレビを観て本を読んでスマホをいじって、またテレビを観て、いよいよやることが無くなった。
昨日から一転、寝すぎて眠気が湧かない。今朝のやりとりどおり、本当に洗濯をした。
部屋着と靴下とパンツとブラジャーを干す。任せたりたちゃんもりたちゃんだが、平気で触る僕も大概だ。文也兄さんも平気そうだな、こういうの。笑美子さんのパンツやブラジャーを干す叔父の姿はすんなりと想像できた。同時に、これが笑美子さんのだったら、なんて考えると、背中から首筋辺りがぞわりとした。
そういう点ではやはりまだ、僕にとって笑美子さんは特別な存在で、りたちゃんもまた、新しい特別になりつつある気配も感じた。
午後六時をまわるころ、りたちゃんは一人で帰ってきた。
「親戚のところ泊まるのよ、あの子。色々お世話になったみたいだし、顔出さないといけないみたい。」
件の「つきの」さんについてあまりにも軽く触れるもので、逆に尋ねづらくなってしまった。
「今日、どこ行ってきたの?」
代わりにどうでもいいようなことを聞く。
「上野の博物館。」
「ああ、けっこう面白いよね。シロナガスクジラの模型、感動する。」
「あたしは周期表が好きだな。実物展示ってあそこだけだし。」
なんてことない会話をしているうちに、りたちゃんは部屋のにおいと、コンロに乗った鍋に気づいてくれた。
「カレー?」
好きに食べていいと言われた冷蔵庫には、大量のカフェオレとコンビニ食品以外に、傷み始めた玉ねぎとしめじ、使いかけのカレールウがあったので、お言葉に甘えて使わせてもらった。足りない材料と福神漬けは、ちょっと抜け出して買ってきた。
「もし夕飯、済ませてきちゃってたら、明日でも食べられるかなって思って……、」
よくわからない言い分だなと我ながら思う。「夕飯、食べてきた?」が普通先だろう。
「どうせならサラダも欲しいわ。だいたいあんた、ご飯、炊いてないじゃない。」
りたちゃんは鍋の蓋を閉じて、少し呆れて、やわらかく言った。
炊飯器のボタンを押して、炊きあがる間に二人でスーパーに向かった。
カット野菜と、ドレッシングと、スナック菓子とアイス。僕が押すカートにりたちゃんがひょいひょい入れてゆく。
帰宅して、皿を並べたり飲み物を出しているうちにご飯が炊けて、テレビをつけたまま一緒にカレーを食べた。まあまあの出来だと思う。
「今日、バイトは?」
CMの合間に話しかけた。
「休み取ったの。二週間。」
僕は迷っていた。帰るタイミングを優先すべきか、「つきの」さんについて切り出すのが先か。
スーパーに向かう途中にも、買い物中も、カレーを食べてるときもずっと悩んでいた結果、食後のアイスになってしまった。しかしこの、一見どうでもいいように聞こえるバイトの質問は大正解だった。二週間も休みを取った理由は、一つしかない。
「友だち来るからだよね。朝の人が例の友だち?」
ここぞとばかりに聞いた。
「月乃に手出したら殺すわよ。」
スプーンをかつんと置いて、りたちゃんは警告してきた。
「そ、そんなつもり、ないよ、」
慌てて誤解を解く。
「でしょうね。キミってそういう感じじゃないもの。」
どうやら彼女なりの冗談だったらしい。安堵する僕を、りたちゃんは悪戯に眺めた。
「でもさ、あの子ってあんなだから、実際言い寄る奴、多いのよ。」
二十年間もてた経験の無い僕さえも、だろうなと納得した。「まず、顔。可愛いでしょ。痩せてるくせに胸大きいし。」りたちゃんは自慢するように月乃さんの話を始めた。
「あの子質悪いのよ。他人のことはお節介なくらい懸命になるくせに、疑いも警戒心もまるで持たないの。いつだって他人のことばかり。他人の幸せばっかり考えてる。隙だらけでさ、どうしようもないの。」
愚痴っているようで、間違いなく自慢だった。
「ドラえもん、お揃いだったんだね、」
月乃さんを語る彼女をもう少し見ていたくて話を振ると、りたちゃんは今までで一番朗らかな態度で、たくさん話をしてくれた。
ドラえもんは衝動買いだったこと。
刺繍してある日付はお互いの誕生日だということ。
月乃さんは中学の先輩だったこと。
彼女が県外在住なのは、高校卒業後地方に就職したからということ。
結婚が決まり、もうすぐ、また東京に戻ってくるということ。
「りたちゃんは、月乃さんが大好きなんだね。」
彼女の明るい表情に、思わず口元が弛んだ。
とたんに空気が変わる。
「……なによ、悪い?」
りたちゃんは気まずそうに視線を逸らした。
殺伐だとか張り詰めるような空気ではない。しんとした、海の底のような雰囲気だ。
カラーコンタクトに覆われたりたちゃんの眼の色が、いつもと違うようにみえた。
麻痺みたいに、妙な空気に囚われていると、インターホンが鳴り響いて、体はすぐ自由になった。モニターに何も映らないところ、玄関先からの呼び出しだ。
「月乃さんじゃないかな?」
りたちゃんがエントランスの番号を教えている相手は少ない。僕の発言に反応を示したりたちゃんは、素早く玄関に向かった。
「……何しに来たのよ、」
玄関のほうから響いた攻撃的な声が、訪問者が月乃さんでないことを報せる。
すごむりたちゃんと向かい合っていた訪問者は、知らない女性だった。
齢は三十前後、真っ黒な髪と眸をした涼しい印象の人。月乃さんとは真逆の美人だけれど、どこか見覚えのあるひとだ。
「月乃から連絡あったから……。一緒だと思って、」
「それでその胎、見せびらかしにきたわけ?」
気遣うように静かに話す女性を、りたちゃんは容赦無く一蹴する。
「りた……。私、そんなつもり、」
「そんなつもり無い? だったら何よ。目障りだからさっさと帰ってくれない?」
女性の腹部は薄らとふっくらしていた。両手に荷物を持ってはいるけれど、おそらくこの人のおなかには、赤ちゃんが存る。
りたちゃんの威嚇に負けた女性がおとなしく引き下がろうとしたところ、
「あのっ、」
思わず声が出た。
「駅まで送ります。荷物、持たせて下さい。」
見知らぬ男の突然の登場と見送り宣言に、当然のことながら女性は驚いた様子だった。
「いいよね? りたちゃん、」
一方僕はというと内心びくびくしていた。機嫌を損ねていないか、りたちゃんの態度を窺う。
彼女はふいっと顔を背け、拗ねるように言った。
「帰りにもう一個アイス買ってきて。ハーゲンダッツ。」
このぐらいの我儘なら、可愛いものだ。
「遠野りさ、と言います。」
エレベーターのなかで、女性は静かに自己紹介してくれた。
どおりで見覚えがあると思ったら、この顔立ちは、りたちゃんの化粧を落とした姿にそっくりだ。
りさ、と名乗るこの人はりたちゃんの反抗期の原因である、お姉さんだった。
「りたに月乃以外の友達がいたなんて、安心した。」
怪しむことなく、りささんは僕をりたちゃんの友達と認識してくれた。
「そんな……友達だなんて、たいそうなものじゃ……、」
戸惑う僕にりささんはくすりと笑う。
「ごめんなさい。本当は、迷惑かけてるでしょう?」
い、いいえ。嘘は苦手だ。ひきつった笑顔を向けるとりささんはもう一度吹き出して、やがて遠い目をした。
「私のせいだから。昔は素直でいい子だったんだけど、」
「りたちゃんは、今でも素直ですよ。」
思わず言ってしまった。
「それに、いい子、です。」引き下がれなくなって付け足すと、りささんはまた笑った。「ぐっ」と声とも空気ともいえない音を吹き出すその仕草はりたちゃんそっくりで、彼女のいう『反抗期』が胸に沁みた。
「本当言うと、助かったの。荷物。ありがとう。」
「いえ、僕、小学生のときに妹が産まれたから、気になっちゃって。予定日はいつごろですか?」
「二月。実はもう、性別も判ってるの。主人にはまだ内緒だけど。」
込み入った事情を聞くべきはこの人ではない。感覚がそれを告げて、たわいない話をふる僕に合わせてくれたのか、りささんもりたちゃんのことを深く尋ねようとしなかった。
「ここでいい。ありがとう。」
東西線の改札前でりささんはまたお礼を言った。
ホームまで付き添おうとする僕を断って、片方の荷物だけ受け取る。荷物が月乃さんへの結婚祝いと、りたちゃんへの手土産だったことを明かすと、僕から渡しておいてくれないかと最後に依頼を残し、降りて行った。
マンションに戻ると、室内は真っ暗だった。
玄関の照明を点けると、暗い部屋の、ベッドの隅で、蹲っているりたちゃんがぼんやりと見えた。
「ただいま、」
返事は無い。顔を伏せたまま座って、ドラえもんを握っている。
「アイス、買ってきたよ。」
また返事は無かった。その代わり蚊の鳴くような声で、
「今日も、泊まれば、」
と、つっけんどんに言ってきた。
「……ひとにごはん作ってもらうのって、悪くない、」
「そうだね、朝はごはんとパン、どっちがいいかな。」
のんきに聞き返すと、りたちゃんは「絶対ご飯。」と、また小さく答えた。
そうだね、カレーも余ってるし。僕はのんきを貫いた。
「……気持ち悪いのよ、あいつ、」
アイスをしまっているとき、りたちゃんはぽつりと呟いた。
「顔も、胎も、きもちわるい。」
小さいけれど確かな悪意だった。弱々しく沸々と、憎んでいる。
「……月乃に、みせたくない、……みられたくない、」
悪意と憎しみのなかで、彼女は大切な人の名前を、震えながら呼んだ。
ドラえもんが、ぎゅっとかたちを変える。
りたちゃんは月乃さんが好きだった。
親友としてじゃなくて、たぶん、ちゃんと恋として。
それがなぜ姉への嫌悪感に繋がるのか、その理由を、彼女との話のなかで察した。
月乃さんには今度入籍する相手とは別に、長年片想いしている男性がいた。
それがりささんのご主人、つまりおなかの赤ちゃんの父親。そして、りたちゃんのお義兄さんだ。
彼と月乃さんは十一も離れていたが、まるで本物の兄妹のように仲の良い幼馴染みで、彼は彼女の一途な恋心に気付いていたにも関わらず、出逢って一年足らずのりささんとの婚約を決めたのだという。
りたちゃんはそれが許せなかった。
もともと姉妹仲は良くなかったし、なにより、月乃さんが大好きだったから。
「ちゃんと人を好きになれるんだなってわかったの、あたし。初めて自分なんかより、他人の幸せが、嬉しいって思えたの。」
りささんの懐妊後、想いを塗り潰すように婚姻を決めた月乃さんについて、りたちゃんは取り繕った幸せでも構わないのだと、どうしても、あの子には幸せになってほしかったのだと語った。
月乃さんは東京のごく一般的な中流家庭に生まれ、一人娘として大事に大事に育てられた。
彼女が小学生の頃、両親が亡くなった。家族旅行の道中、対向車に衝突され、幸か不幸か彼女だけが一命を取り留めたのだ。両親共に兄弟姉妹は無く、彼女は母方の祖母に引き取られ、その祖母も高校卒業後に亡くなった。
ざっと並べるだけでも波乱に満ちた彼女の生い立ちだが、りたちゃんが中学時代に出逢った当初から、そんな悲運の影は無い、あのほんわかした月乃さんは存在していたという。
それもきっと幼馴染みの彼による賜物なのだろうと、りたちゃんは悔しそうに告げた。
つまり、りたちゃんの月乃さんへの想いは同情からなのか。そんな考えは野暮だった。
家族が大嫌いな、りたちゃん。家族さえ愛せないのに、どうやって他人を受け容れられよう。孤独に居た彼女の心を開けたのは、ほかでもない月乃さんだけだったのだ。
ではどうして、孤独を選んでまで、家族を拒絶していたのか。
「鞠河さんって、不倫でできた子なんだ。」
後日、藤代くんの口から出た情報に耳を疑った。
「不倫、」
おうむ返しするしかない僕に、りささんと面識のあるという彼は、更なる情報を与えてくれた。
りたちゃんとりささんは異母姉妹。
りささんは実母を病気で亡くしているが、その闘病中に父親が他の女性との間に作った子供が、りたちゃんだった。
字の如く信じられない倫理観の話だが、更に信じられないことに、その当時不倫相手だったりたちゃんの実母は、現在何事も無く正妻の座につき、しかもりささんとも実の母娘のように仲睦まじい関係を築いているのだという。
気持ち悪いのよ、あいつら。
反抗期の理由を語るときのりたちゃんの言葉が、ずしんと響いた。
「りささんは、独自の家族観を持っているからね。鞠河さんが自分の出生を知ったのは小学生の頃だったみたいし、そりゃ拗れるよ。」
『鞠河』の姓は、りたちゃんが高校卒業するまでのもので、両親が戸籍上も正式な夫婦となった今は、『武本』が彼女の苗字である。藤代くんはそんな内情まで、事細かに教えてくれた。
「でも、僕は好きなんだ。りささんの家族観。」
血にも過去にも拘らず、目の前の家族を家族だと言い切る。
どんな経緯だろうと、本人がどんなに拒絶しようと、自分にとって『武本りた』は愛する妹に変わりない。
そんな彼女の考え方に敬愛をみせる藤代くんに、今さらながらの質問をぶつけた。
「藤代くんは……りささんと、どういう関係?」
僕なりに思い切った質問ではあった。どことなく危険な香りがする。
「僕のママ。」
それってやっぱり、やらしい意味で? 恐る恐る質問を続ける僕に、藤代くんはすぐさま、「冗談。」と笑った。
「僕の、パパみたいな人の奥さんが、りささんなんだ。」
「それって、」
「そ。鞠河さんのお義兄さん。まあパパなんて言っても籍は違うし血も繋がってないし、育てられてないし、歳も大して離れてないんだけどね。でも、僕のパパ。」
僕のパパ、と念を押す藤代くんの口ぶりは、機嫌が良いときのりたちゃんに似たやわらかさがあって、この拗れた話の中心に居る『りたちゃんの義兄』で『りささんのご主人』で『月乃さんの幼馴染み』である『藤代くんのパパ』を、一概に嫌えない気にさせた。
「じゃあ、さ、月乃さんとも、面識は、」
ついでにもう一つ質問した。
「ああ。僕、あの子嫌い。」
パパの話から一転、表情を変えて藤代くんは即答した。
「自分ばかり不幸みたいな顔してるくせに、それが他人のためって勘違いしてるだろ。ろくな女じゃないよ、彼女。」
彼がここまで誰かを批判するのも珍しい。しかし、先日の神楽坂での件もあるので、さほど驚かないでいられた。藤代くんは案外女の子に厳しい。
彼の評価はともかく、個人的に月乃さんはいい人だと思う。勿論、美人には甘いといった男目線を差し引いたとしてもだ。
話を聞く限り、前向きで努力家だし、誰かを恨もうとしないし、実際会ったときも、優しくて朗らかな人だった。熱も計ってくれたしお礼も言ってくれた。なんと言っても、あのりたちゃんが恋心を懐いてしまうくらいなんだし。
「鞠河さんのそれは恋愛なんかじゃないよ。」
藤代くんはぴしゃりと否定した。
やっぱり変なのかな。ふたりとも、女の子だし。自分に言い聞かせて目を瞑っていた部分がぐらりと動く。
「性別は関係ないよ、」
藤代くんはそれも否定した。
「彼女の場合はマザコン、シスコンの延長線。母性と恋愛感情がごちゃごちゃになってるだけさ。一緒くたにしやすいんだよ、家族愛って。そこに家庭環境やら友情も入ってきてるから、余計ややこしくなってるんだよ。」
いやに説得力のある見解だ。それならりたちゃんの反抗にも恋心にも全部辻褄があう。
「一緒くたにしちゃ、だめなのかな、」
間をおいて、尋ねた。
「家族と、恋愛と、友情、同じじゃだめなのかな、」
「だめじゃないよ。それで幸せになる人もいれば、不幸になる人もいるから。」
言えるのは、一筋縄ではいかないってだけ。藤代くんは静かに付け加えた。
あの、彫刻のようなはっきりとした目元は、こっちを向いていない。整い過ぎの横顔を眺めていると彼は唐突に、「この前のこと、怒ってる?」なんて、今さら聞いてきた。
「それならこんなふうに喋ってないよ、」
できるだけ間を置かずに答えた。
「悪意、あったとしたら?」
藤代くんは続けて聞いてきた。
「藤代くんって、案外女の子に厳しいよね。」
返事に困ったので冗談混じりに、先ほど内心で思ったことをそのまま口に出した。
「誤解しないでよ。鞠河さんは嫌いじゃないんだ。きみ達を引き裂きたかったのは、事実だけどね。」
「じゃあ引き裂かれてないから、怒れないよ。」
嘘は何一つ吐いてない。彼に対しても、りたちゃんとのことも。
僕とりたちゃんは、いよいよよくわからない関係になっていた。
あの日から二週間。あの夜以降、僕は頻繁にりたちゃんの室に出入りしている。
ごはんを作ったり、一緒に食事や勉強をしたり、朝までゲームをしたり。僕が漫画を読んでる間、りたちゃんは爪の手入れをするなど、特に会話することなく一緒にすごす日もあれば、彼女が居ない室で一人留守番をする日もあった。
当然、泊まる夜も何度もあった。
それなのに、不健全にも僕たちは、ただの一度も男女の関係に至っていない。
僕自身それを望んでいないというのもあるけれど、まったく警戒しないりたちゃんも大概だ。
関係は、変わる。
少し前までは気にも留めなかったのに、このたった一、二ヶ月で恐ろしく実感した。
他人から友だちへ、
友だちから恋人へ、
恋人から家族へ、
家族から他人へ。
ひとはそれぞれの関係を、それぞれの経緯で、それぞれのかたちに変えてゆく。
正直僕は、今のりたちゃんとの関係がけっこう心地良い。
名前のわからないこの関係も、いつか変わるのだろうか。それは物寂しい気がした。
「残念。失敗、か。」
藤代くんは参ったように笑った。
「心配してくれたんだよね。」
「違うよ、ただの嫉妬。」
僕の返事に彼は一瞬真面目な顔をして、やがてもう一度目を細めた。
「言ったよね、一筋縄ではいかないんだ。」
色白い肌、とおった鼻すじ、品のある物腰。彼は相変わらず完璧だ。
「ねえ、僕も鞠河さんと同じって言ったら、どうする、」
「同じって、」
「性的指向。」
一連の流れはずいぶんさらりとしていたけれど、中身は重大だった。彼なりに覚悟を決めたのかもしれない。
なんてことない顔して、たくさんの物を抱えて、時々不安定にもがく彼が、僕はけっこう好きだ。それを見て見ぬふりをするこの関係もまた、心地良い。
「この前の連れの人は、趣味いいなあって思うよ。」
「仲村くんって、本物だね。」
完璧な美貌をぜいたくに崩して、藤代くんは笑った。
関係は、変わる。
これは、いつか受けた忠告なのかもしれない。
りたちゃんとりささん。
りささんとご主人。
幼馴染みの彼と月乃さん。
月乃さんとりたちゃん。
そして、僕とりたちゃん。
りたちゃんを通じて思い知ったこの事実は、これから先、僕の残りの六十年くらいのつまらない人生にどんな影響をもたらすのだろう。
幸せを恵んでくれるのか、不幸を振り翳すのか。誰かに幸せを与えるのか、もしくは不幸に陥れるのか。
事実に直面してから、過去の関係も辿ってみた。
僕と藤代くんは先輩後輩として出逢って、今は友だちになった。
文也兄さんとは、僕が彼の甥として生まれて、兄弟のような関係を築いた。
そして笑美子さんは、僕の初恋の影を背負ったまま、今、叔母として世話を焼いてくれる。
そんな笑美子さんもまた、昔は文也兄さんと違う関係であったはずだ。
聞いた話では、二人はバイト先の先輩後輩で、笑美子さんから告白して恋人になって、文也兄さんからプロポーズして夫婦になったという。
近い将来、二人の間に子供が産まれたのなら、二人はまた、パパとママという新しい関係になる。
想像して、背中から首筋辺りがぞわりとした。でも悪い気はしなかった。
馳せた想いが無駄になるなんて、このときは夢にも思わなかった。
文也兄さんと笑美子さんの関係が、もう一生変わらないなんて。
変わらない関係も、あるなんて。
近い将来なんてこなかった。
笑美子さんが、死んだ。