タビュランス
「サヨのチョコレート? あそこは除外したの。」
現実はうまくいかない。期待を胸に提供した情報を、りたちゃんは一蹴した。
「除外?」
話に聞くと、件のチョコレート、『小夜』のホワイトショコラは、滅多にお目にかかれない代物だという。
販売は不定期、数量は限定。巷の噂では店の定休日の翌日である土曜、更に客足の遠のく雨天の早朝から並べば入手できる可能性もあるらしい。
「五回並んだわ。三回は売り切れてたし、二回は売ってすらいなかった。」
りたちゃんのアルバイトは、基本深夜から早朝までだ。例の雑誌で堂々と見開きを飾った『小夜』の特集でホワイトショコラを知り、なんとかして手に入れようと、休みを利用したり始発に乗って並んだりしたみたいだけど、成果は得られなかったという。
「特集組まれたばっかりだし、仕方ないわ。必死になって手に入れて、あの子の好みに合わなかったら元も子もないもの。それなら、キミの分析力に頼ったほうが合理的でしょ、」
つっけんどんに言うりたちゃんは、悔しそうだった。
「あ、あのさ、これ、」
ここぞとばかりに完成したノートを取り出した。りたちゃんの顔が少しだけ明るくなる。
「できあがったの?」
「なんとかりたちゃんが帰ってくるまでにって、思ったから。」
先日食堂で言われたとおり、りたちゃんは今さっき帰宅した。
僕はというと合鍵でこの室に踏み入ること四時間、少々の試食と残りの清書を黙々とこなしていた次第だ。
「今日食べる予定だったお菓子さ、親戚の好きなお店のだったから、味知ってたんだ。」
完成したノートに目をぱちくりしながらみつめるりたちゃんを、みつめた。
反応はどうだろう。
「まあ、こんなもんね。」「最後のほう、字が雑。」「思ったよりは、まし。」頭のなか、りたちゃんの声で再生される予測はどれも、褒め言葉ではなかった。
反応を待つこと数十秒、彼女は脱いだばかりの上着を突然、もう一度羽織った。
「出るわよ、支度して。」
相変わらず把握に困る言動を起こす。きっとどこかに出掛けようと誘っているのだろう。一応、目的地を聞いた。
「完成祝いよ。奢るから、飲み行きましょ。」
笑顔、とまではいかなかったけれど、目つきと口調から上機嫌なのだとわかった。
二人で向かったのは、歩いてすぐのチェーンの居酒屋だった。神楽坂には高級店が多いけれど、わりと学生も住んでいるので、こういった店も結構ある。
入店前に年齢確認を求められ、りたちゃんは慣れた様子で学生証を提示していた。
「いつもなのよね、あたし。ま、こんな恰好してんだから当然なんだけど。」
自虐的にこんな恰好という彼女の服装は、今日も今日とて派手だった。
「でも、りたちゃんっておしゃれだよね、」
好みは別として、りたちゃんは着回しが上手い。
昨日一昨日身に着けていたスカートやニットや靴を、別の日には新しいコーディネートに仕上げている。そんな部分に目がいくようになったのは、先日の笑美子さんとのデートのお陰だ。自分の服に悩んで初めて、ファッションがいかに難しいかを知った。
「あんた本気で言ってるの? 趣味悪い。」
賞賛の甲斐無く、りたちゃんは訝しげな顔をした。たぶん僕は呆然としてしまったのだろう。りたちゃんに「ほら、乾杯」とジョッキを向けられるまで、最初の一杯目と御通しが運ばれたのに気づかなかった。
小さな体に似合わず、りたちゃんは一口目からぐびぐびとウーロンハイを飲んだ。半分くらいになったジョッキを置き、明るい髪の毛を指にくるくる巻きつけながら、
「これはただの反抗期。いい歳して、笑えるでしょ。」
と、話の続きをした。
たぶんこの子はお酒があまり強くない。というより、こういった場に弱いのだろう。
まだ酔いも回ってないのだろうに、いつもより自分の話をしてくれた。
「笑える反抗期」の原因とは、服屋を営んでいるお母さんとお姉さんらしい。
二人はそれなりの立地に店舗を構え、まあ上等と呼べる服を、そこそこ良い値段で売っているという。当然りたちゃんは幼少の頃から、その母姉の店の服ばかり着させられていた。
「働ける年齢になってから、すぐに脱ぎ捨ててやったわ。趣味じゃないって言い切りたくて、こんな安物ばっかり着る羽目になっちゃったけどね。お陰で変な噂もついてまわるし、そういう目で見られるし。それでも母姉の服着続けるより、ずっとまし。気持ち悪いのよ、あいつら。」
高校生のしがないバイト代では、有名ブランドのデザインを模して作られた安いギャル服くらいしか買えない。親には家賃も公共料金もスマホ代も払ってもらうが、服代だけは意地でも自分の稼ぎでやりくりしているのは、あたしのくだらないプライド。それが二十になった今でも続いているのだと、りたちゃんは開き直るように説明してくれた。
「それにさ、あたし似てんのよね。姉貴に。だから余計にってわけ。」
お姉さんが嫌いなのかな。それが本当の理由なんだろうな。口には出さないけど思案した。
似てるって、顔かな。だからこんな濃い化粧しているのかな。この化粧が浮かないように、派手な服を選んだんだろうな。久しぶりに、彼女の顔をじっくり観察すると、りたちゃんはすぐに、「だから、ばれてるって言ったでしょ、それ。」と睨んできた。
「ご、ごめん。…ねえ、その睫毛ってどうなってるの?」
慌てて謝ったついでに、観察してしまった弁解も兼ねて、質問した。
「どうなってるのって、」
「どこか引っ掻ける部分とかあるの?」
前から疑問だった。瞼の繊細な皮膚に、どうやったらこんな物が装着できるのだろう。
「ばか。接着剤に決まってるでしょ、」
「接着剤? 糊とかボンドとか?」
「……………アロンアルファ。」
「うそっ? だからいつもくっついてるんだ?」
思わず声をあげると、りたちゃんは口元に当てていたジョッキで顔を隠して、「ぐっ」と声とも空気ともいえない音を吹き出した。ちらりと覗く顔が笑っている。
「なんなのキミって。本物にもほどがあるわ。」
前よりも幾分幼い笑いかただった。
心臓の、もの凄い奥の、ど真ん中のあたりがほわっとした。
アルコールが邪魔をして、りたちゃんとお酒どっちのせいなのかわからない。どっちのほうが都合良いだろう。
彼女と同じようにぐびぐびと緑茶ハイを流し込んだ。
「潰れたら困るから無理しないでよ。顔、真っ赤じゃない。」
りたちゃんが言う。
「顔には出やすいけど、あまり酔わない質なんだ。」
「じゃあ逆ね。あたしは顔に出ないだけで、結構酔うの。」
そんなふうに、残りは当たり障りない話題が続いた。
共通でとってる講義の話とか、高校時代は何部に所属していたかとか、やきとりは塩派かタレ派かだとか、血液型を当て合ったりとか、そこから派生して星座や誕生日の話もした。
「キミって、こんな女みたいな話によくついてこれるわね。」
呆れなのか感心なのかは判らないけど、りたちゃんはやわらかい口調で言う。女の子みたいな話題は苦じゃない。
ただ、本当に話したいことは聞き出せなかった。件の、友人のことだ。
もうすぐ訪れるという『友人』はきっと、このりたちゃんをとっくに知っている。
いいや、僕の知らない、もっと多くのりたちゃんを見ているはずだ。
どんな人物なのだろう。
横柄で傲慢で、人当たりがきつくて、いつも独りだった彼女が、ここまで尽くしたい相手とは。
東京じゅう歩き回ったり、こんな僕なんかの手を借りてまで喜ばせたい友人とは。
男の人? 恋人? 別にそれでも構わない。
嫉妬じゃなくて好奇心だ。なのに触れるのが怖い。何かが崩れてしまいそうで。距離を保ちつつ、たわいない話を続けた。
適度に飲んで食べて喋って、終電もあるので余裕をもって店を出た。
鞄を置きっぱなしにしてきたのと、りたちゃんが僕に渡したいものがあるということなので、一度彼女の家に戻ることになった。
……そんな、道中である、
「なっかむらくーん、」
聞き慣れた声が異様なテンションで襲ってきた。
声だけならまだいい。背後から両腕を巻きつかれた瞬間は、通報という手段すらよぎった。
声の主はやっぱり藤代くんだった。
彼も酔いが顔に出ない質だ。いつもと同じ色白で品のある顔をしているが、相当できあがってるらしく、へばりついたまま離れてくれない。
「こんな所で奇遇だねえ、」
そんなわけないだろう。絶対張り込んでいたな。疑いの眼差しにも彼は一切動じない。
藤代くんの近くには、連れの男性が一人居た。小奇麗な身なりをした若い男で、愉快な藤代くんに比べ表情が薄く、独特な雰囲気を醸しだしていた。一方、一応こちらの連れであるりたちゃんは、僕以上に怪しんだ目で、その光景を見ていた。
「ああ、初めまして、鞠河さん。今は武本りたさん…なのかな?」
りたちゃんに気づいた藤代くんは、意味深な口調と聞き覚えの無い名前で彼女を呼び、挨拶した。
途端にりたちゃんの目つきが変わる。
藤代くんはふふんと鼻を鳴らし、おちゃらけていた態度をやめた。
「やっぱりね。在学中は名前違ったし、式の日も居なかったから気づかなかったよ。お姉さんには、近々お祝い贈らせてもらうからって伝えといてよ。たまには姉妹顔合わせるのもいいんじゃない。心配してたよ? りささん。」
「……何よあんた、」
藤代くんが何を言っているのかわからない。
解るのは、りたちゃんに好意ではないものを叩きつけている。腹黒い美貌で微笑む挑発に、りたちゃんは鬼の形相と、威嚇するような声で凄んだ。
「やだなあ、怒らないでよ。そうそう、たまにはお義兄さんにも優しくしてあげてね。」
「佐喜彦。調子、のりすぎ。」
背後から連れの男性が藤代くんを止めた。
腕や肩を掴むのではなくて、子供を叱りつけるような声だけで。
藤代くんから微笑が消え、それこそ子供みたくむすっと拗ねると、彼は僕にだけ視線を向けて「おやすみー」なんて無邪気に手を振って行ってしまった。
「ごめん。悪い癖なんだ、あれ。」
先に坂をくだってゆく藤代くんに参りながらも、連れの男性は代わりに謝ってくれた。謝罪のときも表情は薄くて、口調は淡々としていて、なんだか人形みたいな人だった。
嵐が去った後の僕らは、終始無言でりたちゃんのマンションに向かった。
そして玄関に入るなり、りたちゃんは僕を睨みつけて詰め寄った。
「あいつ、食堂で一緒だった奴よね。仲良いの?」
嘘をつくのが正解だったのだとわかっている。
でもつかなかった。友達だよ、と頷く。
「ずいぶん嫌味な挨拶くれる友達ね、」
「た、他意は無いよ。普段はすごくいい人なんだ。ほら、お酒も入ってたみたいだし、」
「どうみても他意だらけじゃない。あいつにあたしの話、したの?」
もちろんまた正直に、頷いた。
「あんたも……りさに頼まれたのね?」
「ち、違うよ。なんのこと、」
「とぼけないで。じゃあなんであいつ、うちの事情知ってんのよ。りさに会えなんて言うのよ。義兄のことだって、」
「きっと藤代くん、何か理由があるんだよ。彼は本当に……」
「そうやって、肩持ってるじゃない。」
りたちゃんはもう、居酒屋でのりたちゃんじゃなくなっていた。
出逢った当初の、いいや、あの頃以上に、冷たくなっていた。
僕の言い分も耳に入れてくれない。
「どおりであんたって、話合わせたり、何も口ごたえしてこないわけだわ。」
「落ち着いて、りたちゃん、」
「うるさい!」
沸々と怒りをみせていたりたちゃんが、ついに怒鳴った。
怯んだ僕に鞄をおしつけ、それとは別にプラスチックのファイルも寄越した。ファイルのなかには、きれいにまとめた書類が、閉じられていた。
「環境法学のレポート。あたしがあんたから取った時間には、充分見合うでしょ。貸し借りはこれで無し。あんたとはもう、無関係だから。」
それを最後に目を合わせることも無く、室から締め出された。
終電まであと、十五分。
どうして一瞬でも、迷わなかったのだろう。
余裕で間に合った電車に揺られ、窓に映る自分に嫌悪した。
ばかじゃないのか。仲村君依、身分を弁えろよ。
きっと僕は、大きな勘違いをしていた。
カツアゲしてきた女の子が本当に千円を返してきた。
彼女は派手で賢くて、横柄で傲慢で、いつも独りで、別の世界の人間だった。
そんな人間と不思議な縁を持った。
縁はちょっとずつ深くなって、いつの間にか愛称で呼ぶのも呼ばれるのも、室に招かれるのにも抵抗無くなっていた。
だからどうだというんだ。
狭すぎる交友関係が広がって、しかも相手が鞠河りたで、新鮮な日々だったと僕が勝手に盛り上がっていただけじゃないか。
『君依くんはひとの話を聞ける子だから、空気とか雰囲気なんて考える必要ないの。自然体でいれば良いだけ。』
笑美子さんの言葉を鵜呑みにしていた。
実際、りたちゃんは笑ってくれた。
僕は僕で良いのだと捉え始めていた。
だめだったんだ。
無難になら無難に、冒険するなら覚悟を決めて、接するべきだったんだ。藤代くんを責めるつもりなんて、無い。
『どおりであんたって、話合わせたり、何も口ごたえしてこないわけだわ。』
りたちゃんが僕に疑心を懐いたのは事実だ。無難に生きようとしてきたくせに、新しいものへ手を伸ばした、すべて自分が招いたことだ。
翌日から僕と鞠河りたは、本当に他人に戻った。
すれ違っても声をかけない、視線も合わせない。同じ講義を別々の席で受ける。一ヶ月前までは当たり前だった日常に息苦しさを感じた。
「それがどうして、おまえが悪い、になるんだ、」
しれっと文也兄さんは言った。半分、呆れているようにも聞こえる。
あの日を境に、あれだけ僕らの進展に興味津々だった叔父夫婦が、顔を合わせようと何も尋ねてこなくなった。こちらとしては好都合なはずなのに、文也兄さんに誘われて飲んでいるうちに、自分から例の出来事を打ち明けてしまった真意は、僕自身理解できない。
「7:3だな。」
話の大筋をつかんだ彼は、7が藤代くん、3がりたちゃんの責任で、僕は完全に被害者だと分析する。僕はゆっくり言い返した。
「藤代くんはもともと、僕がりたちゃんに関わるのを心配してくれてただけだし、りたちゃんは自分の嫌な話されたみたいだから、仕方ないよ。お互いお酒も入ってたし。誰だって触れられたくない話くらい、あるよ。」
ゆっくり、よりも、だらだら、だったのかもしれない。
文也兄さんの眉と瞼がぴくりと動いたのがわかった。
「自分のせいだっつって相手立てれば、少なくとも批難はされないから、そりゃ楽だよな。それで関係が拗れようと終わろうと、自分は偉い、よく我慢した、になるもんな。」
そんなつもり無いよ。言い返せるものなら言い返したかった。
でも無理だ。兄さんの皮肉がぐうの音も出ないほど、的を射ていたからだ。文也兄さんは焼酎をひとくち飲んで間を挟み、じろりと僕を見た。
「反省する点をはき違えるなよ。人はな、お前のせいだって怒鳴られるより、自分が悪いって泣かれるほうがきついんだよ。知ってて選んでるんだろ?」
文也兄さんの目は藤代くんと全然違うかたちだった。目力の強い深い奥二重で、目と眉の間隔が狭い。睫毛はあまり長くなかった。
叱りつける声に耳を澄ませて、その目をじっと見つめ返していると、今度はへらっと表情を崩した。
「怒鳴れる性分じゃないもんな、おまえ。」
続けて、飲んでみるか、と焼酎を勧めてくる。最近になって緑茶ハイなら飲むようになったけど、お湯割りは初めてだ。あまりおいしくなかった。
くくっと兄さんは笑う。
「言い返す怒鳴るだけが手段じゃねえし、謝るだけじゃ何も変わんねえぞ。退いてだめなら押してみろ、だな。」
「……逆だよ、それ。」
次は僕が呆れて笑った。
文也兄さんとは以前から外食したり、自宅でご馳走してもらったりはしていたけれど、こうしてさしで飲むようになったのは、今年の春からだ。
兄さんは結構飲む。でも笑美子さんは一滴も飲めない。妻を置いて一人で飲むのは味気ない、甥と朝まで酌み交わすのも乙なものだ、時々僕を誘う理由を彼はそう語る。
「文也兄さんは笑美子さんに泣かれたこと、ある?」
唐突に聞きたくなった。笑美子さんは自分が悪いって泣いたこと、あったの?
「紙一重だけどな、俺のために泣くことはしょっちゅうだったぞ、」
「きつかった?」
「そりゃおまえ、「なんで自分なんか選んだんだ」なんて泣かれてみろ。」
大して酔ってもいないのに、兄さんはへらっと明かしてくれた。
新婚当初、笑美子さんは夜がくると不安になって泣きじゃくったこと。
その理由は、自分をお嫁さんにしてくれた夫に申し訳ない、というもの。
いつも笑顔の笑美子さんからは想像もつかない、耳を疑うような話だった。
「笑美子さん、何にそんな負い目を感じてたの、」
「んー、まあ、あれだ。結構わがままだからな、あいつ。」
旅行の行先はいつも笑美子さんが決めるし、怖い番組を観た日は夜中トイレに叩き起こされるし、同じぬいぐるみの色違いを何個も欲しがる。学生時代なんてゲームのレベル上げをやらされたり、景品が欲しいと慣れないクレーンゲームをせがまれたこともあったらしい。
笑美子さんの我儘な所業を、文也兄さんはどんどん挙げていった。
「兄さんが甘やかし過ぎなのにも、問題あると思う。」
僕の指摘に文也兄さんは、違いないなと恥ずかしげも無く笑う。
「笑美子を笑わせられんなら、いくらでも甘やかすんだよ、俺は。」
それって、盲目? ばかにするのではなく、真面目に尋ねた。
とんでもない、全部見えてるさ。得意顔で兄さんは言う。
「おまえも同じだろ。新鮮、で片付く相手じゃなかったんだろ、」
あとは好きにしろ。
文也兄さんは言わなかったけれど、僕は脳内で勝手に、彼の声でそんな台詞を再生した。
……兄さん、始発って何時? ん?ああ、もうすぐ出るぞ。 ごめん、用事があるから、今日はご馳走様。 おう、気をつけてな。
明け方の、薄暗い街に飛び出て走った。十一月の雨が冷たい。
ひどいや。降るなんて予報、無かったのに。
りたちゃん。
音の無い霧雨のなかで、彼女の名前を呼ぶ。
自分にすら届かないこの声に、彼女は耳を傾けてくれるだろうか。
派手で賢くて、横柄で傲慢で、人当たりがきつくて、ちょっと怖い、りたちゃん。
いつも独りだけど、大切な誰かのために一生懸命になれる、りたちゃん。
たぶん、家族のことを悩んでる、りたちゃん。
僕のつまらない世界を、小さく照らしてくれた、りたちゃん。
もっと呼ばせてよ。だめならいいんだ。ただ、ひとつだけ伝えなきゃ。
始発に飛び乗り、窓に映る自分を見据えた。仲村君依、退いてだめなら押してみろ。
正午をすぎた頃にりたちゃんは帰ってきた。
マンション前で濡れ鼠になって佇む僕に、げんなりと一瞥した彼女は、何も見なかったようにオートロック番号を打ち始めた。
「りたちゃん、」
「邪魔。」
偽物の睫毛と眼球は睨んでさえくれない。一切視線を交えず冷たく言い捨てられた。
「うん、すぐ帰る。……これだけ、受け取ってほしくて、」
おもむろに鞄から、ここへ来た目的の要を取り出し、差し出した。
『小夜』のロゴを載せた包みに、彼女の表情が更に攻撃的になる。
「……短絡的。機嫌取りなんて見苦しいだけだから。」
「違うよ。貸し借り、まだ終わってないんだ。」
りたちゃんの言葉を遮るのは初めてだった。
声の程度とか、ことばの選択とか、慎重にならないといけないはずだったのに、顔はとりあえず笑ってしまった。
それは思わず脳裏に浮かんだ、文也兄さんの、へらっとした笑顔を真似たものであって、
「りたちゃんが僕にくれた時間は、これで見合うかな、」
彼女との時間のなかで、一番、しまりのない顔だったと思う。
十一月の雨が冷たい。身体が芯から冷えびえするのに、頭がぽうっと熱い。慣れないことしたからかな。
りたちゃんに、うまく伝えてられているかな。
……頭、働かないや。眼鏡、かけてるよな……今。視界が、ぼんやり、する。
「バカとしか言いようないわ。」
ため息混じりにりたちゃんは呆れた。
続けて、「何時間、並んだの、」とつっけんどんに聞いてきた。
「ん……朝、から。でも……たいして、並んでないよ。傘、もってなくて、」
仰向けのまま喋るのは息苦しかった。無論、仰向けだけが理由ではない。
マンション前で僕の異変を察したりたちゃんは、室に引っ張り込むと、タオルとスウェットを渡してバスルームに押し込んだ。
「シャワー浴びないで、体拭くの。あと、それに着替えて。」
命じられるがままに着替えた。それが終わると彼女は僕をベッドに寝かせて体温計を口に突っ込んできた。
「三十八か。体、痛い?」
僕は首を振った。
「舌、出して。」
従順に口を開けると、りたちゃんはじっと観察して、
「インフルエンザじゃなさそうね。ただの風邪。」
安心とも呆れともとれるため息をついた。そして先ほどの、バカとしか言いようない発言に繋がる。
「おとなしくしてなさいよね、すぐ戻るから。」
そう言い残すとりたちゃんは、また上着を羽織り、財布だけ持って室を出て行った。
その後、僕は眠ってしまったらしい。無理もない。明け方まで飲んで、早朝から昼前まで『小夜』に並び、マンション前で一悶着あって、今に至るのだ。
色々あったけど、りたちゃんが口をきいてくれた。
疲れと安心がどっと押し寄せて、熟睡してしまったんだなと気づいたのは、目を覚ましたときだった。
窓の向こうが暗い。どのくらい寝ていたのだろう。今、何時だろう。手探りで眼鏡を探して、体を起こした。まだぽうっと重い。軽いめまいもする。
「口開けて、」
僕の起床に気づくなり、りたちゃんはまた体温計を突っ込んできた。
表情に出せないけど、驚いた。
部屋着姿に前髪をあげたりたちゃんは、いつもの濃い化粧を落とし、偽物の睫毛もカラーコンタクトも外した素顔で、堂々と僕の前にいる。
「そうすぐには下がらないか、」
なんてことなく呟く彼女の唇は、いつものような艶は無く自然な朱色でふっくらしていた。
黒い眸が映える奥二重に、いつもより少し色白にみえる肌。意外にも眉はちゃんと生え揃っていた。
「これ飲んで。」
「なに、これ、」
「今夜中のノルマ。」
ノルマ。と言ってりたちゃんが並べたのは、スポーツドリンクだった。2リットルのペットボトルが三本。
「喉乾かなくても、どんどん飲むの。で、何度もトイレ行く。明日日曜よ? 病院なんてどこも休診なんだから、自力で治すしかないじゃない。」
大量のスポーツドリンクよりも、ごく自然に泊まることになっていた展開に戸惑った。一人暮らしの女の子のベッドを占領するなんてとんでもない。ましてや病人だ。
「帰れるもんなら帰ってみなさいよ。服、全部洗濯機に放り込んだから。」
りたちゃんは冷たく言い放ち、問答無用で眼鏡を取り上げる。続けて、「自分で招いた事じゃない。ほんと、ばかみたい、」と、あのやわらかい口調で言い捨てた。
「ごめん、」
「なんで謝んのよ。」
「信じてほしくて、」
眼鏡が無いから、りたちゃんの顔が見えない。
素顔、イメージと違ったな。もっと子供っぽいと思ってた。もう少し観察したかったけれど、むしろ好都合かもしれない。
僕なりに、素直になれそうだったから。
「僕、誰かに頼まれたりとか、りたちゃんに命令されたからって一緒に居たんじゃ、ないんだ、」
本当は最初だけ、けっこう怖かったけど。心のなかで付け加えた。
「自分で、したくて、手伝ったんだ。りたちゃんと話、したくて、一緒に居たんだ。」
どんな顔してるかな。
まだ、怒ってるかな。迷惑かけてるし。ベッドも占領しちゃったな。りたちゃん、どこで寝るんだろ。風邪、うつしたらどうしよう。やっぱり帰ったほうがいいかな。ああ、服、無いんだ。虚ろな頭でいろいろ考えた。
「貸しにしてあげる。」
りたちゃんがぽつりと言った。
「あたしの看病、貸しにしてあげるから、また、ちゃんと返しなさいよ。」
ぼやけた小さな人影が僕を見ている。本当にどんな顔しているんだろう。好都合なんて見当違いだったかな。勿体なかったかもしれない。
困ったなあ、この借りは大きいや。
とりあえず家に連絡しなくちゃ。なんて言おう。