笑む人
スマホに届く、りたちゃんからのメッセージは質素だった。というより、堅かった。
可愛らしいスタンプも絵文字も絶対に使わないし、そのくせ常用漢字は極力使ってくるし、喋るときは「あたし」なのに文字にするときは「私」だし。普段の身形からは想像もできないような、例えるなら、お局のOLが作るような文面だった。
『仲村君依です。登録お願いします。』
教室での一件以降、僕が最初に送ったメッセージはこれだった。
返事はすぐにきた。
『あんたの名前、変換で出てこないのよね。読み方は「きみより」で間違い無い?』
これが件の、お局メッセージである。
そして彼女からの、最初のメッセージでもある。僕は精一杯言葉を選んで、間違いない旨を返信した。
『面倒だからキミにするわ。』
きっと大真面目だ。冗談でも茶目っ気でもなく、彼女は真面目に言っている。下手なことを言えば、また逆鱗に触れるかもしれない。もう一度慎重に言葉を選び、返信した。
『了解したよ。りたちゃん。』
りたちゃん。
特別彼女と親しくなったわけじゃない。
あの日以来、メッセージのやりとりをしようと、その内容は必要最低限なものばかりだったし、学校ですれ違おうとも僕が一方的に意識するばかりで、挨拶を交わすことも無かった。
『りた』よ、あたし。
どうしてあの時、彼女が苗字を名乗らなかったのかはわからない。
僕の名前が面倒だと言ったのと同じように、単に面倒だっただけかもしれない。
しかし少なくとも、こちらが『鞠河りた』というフルネームを知っていたのは、藤代くんからの事前情報があったからで、彼女からすれば、一度金銭の貸し借りをした程度の関係でしかないわけだ。彼女から鞠河の自己紹介が無い以上、下の名前で呼ぶしかない。
勿論勇気は必要だった。でも呼び捨てなんて以ての外だし、「りたさん」はちょっと違う気がした。
横柄で、傲慢で、人当たりがきつくて、いつも独りで、派手だけど実は才女で、メッセージの文面がお局のような彼女に対する「りたちゃん」は、要領が悪く女性の扱いを心得ていない僕なりの、精一杯のはからいのつもりだったのだ。
りたちゃん、と呼ぶことを、彼女は一切咎めなかった。むしろ無関心だった。自分で選んだ呼称なのに、僕の言う「りたちゃん」と、そしてりたちゃんから呼ばれる「キミ」は、どうもむずかゆくて、時々後悔した。
そんなことよりそれどころじゃない。
どうしよう。
「女の子と出掛けることになった。」
決死の面持ちで相談を持ちかけた僕の覚悟を、文也兄さんは祭りの報せとばかりに笑った。
こんなときに限って一番頼りになる藤代くんは、課外授業で日本にいない。第二候補かつ最終手段でもあるのが、この叔父しかいない自分を憾んだ。
「お祝いだな。笑美子と依世も連れて、今夜は焼肉行くか。」
「やめてよ!」
笑美子さんに連絡を取ろうとしたスマホを取り上げて、全力で拒否した。ひどい。二十にもなって女の子と出掛けるくらいでお祝いされるなんて、情けない。
女の子と出掛けることになった。
正確には、「鞠河りたに呼び出された」なのに、言い方を変えたのは別に見栄じゃない。
文也兄さんに、りたちゃんの素性を説明するのもまた面倒になりそうだし、女の子との外出が未知だったのも、事実だったからだ。
「で、どこ行くんだ?」「学校の子か?」「どんな子だ?」次から次へと、文也兄さんは好奇の眼差しで畳み掛けてくる。普段はそこそこ落ち着いているくせに、時折少年みたいになるのが、この人の長所であり短所だ。
「行っておくけど、文也兄さんが想像しているような…デートとかじゃないからね、」
りたちゃんの呼び出し目的は、例の必要最低限のメッセージ交換でそれとなく把握できた。
来月、りたちゃんの友人が県外から遊びにくるらしい。
友人が大の甘い物好きなので、訪れた際に東京で有名なケーキをご馳走したいのだが、なにしろ有名店は数が多い上、どれが相手の好みに合うのか判らない。
そこで、友人の好きだというメーカーのカフェオレと、まったく同じ物を愛飲している僕に白羽の矢が立ったのだ。
「だからたぶん、ケーキ屋巡りか、スイーツバイキングに行くんだと思う。」
「………それを世ではデートっていうんだがな。」
「『友人』って、彼氏かもしれないだろ、」
正直、全然乗り気でないわけではない。
彼氏にしろ友人にしろ、りたちゃん……あの鞠河りたに、ちゃんと歓迎したい相手がいると知ったとき、妙な好奇心が生じたからだ。
「じゃあ、何を相談しに来たんだよ、」
「だから服装とか、会話が途切れないコツとか…」
「下心ありきじゃねえか。」
「だから、そういうんじゃないんだってば、」
「だめよ文也くん、そんなふうにいじめちゃ、」
突如乱入してきたやわらかい声に、背筋が凍った。
振り向くと、どこから聞いていたのか、文也兄さんより一層目を輝かせた笑美子さんがにこにこしている。
わざわざ居ないはずの時間を見計らったのに、よりによって一番厄介な相手に聞かれてしまった。
「君依くんは、マナーとして相手をエスコートしたいだけなのよ。そういうことなら、文也くんより私のほうがアドバイスできると思うわ。」
この夫婦は、どうも甥の話を聞かない節がある。
得意になる笑美子さんの説明に、「おお、なるほど」なんて納得する文也兄さんを見て、諦めることにした。
「だからね、任せてちょうだい。」
変なことになる前に帰ろう、…なんて遅かった。
きらきらした笑顔で僕の手を包んだ笑美子さんは、両手でぐいぐいとひっぱりながら、
「予行練習よ。本番よりずっとおばさんだけどね。」と、目を細めた。
「もうこのあとは予定無いんでしょ? だから、今日は私とデートね。」
勘弁してくれ。助けて文也兄さん。
「じゃあ俺は依世とデートだな。」
救済の眼差しはまったく伝わらず、叔父は手を振って妻と甥を見送ってくれやがった。
笑美子さんとりたちゃんは、似ても似つかない。
それなのに、このデートに何の意味があるのだろう。
「君依くんっ、これこれ、これなんてどうかしら?」
りたちゃんなら絶対しないだろう笑顔を向けながら、りたちゃんなら絶対選ばないだろうジャケットを手に取り、笑美子さんは無邪気に言った。きれいめ、カジュアル、と言うのだろうか。ファッションに疎い僕からすると、良いのか悪いのかもわからない。それに比べて、彼女がこういった店に精通しているのは、正直意外だった。
「文也くんがね、学生の頃に着ていた系統に似てるの。」
店内は僕と同年代か、少し上くらいのカップルだらけだ。
彼らの目に、僕と笑美子さんはどう映っているのだろう。視界にも入っていない、というのが正解なのだろうけど、たとえば僕みたいな人間が見ていたら、の場合だ。
親子……は言いすぎだし、友達……はありえない。事実は叔母と甥だけど、しっくりくるのは姉弟か。まさか、恋人……背中から首筋辺りがぞわりとした。
「なんだかすみません、こんなに色々と、」
笑美子さんは先ほどの店で例のジャケットと、なかなか上等なブーツを買ってくれた。
靴はね、少し高いかなってくらいがいいの。物持ち良くすればむしろ安くつくもの。値段に躊躇した僕に、笑美子さんが論じた言葉だ。
「それにこの前、文也くんとね、君依くんの誕生日何もしてないねって話してたところだったから、ちょうど良かったの。私こそ、付き合わせちゃってごめんなさいね。」
服を見立てたあと、僕は笑美子さんの個人的な買い物にも同行した。
彼女はデパ地下でコーヒー豆とワインを購入し、予定が完了したころには、夕方六時を回っていた。
「ごはん、食べて帰ろっか。」
人懐こく尋ねる視線を拒めそうになくて首を縦に振ると、彼女は夫に連絡を入れ、その後、迷わず店を決めた。
「このコーヒーね、文也くんのお気に入りなの。私なんて何かしら用が無いとここまで足運ばないし、今日はありがとね。」
席に着くなり、本日の収穫にほくほくしながら笑美子さんは笑い、礼を言う。本当、あざといなこの人は。
「それでどう? うまくいけそう?」
注文が済んですぐに、笑美子さんは切り出した。
なんのことですか? 本当はわかっていたけど、とぼけた。
きっとこの人はまだ、木曜の予定を男女の第一歩と勘違いしている。仮にそうだったとしても、今日のこの強制的な模擬デートで学んだことなんて、何一つ無い。
「うまくいくも何も……、」
適当に返した態度に、笑美子さんは唇をアヒルみたく突き出して、不服そうな顔をする。
「肝心なのは気の持ち様よ。君依くんはひとの話を聞ける子だから、空気とか雰囲気なんて考える必要ないの。自然体でいれば良いだけ。問題は、あなたが苦じゃないかどうかよ。」
アヒル顔がすぐに綻びて、また無邪気に笑った。
「実際私は今日、君依くんと一緒に居て、苦じゃなかった。」
「それは、単純に、近親者だからじゃないですか、」
「あら、それなら今度の相手だって、単純に、同じ学校に通う同い年の女の子だわ。怖がる必要なんてないんじゃないのかしら。」
「……こんなお店知ってたんですね。」
話をはぐらかそうと、また適当な返事をした。
「結婚前に文也くんとよく来たの。まさかまだやってるなんて思わなかったけど。鶏の白レバ刺しがおいしいのよ。生のレバーなんて食べたことなかったけど、文也くんが教えてくれたの。」
意外にもぱっと顔を輝かせた彼女の反応に、僕はふう、とため息混じりに笑った。
「笑美子さんってさ、文也兄さん、大好きですよね。」
文也くんがね。文也くんはね。文也くんとね。この半日、彼女の口から何度聞いただろう。
馬鹿にしてるつもりも嫉妬しているわけでもない。なんというか、あっぱれだ。それを讃えて先日叔父に言った台詞と同じものを、彼女にも捧げた。
「ええ、大好きよ。私と結婚してくれたんだもの。」
この人は本当、あざといな。いっそ潔いくらいに。
若気の至りでも思い出の補正でもなく、僕は本当にこの人が好きだった。
それはもう気持ち悪いことに、まだ恋や愛がよくわからない小学生の限度ある知識のなかで、男女における欲求だってあった。
手を繋ぎたいとか、もっとお喋りしたいとか。今こうして、彼女とおでかけして二人きりで外食するなんて展開は、きっと当時の君依少年にとっては、最上級に値する欲求だったのだろう。
じゃあ、今、うれしい? わかんないよ、そんなの。
無意味に、自問自答してみる。
僕だってもう二十だ。好みのタイプだって変わったし、綺麗な人も可愛い子も、この世にいっぱいいるって知った。
笑美子さんは嫌いじゃないよ。優しいし面倒見もいい。でもそれとこれとは、話が別。なんでわざわざ、十以上も離れた既婚者、それも叔母に、いつまでも焦がれなきゃいけないのさ。それに、笑美子さんは文也兄さんの話ばっかりするじゃないか。
自問自答にたっぷりの言い訳を付け加えた。
じゃあ、今の君依の好きな女って、どんな女?
それこそわかんないよ。
恋なんて笑美子さんにしかしたことなかったし、それは秘密裏に失恋で終わったし、今じゃ彼女が苦手なくらいだし。
無理にでも挙げるとするなら、清純で優しくて落ち着いてて、痩せてるけど胸の大きい、年上だけど若く見える、「可愛い大人」な人がいい。
そんな女、現実にいるもんか。
わかってるよ、自分でもそんなの。だから絶対口にしないし、あえて好きなタイプなんてわからないと言い切る。結局僕は未だに、この元初恋相手の現叔母に、患わされているんだ。
自問自答と言い訳は、どんどん連なった。
「そういえばね、私が文也くんと初めて会ったのって、君依くんと同じ齢なのよ。」
ああもう、本当に、この夫婦は。
「さ、始めるわよ。」
りたちゃんはどこまでも鞠河りたで、ほんの少しでも何かを期待した自分に、平手打ちの一つでもかましてやりたい気分になった。
話は、三十分ほど前に遡る。
飯田橋駅に到着して待たされること、十五分。
「今どこ?」
「えっと、南北線の改札。」
「じゃあB3出口から上がってきて。」
電話でそんなやりとりをして指示通り動くと、階段の一番上で、りたちゃんは待っていた。
化粧はいつもどおりばっちりだけど、服装はいつもよりシンプルで、鞄類は持っていない。この時点でおかしいと気づくべきだった。
「こっち。」
誘導されるがままに、昼時の賑やかな神楽坂を昇ってゆく。ある程度の所で大通りから外れ、一棟のマンションにたどり着いた。
「あ、あの、りたちゃん?」
ごく自然にオートロックの番号を打ち込む彼女に、やっと声をかけた。
「大丈夫、ここ、あたしんちだから。」
いや、そうじゃなくて。なんでりたちゃん宅に来たの? え? なんで?
色々パニックになった結果、出てきた言葉は「ずいぶん贅沢な場所に住んでるんだね」だった。
「別に。学生マンションだし、払ってるのは親だし。」
ぴしゃりと、りたちゃんは言う。
「が、学校から近くていいね。」
下手な返しをしている間に、気づけば室で靴を脱いでいた。
人生初の、しかも一人暮らしの女の子の部屋だ。やましいことは何一つ考えずに今日を迎えたけれど、今は多少考えてもいいのではないだろうか。
待っているよう指示され正座したまま、部屋のなかを見渡した。
部屋は案外、ふつう、だ。
広さは七畳くらい。木製ベッドにテレビとパソコン、整理された本棚、シンプルな絨毯とソファ、中央にはテーブル。勝手ながら、もっとこう彼女らしい派手なインテリア類を想像していた。アニマル柄とか、黒とピンクの組み合わせとか。
「キミ、やっぱり手伝って、」
呼ばれた先で目にした光景に、僕の期待は一瞬にして消え去った。
片手で冷蔵庫を開けたままのりたちゃんの足元に、いくつか箱が積んである。箱はまだいくつか冷蔵庫の中にもあるようで、それはおそらく、いや、間違いなくケーキの箱だった。
ああ、なるほど。納得して冷静になっている間に、テーブルには焼菓子や生菓子がずらりと並ぶ。
そしてフォークとスプーンと、なぜかペンと大学ノートを渡された。
「……なに、これ。」
当然聞く。
「評価。」
また、ぴしゃりと返される。
「あんたなりに纏めてちょうだい。味とかインパクトとか。授業で取っているような書き方でいいわ。名前と見た目が一致しなかったら、聞いて。」
「これ、僕一人で食べるの?」
「あたしも一口ずつくらいは食べるわよ。確認はしたいし。半日使って、東京じゅう歩き回ったのよ? ちゃんと見定めなさいよね。」
すっかり忘れてた。この子は鞠河りただった。
そして、今に至る。
ケーキの評論はなかなかの苦行だ。ましてや、りたちゃんが集めてきたのは有名店の物ばかりで、半分は食べないと全体がみえてこない、繊細なケーキが殆どだった。「半日使って東京じゅう歩き回ったのよ。」その台詞も、追い打ちをかけてくる。
食べる、分析する、書く、また食べる。それを繰り返す正面で、りたちゃんはパソコンで何か作業をしていた。
「これ、結構好き。」
そう声をかければ彼女はすぐに手を止め、隣に寄って高評価の菓子を一口、僕の使っていたフォークで食べる。最初は戸惑ったけど、これが鞠河りたなのかと思えば四回目くらいで慣れた。
彼女の高評価の基準は、味のバランスだとか小難しいものではなく、僕の好みに合うかどうか、それだけ。その点は非常にやり易く、分析だけなら手間ではなかった。
問題は舌と胃だ。
レアチーズ、ガトーショコラ、モンブラン、ティラミス、エクレア、タルト、ミルフィーユ、ババロア……さすがにそろそろ辛い。
「たぶん…これ、今日中に全部は無理、」
罵られるの覚悟で脱落宣言すると、でしょうね、とりたちゃんは頷いた。
「今日は生菓子だけでいいわよ。マカロンとかシフォンは日持ちするし。」
足の早い物から手をつけるのは単なる癖だったけど、習慣に救われた。
安心したのも束の間、「今日は」というワードに気づく。この試食会はまた開催されるということか。
「焼菓子の次は和菓子もあるんだから。また空けておきなさいよね。」
開催されるらしい。りたちゃんは雑誌を開きながら、ここからここまでのは全部検証したいの、と横柄に言い切った。雑誌は情報誌らしく、都内のおすすめスイーツで全頁埋め尽くされている。今の僕には少々酷な絵面だ。
付箋だらけの雑誌からは彼女の熱心ぶりが窺えて、思わず感心してしまった。
「こんな雑誌、売ってるんだね、」
「あんたから借りた千円で買ったのよ。」
補足情報から、そんなこともあったなあと思い出す。あのときは、まさかこんなことになるなんて夢にも思わなかったな。
「りたちゃんって、甘い物、苦手なの?」
なんとなく、会話したくなった。
「嫌いなわけじゃないけど、生理前ってあまり食べたくなくなんのよね。」
「えっ、うちの妹は生理ごろ、チョコレートが無性に食べたくなるって言うけどなあ、」
ちゃんと会話を繋げてくれたことに安心して、僕は少し饒舌になっていた。
「あ、でも母さんは塩辛い物が欲しくなる、って言ってた。漬物とか。」
そのせいか、彼女から向けられる微妙な表情に気づけなかった。
じとっとした目つきで瞬きをしながら、今度はりたちゃんが聞いてきた。
「あんたってさ、彼女と一緒に下着売り場入れるタイプでしょ、」
突然された質問は、今の会話内容とはあまりにも縁遠く、困惑した。
「彼女……いたことないからわかんないけど、女の人の買い物に付き添ったり待たされるのは、わりと平気だよ。」
「そういう意味じゃないわよ、ばあか。」
キミって本物ね。肘をついてちょっとだけ呆れた様子で、りたちゃんは笑った。
鞠河りたに出逢って三週間と少し。
睨まれること、見下されること、威張られること、畏縮すること、多数。
りたちゃんが笑ってくれた。
ほら、口より手、動かす。余韻にも浸れないくらいすぐに、りたちゃんはいつもの口調で命令してきた。
慌てて残り二つのミルクレープとオペラにとりかかり、そこからはあまりりたちゃんを見ないように頑張った。また、怒られるのも嫌だったし。
同じ週の土曜と、次の週の火曜と木曜、更に次の週の火曜、同じように試食会は行われた。最初は動揺した彼女の室への訪問も、あまり気にならなくなっていた。
初日の生菓子はたくさん時間を取って、一日で評価しきったけど、焼菓子と和菓子は日持ちの問題と、りたちゃんの都合もあって、短時間を何日かに分けて行われた。
「満腹になって正統な評価にならないのも困るし。」
急かさない理由を彼女はそう語る。
実のところ、ノートはまだ完成していない。僕のやりかたは、まずは構成だとか見易さなんて全部無視して殴り書き、あとから清書としてまとめる方法だ。だから試食(味見は二人でしないとなので。)とメモはりたちゃん宅で、清書は自宅で一人細々とやっていた。
試食会を二回終えたあたりから、りたちゃんは学校でも、ちょこちょこと会話を交わしてくれるようになっていた。無論、一緒にランチだとか帰宅なんて無かったけれど。
すれ違う時に「今、帰り?」とか、講義が一緒になれば「ここ、空いてる?」と隣に座ったりとかだ。
僕から話しかけることがあれば、彼女はそれなりに返事してくれた。たいていは、例の試食会関連の話ばかりだったけれど。
「なんか横取りされた気分。」
拗ねた子供みたく藤代くんは唇を尖らせた。
事の発端はほんの数分前。
常習的にうちの大学を訪れる彼と、食堂で一緒にいた時だ。りたちゃんに声を掛けられ、マンションの鍵を渡された。
「木曜、遅くなるの。勝手に入っていいから先始めてて。夕方には戻るから。」
極めて怪しい光景に、藤代くんは見事勘違いしてくれた。
隠しているつもりなんて無かったけど、タイミングが合わず明かせないでいた彼女との経緯を、順を追って説明した。
「へえー、それは面白い展開ですね、先輩、」
顔は笑っているけれど、僕にはわかる。高校を卒業して以来、彼がこの呼称と敬語を使うときは、からかっているかへそを曲げているかのどちらかだ。
「もしかして狙っていたの? 鞠河りた。」
黙っていたことが問題かと思ったが、「横取り」発言にぴんときた。
これ以上の誤解も困るし、できることがあるのなら協力したい一心で、そういった関係は一切無いし今後もそのつもりは無い旨を伝えた。
「僕は鞠河さんに横取りされた気分なんだけど?」
悪戯にほくそ笑んで、反応に迷う意地悪を囁いた。
どんなしぐさも冗談も絵になる藤代くんの美貌が憎い。でもそこからはいつもの彼に戻ってくれた。
「ま、安心したよ。」
安心? 彼が言うに、僕はこの二週間ほどで少し変わったらしい。
たしかに、最近甘い物を摂り過ぎてるし、少々ふくよかになったかもしれない。
「ちがうちがう。そういうんじゃないよ。」
藤代くんは声をあげて笑った。
「うまく説明できない部分なんだ。手のしぐさとか、声の具合とか。本質は仲村くんのままなんだけどね。」
僕の身に起きた不明瞭な変化を、穏やかに報せてくれた。ただし、それが良い傾向なのか悪い傾向なのかは判らない。
定かなのは、原因が鞠河りたということだ。
「藤代くんから見て、今と前の僕、どっちが良いと思う、」
率直に聞いた。
「僕に聞いても意味無いよ。公平じゃないから。」
はっきりとしたまばたきを一度挟み、藤代くんは声をひそめた。
「僕は仲村君依を嫌いになれない。」
彼の二重瞼の幅は広い。あらためて見ると彫刻のような顔立ちだ。
なぜか不意に、りたちゃんを思い出した。
彼女は偽物の睫毛とカラーコンタクトを使って、あの顔を作り出している。でも藤代くんの睫毛は本物なのに長く、眼の色素は自然に薄い。立場無いなあ。
そしてこの瞬間、それまで気にも留めなかった、本物の彼女を見たくなってしまった。
「刷り込みって知ってる?」
声のトーンを戻して藤代くんは聞いてきた。
「知ってるよ。ヒヨコとかが生まれてすぐにってやつでしょ?」
「そう、それ。僕はきみに対して刷り込んでいるからね。どっちが良いか悪いかなんて、判別できたとしても絶対「良い」って言い切るんだよ。」
「なにそれ。僕からするとえらく都合が良いね。」
思わず笑ってしまった。藤代くんも平然と、「でしょう?」なんて笑い返してくる。
「でも、刷り込みなら害は少ないんだよ。むしろ厄介なのは、後から関係が良くなってしまう場合さ。最初から盲目なのと、徐々に盲目になるのとでは度合いが違うんだよ。それがお互いなら、尚のことね。」
これは、忠告だろうか。
そうとれなくもないけれど、慎んだ。少なくとも悪意は見当たらなかったからだ。
それを裏付けるように藤代くんはすぐに話題を変え、
「そういえば、サヨのチョコレートは試した?」と聞いてきた。
スイーツ好きなら必見だよ。どうやら有名な店らしい。
「今度、りたちゃんに話してみるよ。」
「りたちゃん?」
しまった。
つい口が滑った。赤面するころにはもう、藤代くんはにやにやと悪い目つきになっていた。
「いよいよ妬けてきちゃうなあ。……ねえ、仲村くんって兄弟とかいたっけ?」
「七つ下に妹がいるけど、」
「七つ下の…妹かあ。」
少し残念そうに言う。
「紹介しようか?」
今度は僕がにやにやした。
「遠慮しておく。年上が好きなんだ、僕。」
遠慮の仕方も台詞も切り返しも、彼はどんなときでも画になる。
忠告、なのかもしれない。
本物のりたちゃんが見たい。
藤代くんの、端整な顔を目の当りにした瞬間生じたこの欲求は、彼のいう、「厄介な場合」なのだろうか。
りたちゃんが可愛い女の子かどうかはわからない。
偽物の睫毛と眼球、ぐるりと囲むアイライン。細い眉、艶を乗せた唇、オレンジ色の頬紅。
雑誌を開けばどこにでもいる判を押したような顔が、りたちゃんだ。それなのに鞠河りたは普通じゃない。
断言しよう。男女の関係を彼女に望んではいない。
でも僕はそんな、量産型でありながら普通じゃない彼女の内面を、できることならその厚い化粧の下に隠された素顔も、見てみたいと思い始めていた。
ばあか。キミって本物ね。
肘はついていたけれど。ちょっと呆れてはいたけれど。言葉はばかにしていたけれど。どうしてもあのときの顔が、もう一度見たかった。