理由を損ねた無難
まさか大学生にもなって女の子にカツアゲされるなんて、夢にも思わなかった。
情けないを通り過ぎてこれは話の種になるのではないか、と目論んだくらいだ。
これから先、僕の残りの六十年くらいのつまらない人生において、少しでも他人を愉しませる話題の一つになるのでは、と。
……いいや、やっぱりだめだ。やっぱり、情けない、それに尽きる。買おうか悩んでいた雑誌を諦めて、潔く帰宅することにした。
「千円、貸してくんない?」
小さな女の子だった。幼い、ではなくて小さい。
成人男性としては幾分小柄な僕が、見おろせるくらいの小ささだったのに、言われるがままに千円札を差し出してしまったのには、理由がある。
彼女が、僕とはまったく無縁の人種だったからだ。
ほとんど金に近い茶髪に、存在感たっぷりな偽物の睫毛。小さな体には不釣合な、派手に露出した扮装。そういった類の女の子に耐性の無い僕は、その若さ全開の身なりにすっかり畏縮してしまった。
「千円くらい持ってるでしょ?」
立ち読み中の雑誌を持ったまま硬直状態の僕に、女の子は追い打ちをかけてくる。気づけば、おずおずと要求を飲んでいた次第だ。
「助かるわ。」
言葉ほど感謝していない様子で、女の子はくるりと背を向け、小走りで駆けていった。
昨日さあ、本屋でカツアゲされちゃったよ。しかも中学生くらいの女に。
明日学校で、おちゃらけながら友人たちに話す自分を想像してみて、やっぱりやめておこうと再度諦めた。僕は、それが許される枠の人間ではない。
今までの人生において僕はいわゆる、目立つとか、もてるとか、いけてる、なんていうグループに属したことが一度も無い。かといって、そういった「いけてる」級友たちにいじめられた過去も、いじられた経験も無い、無難中の無難な地位に居座り続けた部類の人間だ。
小学校入学から高校卒業まで、あだ名は一貫して「仲村君」(無論、あだ名でないことは百も承知だ)。
ニュアンスとして「仲村くん」ではなく、「仲村君」のほうの仲村君だ。
「仲村くん、」
藤代くんは僕を「仲村くん」のほうで呼ぶ、唯一の友だちだ。ついでにいうと、友だちという括りでも唯一の存在でもある。
僕とは違って背が高く、物腰の柔らかい品のある人だけど、高校在学時にどういうわけか懐かれ、卒業した今でもたまに会ったりしている。
きいてよ、ひどいんだ。昨日さ、カツアゲされたんだ。
信じられる? しかも中学生くらいだよ? してきたの。
ほんとう、自分が嫌になるよ。
彼には昨日の事件を、こう話すつもりでいた。想像してみたおちゃらけた態度ではなくて、自己嫌悪にまみれた開き直りの態で。それは彼が友だちであって、大学の友人たちよりも重要な人間であるからだ。
僕のなかの友人、という人間関係は、知り合い、と同じくらい意味が軽い。
「きいてよ、ひどいんだ、」
いざ切りだしたものの、冒頭も話せていないところで、突然背後から声をかけられた。
「ねえ、」
聞き覚えのあるぶっきらぼうな声に振り向くと、見覚えのある派手ないきものがいる。昨日の女の子だ。
「これ、返すわ。」
まばたきをする度にぱちぱちと上下する偽物の睫毛と、しっかり縁どられた茶色い眼球に、僕はまた恐れおののき言葉を失った。差し出された右手には、千円札が抓まれている。
「借りたじゃない、昨日。忘れた?」
頭悪いのね。げんなりと溢した彼女は出し抜けに僕の腕を掴み、乱暴に千円札を握らせると、それ以上は何も言わず去って行った。
遠目で見ても目立つ派手な後姿を眺めながら、藤代くんがきょとんと尋ねた。
「あれって、マリカさん?」
今の出来事よりも、彼女自体に驚いた様子だった。
「知ってる人?」
僕も驚いて聞き返す。
「知らないの? 僕らと同じ高校だったよ。学年は仲村くんと一緒だったはずだけど。」
知らないのは無理もない。同じ高校出身者、たとえ同学年だったとしても、僕らの母校は男女併学制だ。在学中、女子生徒と一度も関わらないことだって、珍しくない。
「男子部の下級生の間でも、有名人だったんだけどなあ、」
藤代くんは納得のいかない様子で小首を傾げた。彼は僕よりずっときさくで人付き合いも上手いし、何より顔がいい。
「意外な知り合いがいるんだね、」
きっと彼女のことも、広い交流の一部なのだろうと感心すると、彼は首を振った。
「彼女とは喋ったこともないよ。」
「だって今、名前で…」
「ああ、マリカって苗字だよ。蹴鞠に河で鞠河。苗字が珍しいのも、有名たる所以なんじゃないかな、」
蹴鞠に河で『鞠河』。
スマホを取り出した藤代くんは、律儀にも文字におこして教えてくれた。
僕はもっと、彼のこういう部分を見習うべきなのだろうと、つくづく思う。
鞠河りた。
藤代くんの言うとおり、彼女はちょっとした有名人だった、らしい。
そこそこな偏差値である僕の出身校は、中高一貫の男女併学制で、彼女はそこの女子部の生徒だったという。
偏差値同様、そこそこな学力の生徒たちが集まるのだが、どの世界にもどんな学校にも、身なりが派手だの風紀に引っかかる人間だのは一定数発生するもので、鞠河りたは正にその一人だった。
しかし、彼女が有名人とされた理由はそこじゃない。
「教師泣かせとは聞いていたけど、まさかこんなにランク下げてたなんてね。」
僕と同じ校舎から出てきた鞠河りたについて、藤代くんはそう意見していた。
高等部二学年時に編入してきた彼女は、無断欠席・早退・遅刻は常習。生活態度・授業態度は最悪。そして風紀検査ブラックリスト常連である一方、中間及び学期末試験の成績上位も常連という、生活指導を手古摺らせる優等生として、有名人だったのだ。
成績優秀者ゆえに、当時の担任は頭を抱えていたらしい。
せっかくの有名大学への有望生徒だ。素行が良いとはいえない分、へたに刺激して問題でも起こされたら堪ったもんじゃない。
生活態度や風紀に関してはある程度大目にみていたというのに、最終的に彼女が進学に選んだのは、当時下の上レベルの成績だった僕と同じ、まさに「ランクを下げた」大学だった。
聞けば聞くほど特殊な生徒だったようだけど、それよりも、それすら耳に入ってこない自分の交友関係の狭さにも驚いた。
藤代くんから詳細を聞いて以来、僕は学校で彼女をよく見るようになった。
正確には、目で追うようになっていた。派手なくせにどうみても中高生にしか見えない小ささとか、素行が悪いという噂を持つわりに、ちゃんと千円を返してくる謎の律儀さとか、理由は色々あるけれど、確実にいえるのは、それが色らしい意味合いでは無いことだ。
鞠河りたは、いつも独りだった。
講義のときも、たまに見掛ける食堂でも、すれ違うときも、帰り道も、友人らしい友人と居る場面を目にすることは、一度も無かった。
大学生の単独行動は、特別珍しいものではない。ただ僕の勝手な見解で、いかにも『今どきの若者』といった扮装をしている人間というのは交友関係が広く、いつでも友人たちに囲まれているイメージがあったのだ。
自慢にもならないが僕は友人関係が下手だ。
特に三人以上の同時親交が、苦手でしょうがない。今この発言をしていいものか、とか、自分の立ち位置はどうなのか、とか、自分はこの場に必要なのか、なんて考えてしまって、どうも疲れてしまう。
例外として、たとえば藤代くんみたいに、常に一対一で、むこうからぐいぐいきて、犬が懐くみたいに(褒め言葉だ)目に見える好意を向けてくれる相手なら、友だちになれる。
きっと僕は、大した人間力も無いくせに相手を選ぶ、厄介な奴なんだ。
そんな僕にさえ、この大学という場所ではその場しのぎの薄い人間関係があるというのに、鞠河りたはいつも独りだった。
「学校じゃ僕なんて、独りみたいなものだよ。」
藤代くんと知り合ったばかりの頃、言われたことがある。
もう三年以上も前のことなのに、この数日鞠河りたを目で追う内に、なんとなく思い出した。
彼は同い齢だけど、入学した年に一年間休学していたから当時は後輩で、当初は茶化しているのか真面目なのか、「先輩」なんて、笑顔を向けてきたものだ。
そんなきらきらした彼の存在がどうもむずかゆくて、頼むから「先輩」はやめてくれとお決まりのやりとりをしているうちに、打ち解けていた。
容姿も要領も良く、はたから見る限り教師とも級友とも人間関係をそつなくこなす彼が、なぜ僕に懐いてくるのかが不思議で、それとなく聞いたら先ほどの返事があった次第だ。
「藤代くんの周りには、いつも誰かしら居るように見えるけど、」
「だからさ、同じなんだよ。きみと。」
放課後だったか、昼休みだったかは忘れたけど、とりあえず紙パックのカフェオレを吸いながら、彼の話を聞いていたような気がする。
「自分から、ひとりな節、あるでしょう、」
彼のいうことは少し解るようで、多少難しかった。
「おんなじだから居心地良くてさ。」
恥ずかしげも無くにこりとすると、藤代くんは僕のカフェオレを一口奪って、無難なくらい甘いよねこれ、と、もう一度笑った。
「個人的には、世界で一番おいしい飲み物だと思ってるよ。」
「格安だなあ、仲村くんは。」
コンビニなんかで百円程度で売ってるこの飲み物を、僕は今でも愛飲している。
次に鞠河りたと顔を合わせたのは、大学のエレベーター内だった。
十三階の教室に向かう途中、二階から一人で乗ってきた彼女と視線が交わり、逸らすタイミングを逃した僕は、反射的に軽い会釈をしてしまった。
「………。」
わかってはいたけど、無視された。
彼女は十一階のボタンを押すなり、腕を組んで壁にもたれ掛る。三階、四階、五階……エレベーターはどの階にも止まることなく、ゆっくりと上昇してゆく。
……勘弁してくれ。
緊張感に苛まれながらも僕の視線は、相変わらず目立つそのいきものを、眼鏡の隙間から観察していた。
肩と鎖骨が露出した大胆なデザインの長袖に、短いひらひらしたスカート。底の厚い靴のお陰か、今日はあまり小柄さが際立たない。
長い偽物の睫毛に注目したところで、茶色い眼球がぎろりとこっちを向いた。
「……なに、」
い、いえ、すみません。また反射的に声が出た。
ふん、と鳴らす彼女に威嚇された僕は、そこからエレベーターが開くまで床と睨めっこ状態だった。
「あんた、気をつけたほうがいいわよ。案外ばれてるから、それ。」
降りる間際、鞠河りたは忠告をしてきた。
ぎろりとされた瞬間の尖った感じでも、千円札を返された時のげんなりした雰囲気でもなく、しいていうならやわらかい口調だった。
一人残されたエレベーターのなか、鞠河りたの立っていた場所で、何かが落ちているのを発見した。
手のひらに収まる水色の物体を拾い上げると、丸みをおびた満面の笑みがこちらを向く。ドラえもんだ。Dec.19と刺繍されたハートを抱えた、ドラえもんの小さなぬいぐるみだった。
外は雨。今日は床が汚れやすい。このエレベーターもいずれ汚れてしまうだろう。
無理やり理由を作った僕は、ドラえもんをそっと救助することにした。
「ずいぶんと可愛い趣味してんのな、」
ティッシュでドラえもんを拭う僕を見て、文也兄さんは茶化してきた。
「大して汚れてないけど、他人のだからさ、これ。」
いいわけを盾に、返答になってない返事をする。
「なんだ、ついに彼女でもできたのか?」
確かに、こんなものを所持している男なんてそうそういないだろう。文也兄さんは更に愉快な面持ちで、めざとく突いてきた。
「そんな面白いことあったら、真っ先に報告してるよ。」
言ってて虚しくなる僕に、文也兄さんはけらけらと笑っていた。この人は、二十年間女性の影が無い僕の身の上を知りながら、こういう話をしてくる。
文也兄さん、なんて呼んでいるけれど、実際彼は僕の叔父だ。
母の齢の離れた弟で、僕とは十三しか離れていない。
しかも彼が上京してから結婚するまでの九年間、仲村家に同居していた経歴もあるので、僕にとっては本当に兄のようなものなのだ。
「まあ、俺が嫁さんと初めて会ったのも、おまえと同じ齢だったからなあ。」
「なんのフォローにもなってないよ。」
朝から降り続ける雨のせいか、十月の頭だというのに今日はやけに冷える。二人分のコーヒーを淹れてくれた文也兄さんは、それと一緒に紙袋を手渡してきた。
「今回はどこ行って来たの?」
「愛媛。笑美子が、瀬戸大橋線乗ってみたいってうるさくてな。」
今日の目的はこれだ。先日旅行から帰ってきた叔父夫婦からの四国土産を、学校帰りに受け取るよう、母から頼まれた。
叔父夫婦にはまだ子供がいない。
そのため連休が重なるものならば、すぐに二人で遠出する。
今回は愛媛、前回は北海道、前々回は広島…とにかくやたらと夫婦旅行にでかける二人は、その際、必ずと言っていいほどぬいぐるみを買ってきた。ご当地のものだったり、全然関係ないペンギンのぬいぐるみだったり(なぜか観光地の土産売り場には、何の関連性も無いぬいぐるみがあるものなのだ)。
いつもは自分たち夫婦用に購入するのだが、今回渡された紙袋のなかには、土産菓子と一緒に仲村家用にも一つ、それらしきぬいぐるみが入っていた。
「ああそれな、愛媛のご当地キャラなんだとよ。よく知らねえけど有名みたいでさ、笑美子がずっと欲しい欲しい言ってたから、まあ、それも旅行の目的みたいなもんなんだわ。」
黄色くて真ん丸い、腹巻をまいた鳥のようなぬいぐるみについて、文也兄さんは楽しそうに説明した。
「兄さんってさ、笑美子さん、大好きだよね。」
旅行の行先を決めるのは、いつだって奥さんの笑美子さんだ。
しかもその目的はたいていくだらなくて、北海道のときは「有名な動物園に行きたい」だったし、広島のときは「お好み焼きが食べたい」だったと思う。そして今回の愛媛は、まさかのご当地キャラだ。
夫婦仲が良いのは前々からわかってはいたけれど、妻のどんな要求も受け容れ甘やかす叔父に、僕は素直な感想を述べた。
「誰だって、自分の嫁さんが一番可愛いもんだ。うちの子一番、って言うだろ。」
「ペットに使う言葉だよ、それ。」
間髪入れずに指摘すると、兄さんは僕の額を指ではじいてまた笑った。
「つうかおまえ、砂糖とミルク入れすぎだろ。もう別物だぞ、それ、」
「僕はカフェオレが好きなんであって、コーヒーはそれほどじゃないんだよ。むしろ、砂糖も入れないでミルクどばどば入れる兄さんのほうが、理解できないよ。」
土産話に近況報告、くだらない言い争いを交わしているうちに、買い物袋をぶらさげた笑美子さんが帰ってきた。
「あら、君依くん、いらっしゃい。てっきり依世ちゃんが来ると思ってたわ。」
僕を見るなり笑美子さんは、迎え入れたと同時に妹の名前を出した。
「依世はこの時間、まだ学校ですからね。」
やんわりと、自分に白羽の矢が立った理由を説明する。実際僕よりも妹のほうが、笑美子さんと仲が良い。
正直なところ、妹と違って僕は笑美子さんが苦手だ。
決して嫌いなのではない。むしろ、苦手である理由はその逆にある。
恥ずかしい話、彼女は僕の初恋の相手だった。
十三離れた叔父が、初めて笑美子さんを連れてきたのは、僕が九歳の時。
子供は存外めざといというけれど、少なくとも当時小学生の僕に恋人なんて概念は全く無くて、兄のように慕う叔父の隣で笑う女友達に、およそ三年もの恋心を費やしてしまったのだ。
それでも、さすがに中学生にもなると、男女の関係は見えてくる。僕の目が覚めた二年後に、晴れて二人は夫婦となり、この初恋は完全に終わった。
問題はそこからだ。僕の恋路が哀れな末路を迎えようと、それと同時に初恋の彼女は、義理の叔母になってしまったわけだ。
切ろうにも親族である以上切れない、忘れようにも忘れられない、意識するなというほうが無理な話だ。きっと僕が年相応に恋人を作ったり、新しい恋を始められれば話は別だったのだろう。
でも、僕はだめな男だ。恋人どころか、女友達だって出来やしない。男ばかりの環境に身を置いたのも自らの選択だったし、それはきっと、これから先も変わらないのだろう。
家族以外の女性と関わらないでいると、どうしても笑美子さんを意識してしまう。
子供好きな笑美子さんは新婚当初から、僕ら兄妹をとても可愛がってくれた。特に妹の依世とは、動物園や遊園地へしょっちゅう遊びに行っていたし、妹も笑美子さんによく懐いていた。
「たまには君依くんも一緒に行きましょうよ。」
そんな彼女の誘いを、僕はいつも何かにつけて断っていた。テストが近いので……とか、部活が忙しくて……とか。
「あらまあ、残念。」
正直笑美子さんはあまり美人じゃない。
しかし見方によってはあざといその仕草と、愛嬌たっぷりの笑顔は、恋愛経験が失恋しかない僕の心臓を縛りつけるのに、充分効果的だった。
そんな悶々とした思春期がもたらした後遺症は、成人になった今も僕を患わせ、彼女との間に一定の距離をとらせている。
帰宅後、右手に例のご当地キャラを、左手にドラえもんを持って見比べてみた。両方とも布がやわらかくて、フォルムが丸くて、表情は違えど、どこか愛らしい。
三十路を過ぎた笑美子さんにしろ、あの鞠河りたにしろ、女の人はこういったものを好むのだろうか。
女の子ってわからないや。呟きにもならない声をこぼして、眼鏡を外した。歪んだ視界のなかで、雨音がよく聞こえる。
二度あることは三度ある。それなら、三度目のあとに四度目があろうと不思議じゃない。それでも、あの日から一週間もしないうちに、それを経験するとは。
また雨の日だった。
講義終わりに購買でいつものカフェオレと、おやつのアップルパイを買って休息スペースに向かう途中で、前の講義のノートが無いことに気づいた。
結構ぎっしりと書いたノートだ。持ち込みが許可される試験を行う課目において、あのノートの紛失は相当の痛手である。さっきまで居た教室だろうか。
十一階まで戻るのは少々億劫だったけれど、試験のためにはいたしかたないと、降りてきたばかりのエレベーターに、もう一度乗り込んだ。
閑散とした教室に彼女は、鞠河りたは一人でいた。
入口から覗く僕に気づかず、必死なようすで何かを探している。しゃがんで机の下を見渡したり、収納スペースに片っ端から手をつっこんだり……。
もしかして……、と、件のドラえもんが脳裏に浮かぶと同時に、鞠河りたと目が合った。
蛇に睨まれた蛙みたく不自然な硬直を挟み、僕は足早に教室から逃げ出した。
が、エレベーターを待っている間にあっけなく御用となった。
「なんで逃げんのよ、」
むしろなんで追いかけてくるんだよ。
言い返す勇気なんてあるわけ無く、腕を掴む鞠河りたに畏縮しながら、当たり障りない嘘をついた。
「い、忙しそうだったから、」
「これ、あんたの?」
怯みつつ振り返ると、僕を捕獲したままの派手ないきものは、鞄から見覚えのあるノートを取り出した。探していたノートだ。
自分の物であると頷くと鞠河りたは腕を離し、ふうんと鼻を鳴らしながら何枚か頁をめくり眺めつつ、やがて言った。
「結構緻密に書いてんのね。表現は義務教育並、とても頭が良さそうにはみえないけど、分析と構成は悪くないわ。筆跡もまあまあ、男にしては見れたものね。」
微妙なラインだが、たぶん褒めてくれているのだろう。
「あの、これ、」
ここぞとばかりに、僕も彼女の物と思われるドラえもんを取り出した。差し出された水色の物体を見るなり、鞠河りたの形相が変わる。
「あんたが持ってたの?」
「ひ、拾ったんです。エレベーター、あ、あのとき、床、雨だったし、」
今まで見たなかで一番怖い顔だ。身の潔白を証明したいがために変な日本語で弁解しながら、購買の袋を盾にした。
すごまれ、乱暴にドラえもんを取られ、次は殴られると思いきや、鞠河りたは手を止めた。
何やら観察するように、僕を見ている。
「よく甘い物を甘い物で飲めるわね…」
何のことか、すぐにはわからなかった。彼女の視線の先で、中身の透けた購買の袋が揺れている。
アップルパイとカフェオレ。きっとこの組み合わせについてなのだろう。
「え、あ、…うん。けっこう好きだから、」
なんとか話題を切り替えられないかと、話を合わせた。
「じゃあ、結構食べられる?」
また、何のことかわからなかった。把握の鈍い僕に、鞠河りたはまた苛立ち始める。
「そこそこ腹に入るかって聞いてんの、甘い物。」
「そ、そこそこ、なら。」
「じゃあ今度の木曜、付き合ってくれない?」
「え?」
「十二時に飯田橋。」
把握が鈍いのは、僕だけのせいじゃないような気がしてきた。
状況をまとめると、たぶん彼女は、今週の木曜日、十二時に、飯田橋へ呼び出している。
定かではないが、もっと直球にいうなら唐突なんてもんじゃないおでかけのお誘いだ。この鞠河りたから。
「その日は授業…」
「環境法学でしょ? あたしも取ってるもの。あんな授業、レポートだけで充分よ。」
最後の砦もあっけなく突破され、完全に拒否権を失った。
「『りた』よ、あたし。これ、連絡先。」
僕のノートの最後の頁に、手際良く連絡先を記した鞠河りたは、手渡しながら簡潔すぎる自己紹介をしてくれた。そして昇ってきたエレベーターに一人だけ乗り込んで、最後に、
「朝食も昼食も抜いてきなさいよね。」と、言い残して去っていった。
嵐のような出来事に、ただただぽかんとするしかない僕は、自分の身に起きた事の重大さをもう一度整理して、把握して、悪い夢じゃないのかと確認して、最後はその場で頭を抱えてしゃがみこんだ。
どうしよう。
女の子と出掛けることになった。