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第九十八話

「ライアン、そんなにくっついてたら俺が見えねえよ。それに熱いだろう?」


「何、言ってやがる! 俺の期待を一身に背負いこんだ、ふわふわパンなんだぞ?

 俺がどれだけ尽力したと思ってんだ」


 尽力も何も、干しブドウを提供してくれたのと粉挽き直しただけじゃん。

 そりゃ一回、ミラさんにポイ捨てられるという悲惨な目にあってはいるけどさ。どんだけ、思い入れがあるんだよ!


「これ実験だからな。全部、ライアンに食わせるわけにはいかないんだぞ?」


「な……んだと?」


 焼きたてて温かい内に全部食べてしまったら、冷めてもふわふわなことが証明できないだろ? というか、一度冷まして無駄な蒸気を逃がさないと、まともに切り分けることもできないかもしれないのだ。


 表面が全体的にキツネ色に焼けてきたな。

 切り込みを入れた部分は綺麗に割け、薄いキツネ色になっている。

 たぶん、あと数分だろう。

 なぜこんなに慣れているかというと、パン焼きは数少ない兄貴の成功例のひとつであるからだ。


 兄貴が作ったものでヤヴァイ物といえば、一番にレールガン。

 業務用のデカい発電機にトランスとかいう機器を電車のレール二本に繋いでぶっ放した、アレだ。

 アレは本当にヤバかった。家の庭から放って障壁にしていたドラム缶を貫通して、隣が空地側のブロック塀を木っ端微塵に破壊。

 そのお陰で鉄筋の入っていないブロック塀の手抜き工事が発覚して、業者にタダで直してもらえたのは兄貴にとっては幸いだったろう。

 ただ、母と普段は単身赴任で日本全国や世界中を飛び回る父が激怒したのは言うまでもない。俺や弟は、そういった大物は見るだけで手を出さないから、とばっちりはなかったけどね。


 違う意味でヤバかったのはアレ。

 兄貴史上最悪の出来事だった、アレ……なんだっけな、そう、魚醤だ!

 あれは確か、兄貴が高校生の頃か。

 自室で魚醤を作るという暴挙に出て、発酵の始まった漬物甕の臭いこと臭いこと!

 家中がその匂いで満たされ、涙が止まらなかったんだ。しかも、その匂いが近所にまで漏れて……、大騒動に発展したんだよなぁ。

 それでも左隣の加藤さんだけは、暴虐の限りを尽くすガキ大将な娘さんこと玲奈姉ちゃんのことがあったからか、最たる被害者の俺たち三兄弟が何をやっても許してもくれた。

 でも、俺や弟は特に何か仕出かしたりはしていない。全部、悪いのは兄貴だ。


 まぁ、そんな兄貴だけど、今回のパン焼きの知識と実演には感謝しているぜ。

 ありがとう、兄貴! 元気でな。



「取り出して、しばらく放置!」


「なんでだよ、食わせろよ!」


「焼き上がりもマズくはないんだけどさ。中に篭っている蒸気が適度に抜けた方が旨いんだって」


「なら、仕方ねえか……」


 不満たらたらなライアンだが、ここは少し我慢してもらうとしよう。

 見た感じでは上手く焼き上がっていることは間違いがない。こうして上手くできた以上、これを普及させる必要がある。

 小麦粉に関しては失敗するつもりもなかったので一定量買い込んであるから、あとは挽き直しが必要なだけだけど。それは良いとして、だ。

 問題は酵母種だな。こっちには密閉容器がないのがネックなんだよな。さて、どうしたものか?


 木で自作する? 漆のような樹脂があれば良いんだけど、それでもずっと入れておくのは良くないだろう。

 ガラス製品はグラス類しか買っていないので、俺の手元には存在しない。今、滞在しているフェルニアルダートの市場で買い漁るという手もあるっちゃ、ある。

 当分は手持ちのグラスに分け入れて、適当に蓋でもしとこうかな。その上で、相棒に『収納』しておけば、無駄に発酵が進んだり、乾燥したりすることも防げるかも?

 そうだ、そうしよう! 今更、外に出ていくのが面倒というのもあるし、ね。


「もういいだろ?」


「え~、まだ早いよ」


 俺の記憶では、兄貴は最低でも三十分は放置していた。まだ、窯から取り出して十分くらいしか経っていないもの。


「粉が足りんのなら再び小僧に挽かせれば良いじゃろ。のう?」


「おう! 前回ので要領は得ているからな、任せておけ! だから、な」


 まぁ、ライアンがやる気なら別にいっか。今度は麻袋一杯の挽き直しを頼んでやろう。


「んじゃ、切り分けるよ」


 焼きたてのパンというのは、なんと香しいものか。今回は自分で取り出したブドウ酵母を用いているけれど、これがイースト菌であったとしても変わらない。

 まぁ、用いた酵母独特の香りが混じるけど、小麦の香りが最も引き立つからね。

 厨房の包丁を借り、焼きたてのパンに刃を通す。


――ゴクッ


 あぁ、皆、同じか。実は俺もこの香りにヤラレている。

 蒸気が抜けきっていないため、切りづらい。が、そこは上手くやろう。


「じゃあ、まずは一人一枚ずつ」


「うわ! ふわっふわっじゃねえか!」


「小麦の良い香りがするの」


「これは……なんとも柔らかい」


 皆で一気に味わうつもりだったが、フライングしたのは宿のおかみさん。実に幸せそうな表情でパンを味わっていらっしゃる。


「おぉ、成功だ!」


「ミラに捨てられなければ、もっと早くにコレが味わえたものを」


「言うても仕方なかろう。このタイミングで宿の厨房を借りられたというのもある」


「これは……」


 ライアンは後悔ばかりだが、アグニの爺さんは前向きだな。元気な爺さんだよ、まったく。

 一方、宿のご主人が食いかけのパンと俺を交互に見ているんだけど、どうしようか?

 ここはお礼に酵母種を分けてあげるべきかな? 暫定で酵母種を入れているグラスは安物なので気にする必要もない。


「相棒、悪いんだけど、さっきのグラスともう一個空のグラスを頂戴」


 流石に全部渡してしまうわけにもいかず、少量を分けて、あとは酵母を独自に培養してもらうとしよう。

 小麦粉の種類の選別や挽き直しなど手間は少々掛かるけれど、試食し実物を知っているなら多少の手間はどうにかするだろう。


「じゃ、ご主人。これはお礼です。手入れは慣れればそう難しくないですから」


「よろしいのですか? あの、ええと……」


 そういや、名乗ってなかったわ。

 その後、改めて宿のご主人には酵母種を厨房をお借りしたお礼に進呈した。

 保存方法や培養の方法なども分かり易く説明したつもりだ。

 秘匿すれば、ぼろ儲け出来るのにとライアンが少々ゴネたが、無視した。こういうのは普及させてしまった方が、色々なバリエーションが生まれる温床となるのだ。

 いずれ、総菜パンや菓子パンに派生したりしてさ。さすがにディニッシュ生地やクロワッサンは無理だろうけど、それは俺がバターを手に入れてからだな。

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