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第三百七十二話

 勢いよく開いた貝の影響であさりタイプから出た、貝の旨味を多分に含む汁は少し零れはしたが、まだ十分にあるとも言える。

 ただ、まだ完全に火が通っているかは不明なので、開いた貝の蝶番をウィンに外してもらい、今一度被せて搔き集めた炭を載せ直したところだ。

 もう少し、もう少しだけ火が入ったら、次の段階へと移そう。


「ほら、悪くなる前に鯖の刺身を片付けちまえ! 俺はその間に白ミルも刺身に変える。塩鯖は放っとけばその内勝手に焼ける。勝利は焼けた端から保存しといてくれ」


 塩鯖の保存に関してはウィンの役目なので、俺が関知することはほぼない。平良さんの話はウィンも聞いているので任せておけばいい。


 問題は刺身だ。

 俺は今の今まで頑なに、生ものの接種を拒んできた。

 それは何より寄生虫が怖かった。という理由であるが、その点は平良さんが問題なしと示してくれている。

 だからと言って、はいそうですかと簡単に切り替えられる程、俺も単純ではない。

 しかし、この目で見ても十二分に美味しそうな感じではあって……実際のところでは、俺の心はそれはもう大きく揺らいでいた。


 本当は食べたい。久方ぶりの和食である。

 ただ、ここでこれを口にしてしまうと、以降に歯止めが利かない恐れもある。

 生食を意地で封印していた俺の信念が打ち砕かれてしまう。

 恐ろしい、本当に恐ろしい。けど……ダメだ。堪えられそうにない。

 俺の、ライアン式結界で作った箸を持つ手が小刻みに震える。震えたまま、大皿の上へ適当に盛られた刺身を摘まんだ。

 一度摘まんだからには食わねばならない。そう、これは仕方が無いんだ。


「こら『いただきます』くらいしないか!」


 平良さんに怒られた。が、少し迷った後「いただきます」はせず、俺はそのまま刺身を口に入れた。


「俺は家の外では『いただきます』はしません。言い訳を許してもらえるなら――」

 

 実家ではちゃんと「いただきます」をしていた。そこはしっかりと教育されている。

 ただ、海外赴任の多い父の教えで、俺を含めた兄弟たちや母は家の外では『いただきます』はしない。例外は身内だけの外食くらいで、他に誰かが相席する時は原則的に『いただきます』をしないことに決めていた。


「海外勤めの多い父の教えです。宗教や政治の原理主義者には過激な思想を持つ方たちも居て、食事の『いただきます』と手を合わせただけで命を落とした者もいるそうです。この場に居る皆が俺と親しく主義主張も宗教観念も同等であるのならば、『いただきます』くらいはします。ですが、そうでない以上はできません」


 正直、異論があるのは認める。

 だが、我が家の家訓である以上、こちらは曲げられない。いいや、曲げるつもりはない。

 例え、誰に何と言われようとも!


「……理解できない話ではない、か。まあいい、米の扱いには期待しているぞ」


「勝利くんが誰を気にしているのかは分かるけど、科学の徒であるエダを気にするだけ無駄な話だよ?」


「正吾、ソロノス人の来歴を知らない勝利に無理を言うな。勝利の親父さんの教えはどこも間違っちゃいないが、俺たちに関しては気にするだけ無駄のは同意する。

 そもそも俺は困った時だけ神頼みの日本人らしい宗教観念しか持っていなかったが、今となってはそれも無い。絶望の淵に俺の体がこうなって以降、神の存在など微塵も信じてはいないんだ。拉致られた地球人に関しては、ほぼ同一の見解だろう」


 どのように説明するか迷いつつ、ちらちらとエダさんに視線を向けたいたのを、正吾さんには勘付かれていたようだ。

 俺が一番に気にしていたのは当然エダさんで、次いでジルバ。勿論、正吾さんや平良さんも含む。正吾さんや平良さんにしたって、そこまで深い繋がりがあるわけではないのだ。

 ただ、日本という大きな括りでの同胞というだけの話だ。

 だからこそ、『いただきます』の家訓に関してだけは警戒すべき相手と見做していた。


 だが、どうにか理解は得られたようだ。

 これで俺は堂々と『いただきます』をしないでいられる。

 一口でも口にしてしまえば、あとは一緒だ。例え生ものであろうとも、美味しく食べなけらばなるまい。

 そうして、次の一切れに箸を延ばしたところ。

 俺の手は平良さんに叩き落され、落ちた結界の箸はその衝撃で砕け散った。


「お前、俺の話聞いてたか? 『いただきます』をしろっ!」


「しなくていい、という話でまとまったのでは?」


「私たちに宗教や信仰に対する考えはもう何一つなく、勝利くんが何かを気にする必要はない、と言ったのですよ。だからお父さんの教えを遵守するならば、『いただきます』はすべきだという話なのですよ」


 声の質だけで怒りを露わにする平良さんと、先程の話を噛み砕いて説いてくれた正吾さんだった。

 要は、俺が勘違いしていたらしい。


「そういうことでしたか、ならば……いただきます!」


「よし、存分に食え!」


「懐かしいというか、鯖を刺身で食べるのは初めてですが……脂の乗った魚の味がします。でも、だからこそ、切れのいい醤油が欲しいですね」


「あぁ、〇膳があればもう言うことはないがな」


「……醤油は醤油でしょうに」


「わかってねえな、正吾。勝利でも理解してるっつうのに……」


 己自身の豊かさを確認するのに、食育というのが大事なのだと兄貴は常日頃から口にしていた。その兄貴の趣味もあって、俺は結構良いものを時々食べさせてもらっていた。

 また、半年に一度の周期で帰郷する父も、赴任先の現地で購入した本物と呼べるだけの食材を持ち帰ることがあった。

 父と兄、二人のお陰で俺と弟、そして母は舌が肥えていたと今更ながらに思う。

 家族と離れて暮らすことで、それを実感できたのは幸か不幸か。


「勝利。もうあさり、いいんじゃねえか?」


「あ、そうでした」


 あさりタイプ……もうあさりでいいや、異常にデカいけど。

 外した上側の貝で改めて蓋をしたあさりからは、ぴゅーぴゅーと蒸気が噴出していた。


「ウィンちゃん。あさりの身をこっちの貝殻に移して、刺身の隣はマズいから少しずらして置こう」


「ァィ」


 地べた。砂浜の上に直に皿を置いている状態だが、流石に生ものの刺身の横へ熱々のあさりのそのまま蒸しを置くのは憚られる。折角の、刺身が痛んでしまっては申し訳ない。


「ジルバ、熱いから気を付けてお食べ」


「俺にも食わせろ…………やっぱ砂が残ってるな。まあ、素材がデカいから砂を取り除くのは楽ではあるか」


 ジルバと変わらない大きさの貝に入っていたあさりの身は、貝にびっしりと貼り付くように丸々と肥っていた。

 砂を吐かせる時間がなかったため、どうしても食べている時に砂を噛んでしまう。但し、日本で食していたような大きさではないこともあり、一口に含むことはできない。それが功を奏して、取り皿の上で砂を排除してから口に入れることが出来ていた。


 本当なら俺も真っ先にあさりにかぶり付きたいところだが……まだ俺には仕事が残っている。


「ウィンちゃん。この旨味がたっぷりと染み出した出汁から、砂だけを取り除いて欲しい」


「ァーィ」


 ウィンならこれが可能で、調理時間を短縮できる。

 兄貴は酒蒸しやそのまま蒸しの残り汁を、キッチンペーパーを敷いた笊で濾していたっけ。

 

 ウィンが貝殻から出汁を吸い上げた後、波打ち際で貝殻に付着したままの砂を洗い流す。勿論、それもまたウィンにお願いした。俺には貝殻が熱すぎて持てないからな。

 そして貝殻を炭の上に戻し、砂を排除した出汁を今一度貝殻へと注いでもらった。

 この大きくも手頃な大きさな貝殻は鍋としてそのまま活用したい。


「……出汁は熱いままだから温め直す必要もない、か。それじゃあ次は、あの前に食べきったチーズのカスがあるだろう? あれをここに放り込んでくれ」


「ハィ」


 ワイバーンの巣を駆逐するために逗留したベルホルムス。村を発つ際には開拓団との関係が、険悪なものとなってしまったのは残念極まりないが。

 そこで作戦の準備中に入手したハードチーズの、その成れの果てであり、残骸とも言えるチーズのカス。

 まだウィンと名付ける前の相棒に食べやすい大きさへとカットしてもらった際に出た切粉のようなもの。一番大きなものでも小指の爪くらいしかないが、粉チーズだと思えばそれなりの量がある。


「木べら、ちょうだい」


「ァィ」


 あさりの出汁に粉チーズを投入し、ゆっくりと攪拌すると少しずつだが出汁が粘り気を帯びてきた。

 ここで投入するのが俺が欲して止まなかったということはないが、有難いことに越したことのないお米。

 平良さんの話では精米加減は無洗米レベルであるらしく、研ぐことはせずにそのまま三掴み程を出汁の海に沈めた。

 少し掻き回して馴染ませたら放置する。

 炭となった薪の火加減は極々弱火で、放置してもそうそう焦げ付きはしないだろう。

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