第三百六十五話
「イースト菌なんかよく見つけたな?」
二人と一頭で分けようと考えていたパンを平良さんはひとり貪る。
全身鎧を身に付けたまま、兜の前面を跳ね上げ口元だけが露わとなり、そこに生焼けの肉やパンが差し込まれている光景は何とも言い難い。
また、それをじっと見つめるのは正吾さんではなく、ジルバ。
ジルバは俺が時たま焼くパンやタロシェルの焼いたパンをえらく好む。正吾さんの味覚の知識が共有されているからなのだろうが。
「イーストじゃありませんよ。干しブドウから酵母を取り出して、小麦粉を水で緩めに溶いたもので培養しているんです。そんな長くは保たないんですけど」
「あのクソ不味い米を食うよりは、このパンの方がずっといいんじゃねえか? なぁ、正吾?」
「えっ、米があるんですか!?」
平良さんの返答には聞き捨てならない単語があった。
お米がある、だと?
「勝利くんが何を期待しているか判るけどね。あれは陸稲で、日本の水稲とは全くの別物。どちらかといえば、麦に近い何かだよ。しかも中まで真っ黒」
「農業関連の経験者や学者がいないからな。品種改良も偶然の産物を増やす方向でやってはいるが、精々がちょっと色の薄くなった赤米といったところだ。時折できるアルビノな白米はどうにも弱くてな。すぐに枯れるか虫にやられて、増えた試しがねぇんだ」
「期待しない方がいいと?」
「そういうこった」
お米だけあって、正にぬか喜びとでもいうらしい。
仮にそうだとしても、少量でも持ち出しておきたい。俺がどうにか出来るとは思えないが、グラーフさんとミューリさんにお願いすれば何とかなるのではなかろうか。
ほら、あの広大な野原で育てるとか、やり方は幾らでもありそうじゃないか?
「備蓄は俺の部屋にも幾らかあるからよ。欲しいなら持って行け。そのついでに部屋の物も粗方回収してもらえると嬉しい」
「あちこちに散らばっている甜菜とお酒ですか?」
「あぁ。ガキ共が窓から投げ入れた甜菜は勿体ないからよ。それに飲んでもこの体じゃ全く酔えないんだが、雰囲気だけでも味わうには酒もあった方がいい」
「私とジルバ、平良さんの滞在費用の対価として、お酒の一部は勝利くんに譲りましょうか」
「俺の飯代は嵩むだろうし、それもいいか」
「聞くところに依ると、勝利くんはお兄さんに料理を仕込まれているようですから、上手く使いこなしてくれることでしょう」
「じゃあ一度、外に出ましょうか」
まだ見ぬお米らしきものやお酒は、俺がもらってもいいものらしい。
それには平良さんの引っ越しが条件として提示された。
そんな作業もウィンに任せてしまえば、俺の手間は何もないわけで……。
◇
正吾さん曰く、平良さんが幽閉されていた部屋。
そこに散らばっていたしなびた大根や部屋の隅に積み上げられていた木箱や樽、草を編んだ袋を次々にウィンの倉庫送りとした。
当然だが、俺の私物とは分別して置いてある。まあ、仮に混ざっても怒られはしないと思うけど。
『荷物の回収が完了した以上、俺がここに留まる必要はねえ。次はエダを収容しようか?』
「問題はエダの作業場までどのようにして向かうか、ですね」
『なら、向井さんの甲羅の隅を通らせてもらうか。この部屋の正面に頭があるはずだ』
「では、向井さんへの事情説明を先に済ませ、エダを回収後は速やかに郷を離脱しますかね。勝利くん、まずは入って来た窓の外に出よう」
鉄格子が嵌った小窓の外。急降下して降り立った場所へと出る。
もう真っ暗闇なのだが、右目の暗視魔術のお陰もあって白黒の世界が広がって見えた。
『おおぅ、これが勝利の視線か。そのまま壁伝いに正面へ回り込め』
正吾さんことジルバは、俺の少し前の地面に立ち。
平良さんは不思議空間にある最初の部屋に居残りだ。平良さんが外に出ていることを、向井さんという方以外に見つかるのはマズいという判断から。
そうである以上は枝触手の糸電話での会話ではあるのだが、正吾さんにも聞こえるようにと朝顔の花みたいに開いた触手の先から平良さんの声が漏れ聞こえる。
暗がりを壁に左手を付き、レンガ造りの建物の右側を進む。
「谷の壁?」
「いいや、ちがう。向井さん、お待たせしました!」
正吾さんからは、郷は山と山の谷間にあると聞いていた。だから俺は、谷の壁とも言える山の裾野なのかと勘繰った。
「「「「む、やっと来たか」」」」
轟雷のようにも、地響きのようにも、重厚な聲が聴こえる。
山の裾野と思われた壁が蠢き、巨大な塊が宙へと浮かび上がった。
「勝利くん、こちらは向井さん。向井さんは雄の陸亀のため、私とジルバのように転生術を行使することはできない。故に体躯と自重の関係で、容易に身動きを取ることが出来なくなっている。
向井さん、こちらは山田勝利くんです。平良さんから伺った話では今現在、睦美さんが捜索していると思われる、中央で大型鹵獲器に拉致された被害者です」
浮かび上がったように見えた巨大な塊は、亀の顔の部分。
その、あまりの大きさに誰かと会話しているような気持にならない。
今も、正吾さんの紹介を聞きつつ、亀の顔が近付いてくる様を見ていた。
「「「「既に保護下にあったか」」」」
亀の顔の左側が俺に寄って来る。
大きく見開かれた左目の大きさだけでも、俺が数人分必要なほどの大きさだ。
「ですが、このように勝利くんは魔道生命体を宿しています。その他にも多々事情がありまして、睦美さんとの対面は避けるべきとの判断を私は下しました。一応、睦美さんへの抑止力して平良さんの助力も得ています」
「「「「そうか」」」」
『聞こえるか、向井さん? 俺だ、平良だ』
「「「「姿は見えぬが、聞こえてはいる」」」」
『向井さんは動けねえから中立を保つのはわかる。でも、俺は勝利と正吾の側に付くと決めた。しばらくの間だけでいい。睦美に俺が郷を去ったことを伏せてくれ。
これは勝利を、というよりも、この魔道生命体の存在をまだ睦美には秘匿しておきたい。ある意味、俺たち生き残りの地球人にとって福音ともなり得る希少な存在なんだが、まだ確証は得られていない。だからそれまででもいい、頼む』
「「「「福音とな? 半ば呪われたような我らに福音とは…………良かろう。しばらくは知らぬふりを貫こう」」」」
『感謝する!』
「向井さん、ありがとうございます。それでエダも連れ出そうと思うのですが、作業場まで甲羅の上を通らせてはもらえませんか?」
「「「「あの娘か。……子供たちの目を掻い潜る必要がある、と?」」」」
「はい」
「「「「わかった。落ちぬように気を付けなさい」」」」
「ありがとうございます。勝利くん、行こう」
「「「「私の鼻先から登りなさい」」」」
平良さんの口添えが効いたのか、大亀の向井さんは快諾してくれた。
それは平良さんの動向を秘匿するというだけのことだが、結果的に俺のことや正吾さんのことも伏せてくれるということに繋がる。
それだけ、平良さんにとってもウィンが内包する秘密。グラーフさんたちが存在する意味が大きいということなのだろう。
向井さんは地面に嘴を付けて、俺が登り易いようにしてくれた。
つるりとした艶のありつつも小さな傷もある嘴に手を掛け、ウィンが甲羅端の突起に触手を這わせて、ゆっくりと着実に登る。他人様の頭を足蹴にしているので、少々申し訳なくもある。
甲羅へと登れば、その頂上付近は完全に山のそれだった。それも、急峻な峰とも言える多く高い山だ。
別に登山が目的ではないので、その急峻な峰を右手に視つつ、甲羅の端っこにある返りを道標に進んで行く。
「エダの作業場はちょうど、向井さんを挟んで平良さんの幽閉小屋の対角にあるんだよ」
「向井さん。どんだけ大きいんですか?」
「私の転生前でも、全長一キロはあったんじゃないかなぁ」
大きな陸亀とは聞いていたし、つい先程までその頭部を見てはいる。
それでも一キロを超える長さの体長と、完全に山にしか見えない甲羅の先端などを見てしまうと、単純な驚きにすらならなかった。度肝を抜かれるとでも言うのかな。
今が夜だから驚きが少ないのかもしれない。昼間の明るい時に見れば、また違うのかもしれないけどさ。
 




