第三百四十八話
俺には語れない内容があると察し、席を外すと共に爺さんの小屋ではなく、養蜂倉庫へと戻って来た。
それはベッドの横であり、薄い壁で仕切られているために、養蜂倉庫の真の主たる女王蜂や親衛隊となった古参の働き蜂の眼はない。しかし運悪く、現実空間に現れた俺の目の前には円らな瞳がふたつ存在していた。
濃いグレーの体表に疎らな白毛が煌めく小さな体躯を有する個体。薄い焦げ茶色の別個体に比べると、普段は半眼で眠たげであるその個体の名はグゥ。
普段の半眼が嘘であるかのように、俺を見つめるその瞳は今にも零れそうなほどに見開かれていた。
「グゥ、内緒だぞ?」
「グ、グゥ」
偽物の書状を持ち寄った商人らや巡回娼館の出入りにより、南口の警備体制は厳戒状態にある。それゆえに毎日のようにライアンは記憶の共有を行っている。とはいえ、グゥが自ら異常を主張しなければ、シギュルーや多くの働き蜂たちとの情報共有が優先されるはずである。
「塊はないけど、砂糖をやるから黙ってろよな?」
「グゥゥ」
手のひらに広げた砂糖を差し出しては、グゥが舐め終わるのを待つ。
グクの舌が這いまわる手のひらが擽ったいが今はそれどころではなかった。大人しく賄賂を受け入れたグゥにこれ以上の説得も必要ないだろうが、師匠の動向が気になるのだ。
「ウィン。師匠に動きはあるか?」
「……ニャィナィ」
俺の出現がグゥに見咎められたのは予想外だったが、それ以外には何も問題は無いようだ。
「それにしても爺さんはミモザさんと俺の結婚を、一時は反対した割には認めるつもりがあるようだし……。俺もミラさんの判断である以上は断固反対とは言い難い。どうせ、押し切られるのは最初から分かっていることだ」
「グゥ?」
「グゥに愚痴っても始まらない。宿に飯を貰もらいに行くか」
普段ではありえない量の砂糖を舐め終えたグゥは満足そうに毛繕いを始めていた。
それを横目に俺は養蜂倉庫を出て、宿へと向かう。
宿の厨房では絶賛次の食事への仕込み作業が行われていた。
作り置き、いや、継ぎ足しのシチューを二人分スープボールへと注ぎ、塩と適当な野のハーブが塗り付けられたワイバーン肉をサリアちゃんに焼いてもらう。
俺の食事の際に出るはずのデザートにプリンを指定して、先払いしてもらえば準備は完了。
焼き上がった肉とシチューに、パンを二食分確保してはウィンに渡す。勿論、器ごとだ。
「タロシェル、ここで俺が食事を確保していることは内緒な? リグダールさんも頼みますよ」
「わかっております。何か事情がお有りなのでしょう」
物わかりの良いリグダールさんと、何度も頷きを返す子供たちに一安心。
食事の楽しみの一つであるデザートを失うのはキツいが、今回一回限りだと思えば安い物だ。次回以降の要求には、それなりの対価を払ってもらおうと心に決める。
ついでに、俺も厨房で夕飯を済ましてしまうことにした。
養蜂倉庫から宿までは大した距離ではないが、師匠の動向を警戒したままでは疲れてしまう。今日はこの後、養蜂倉庫でじっとしていた方が無難だろう。
◇
夕闇が迫り、養蜂倉庫へと働き蜂たちが一斉に帰還を果たす。
屋台の改良になぜか加わっていたミジェナと、会議を終えた後どこかで暇をつぶしていたらしいライアンも帰って来た。
「ライアン、師匠はどうしてる?」
「婚約者殿の監視を掻い潜って何かしていたらしいが、ミラに捕まって牢屋造りに戻されたみたいだぜ」
「そうか」
師匠はアグニの爺さんの小屋を見張っている間に、執務室を抜け出したことがバレだたのだろう。会議の話題がすっぽん一色に染まった時点で、あわよくばと逃走した師匠が鋭いのか、すっぽん話に夢中になったキア・マスが抜けていたのかの判断はしかねるが……。
少なくとも今現在、師匠が南口近辺にいることはないと思われる。
その理由は牢屋が北口厩舎の正面、以前ベガさんたちが宿泊していた小屋を廃して建設されているからに他ならない。
「それでお前、村の名前は決まったのか?」
「うっ、それは……まだだけど」
「ミラは会議中、自分の意見がひとつも通らなかったからな。すこぶる付きで機嫌が悪い。早く決めないと、俺でも抑えられねえぞ!」
宿で二人分の食事とプリンを確保した俺は悩んでいた。
それはもう頭をこれほどまでに悩ますのは、高校受験以来かもしれないという程にだ。
アグニの爺さんの無理難題が無くとも、村の名前延いては自治区の名前を考えるなど、俺のキャパシティを遥かに超えた出来事なのだ。
はっきり言って、何も思い浮かばない。
大体、カットスと俺を呼ぶのはミラさんと師匠だけで、その他の人物たちはカツトシと正確に発音したり、勇者や魔王と大仰な代名詞で呼ぶのだ。
この際もうカットス村で良いのでは? と思うものの、それではアグニの爺さんの意見を組み込むことは出来ない。
それで悩みが一層深くなり、未だに答えが出せないまま、ぐるぐると考えてしまっているのである。
「それはいいとして、爺とミモザはどこへ行ったか知らねえか? 小屋にも居ねえし、一体どこに行ったんだか……」
「……さあ、どこに行ったんだろうなぁ」
まさか知っているとは言えない。
しかも俺が匿っているとは、口が裂けても言えないのだ。
しかし、どうしたのものか? あれから既に数時間が経っている。
そろそろ、今日の勉強会も終盤を通り越して、出てきてしまうかもしれない。
かといって、ライアンとミジェナを巻き込むわけにもいかない。それは師匠の眼を誤魔化したことと同義で、二人に知られるのは困るからだ。
俺とウィンの命が懸かっている以上、安易に知らせることは出来ないのだ。
「俺は晩飯はもう食ったけど、ふたりは?」
「なんだもう食ったのか? 早く言えよな!」
「ん!」
「じゃあ、ミジェナ。食いにいくか?」
「……ん」
ライアンとミジェナが揃って宿へ食事に向かって以降、養蜂倉庫の窓や大扉を閉めるのは俺の仕事だった。
働き蜂たちは数えるのも嫌になるほど増えているが、女王蜂が大人しくしている以上は皆帰還しているのだろう。
ただ、好い加減、爺さんとミモザさんは出てきてくれないものか。ライアンとミジェナが留守にしているこの機を逃すと、ふたりをそれとなく逃がすことが難しくなる。
「ウィンちゃん。爺さんたちは?」
「ナィナィ」
そう言って、触手で示した先は居住区の方向。
まさか……俺がどうやって秘密裏に帰そうかと頭を捻っている間に、爺さんの小屋へと戻してしまったと言うのか?
「ァィ!」
俺の考えが伝達したのか、ウィンからは威勢の良い返事が。
これでは俺が意味もなく、冷や汗をかいたに過ぎない。
ただ、明日以降も同様に頭を悩ませる必要があるのは村の名前くらいなものだ。
正直、助かるのは事実なのだが、何かするときは事前に相談が欲しい。それが出来なくとも、報告くらいはお願いしたい思いで一杯だ。
目尻に涙がちょちょ切れ、それをさり気なく拭う。
ウィンもそうだが、中の人にももう少し俺の身になって欲しいところだ。




