第三百二十八話
正吾さんに促され、早速カルテを取り出したところ。
――っんな!?
驚きを己が中に封じ込められたのは偶然ではあるのだろうが、それは幸いでもあった。
現状に於いて、俺が大声を出すのはあまりよろしくない。先に、俺と正吾さんとでウィンの確認を終わらせるまでは他三名が雪崩れ込まれては困る。
では、それほどの驚いたものの正体とは何か?
あの本が最適化と称した調整以前にはあったはずの文字が、一切合切消え失せていたことに尽きる。
調整が開始されたばかりの頃には、まだ従来の表示項目が残っていたというのに、だ。
実際、手に持った時点で違和感はあった。
何せ、金属板そのものが黒くない。金属の無垢な色合いだったのだ!
そう、金属板は少々輝きの鈍い銀色に戻っていた。
「――失効しただと!? よもや、存在そのものが全くの別物と判断されたか……」
「んと、初期化されてるってことは、もう一度最初からだよな。よ~し、血を垂らしてみよう」
正吾さんの驚愕は聞き流し、俺は左手で腰の後ろの鞘に収まっている鉈を引き抜く。すぐさま、刃に右手小指第一関節の腹を躊躇なく押し付けては横に滑らせる。
初回の一件は出来れば思い出したくはない。嫌な人物の顔も同時に浮かんでくるもんでね。
だがまあ、切れ過ぎる剣で予想以上にぱっくりを切れてしまった人差し指。今回はその教訓を生かし、物を握るのにもほぼ使う予定のない小指を選んだ。
躊躇なく切ったのも、すぐに治るという大前提があればこそ、だ。
治る、よね?
「痛ッッ、と。――うお、もう治ってる! 血は……刃に付いた分だけで足りるかな?」
鉈の刃の上を二センチほど滑らせた小指の腹は早くも塞がっていたが、切れた瞬間に流れ出たであろう俺の血液はしっかりと付着していた。
鉈の刃に付着した血液を右手の人差し指で拭い、カルテに塗り付ける。どちらかと言うと、汚れた指を金属板で拭いているような感じだが。
すると、当時の焼き直しとでもいうべきか。
ヘアライン加工されたステンレスのように、鈍い反射しかなかった金属板が、瞬く間に黒く変色した。同時に、銀色の罫線と文字が浮かび上がってきた。
「えーと、なになに? ユニークスキル名に『触手』と、汎用スキル名の『翻訳』は変わらないのな。
でも『触手』の加筆部分。何だろう? 表現方法が変わっただけなような。ソロノス現代語で『収納』『触手生成』『贄』、ひらがなとアルファベット等の『びぃむ I・V・A・O』『とびら』『れんけい』と……、おい『ぎたい』どこいった? ひょっとして『触手生成』に纏められちゃった?」
「――ハィ!」
「………………マジか、今返事したよな?」
まさかと思った衝撃の事実。『ニィ』や『ニィタ』以外にも発声できるらしい。
賢くなってくれるのは有難い。のだが、急激に過ぎるとこちらが対応に窮してしまう。
ただそれで、ウィンに問い質すのは筋違いも甚だしい。文句を言うべき相手は、あの勝手に文字列が浮かび上がり、勝手にページを捲る本の方だ。
「ジルバはすこぶる聡明だけどね。ウィンもその辺りは全く引けを取らないようだ。その内、会話が可能になると意思疎通に齟齬が少なくなるのは良いことだよ」
「そういえばジルバも日本語が話せるんで?」
「ああ、何の問題なく、流暢に話せるよ。転生術の影響で初期に移植された私の脳幹はジルバの脳と、もはや分離不可能なほどに融合してしまっているのでね。当然といえば当然なのだが、言語を含む知識の類いもまた統合されている。今は肉体の占有権を私が握っているけど、補助に回っているジルバでも聞き取りと分析くらいは可能なのだよ」
ウィンが日本語を喋れるようになれば、本当に意思疎通に不足が無くなる。
いずれは、ニュアンスだけで理解に努めていたことを懐かしむようになるのだろうか。
弟が喋り始めた頃は俺自身もまだ子供だったこともあり、それらしき記憶は酷く曖昧だ。だから自分の過去を当て嵌めて考えてみよう。
子供の頃、幼稚園や小学校で学んだことを家で母や兄に対して主張していたような。そんな覚えがある。今思えば迷惑な話だが……確かにある。
それを踏まえた場合、ウィンも同様になるかもしれない。
今やウィンは俺自身でもあるのだけど、俺が俺自身を疎ましく思うことはない……よな? たぶん大丈夫、だろう。
「それで、『とびら』の臨時措置が開放されたようだね」
「これ、どう捉えればいいのでしょうか」
「試しに私が利用してみよう。構わないかな?」
「俺は構いませんけど、ウィンは?」
「ハーィ!」
ラビの手だった触手の先端が、正吾さん・ジルバのサイズに合わせて口を開けた。
そして、そのままパックンと呑み込む。傍から見れば、ただ捕食したように映るだろう。
当然だが、ウィンに呑み込まれた正吾さんからは何の応答も無い。
正吾さんの身に何かがあるとマズい。本当に大丈夫なのだろうか?
まさか血抜きされ、皮を剥かれ、腑分けされてないよね?
「おっ、なんだ?」
右触手の半ばから新たに一本の細い触手が生えてきた。
どうやら『分岐』も『触手生成』に統合されているようだ。ということは、『射程』も、統合されていると考えられる。
その細い枝が俺の顔に向けて伸びてきて、右耳にかぶり付いた!
『――もしもし、聞こえるかな?』
「聞こえます!」
『聞こえるかな? 聞こえていたら返事をしてほしい』
聞こえるから聞こえると応答してみたのだけど、当の正吾さんからの返答がおかしい。会話が成立しておらず、正吾さんはずっと俺へ向けて問い掛けているのみ。
この細い触手の枝はスピーカーでしかないらしい。どうも俺の声を拾ってはいないようなのだ。
『…………耳は覆ったな? ……ならば、勝利くんの口元にも……ただ今度は向こうの音を拾うんだぞ』
内部で収音された正吾さんの声が聞こえてくる。
正吾さんにとっても、ウィンにとっても、双方共に初めての試みだ。
現在進行形で試行錯誤が為されているのだろう。
細い触手の枝が裂けるように二本にさると、一方が口元へ伸びてきた。
「ああ、待て! 口は覆うな。……口のちょっと下のもうちょい手前、そう、その辺りに固定して」
「ハィ!」
「聞こえますか、正吾さん?」
『あぁ、聞こえる。こちらの声も届いているかな?』
「はい、もちろん。電話のように通話は出来ています。音質も非常に良好です」
『私とジルバの存在は刺激が強すぎるからね。ここで暮らすことにするよ』
「え?」
『何かあれば、ウィンに指示して外に出ることも可能だよ。なに、勝利くんと内緒話をするのにも適している』
「いや、まあ、確かにそうでしょうけど……」
『過去に記録されたグラーフから情報を吸い上げるのにも、時間が掛かるだろうからね』
「その辺りは……俺にはよく分からないので、お任せするしかありません」
『そうだね。任せてほしい』
結論から言うと、『とびら』は『収納』とは異なる。
『収納』の場合は、それが人であろうが何であろうが時間が停止する。
『とびら』の場合は、どうやらあの不思議空間に誘導されるようだ。
そして、あの不思議空間では時間の流れがあるようだ。実際に正吾さんと通話できていることが、その証左である。
また『触手生成』能力は、以前のそれに比べると飛躍的に向上しているようである。それは細い触手の枝が、更に分岐したことも含める。
開拓拠点に帰り着く前に、どこまで検証することが出来るか。
いいや、まずは渡河が最優先事項なのだが……。




