第三百二十六話
お兄ちゃんが大昔の遺跡なるものを探しに出てから十日目の朝。
今日もわたしはお兄ちゃんに任せられた日課に取り組む。
「窓。開けられなくて、ごめんね」
お兄ちゃんが養蜂倉庫と呼ぶこの建物は、開拓団員のみんなが住んでいる小屋の五倍くらいの広さと、三倍くらいの高さがある。
かなり大きい。でも、弟のタロシェルの宿屋よりは少しだけ小さくて悔しい。
重い窓はわたしでは開けられないけど、大きな扉は見た目よりも軽いから開けることは出来る。
「ん、いってらっしゃい」
開いた扉から兵隊蜂さんが飛び出していく。
最初、ライアンが連れてきた蜂さんは女王さまと六匹の兵隊さんだけだったのに、今は数えるのも大変なほど増えた。
出発前にお兄ちゃんは増え過ぎだと言っていたけれど、それよりも増えている。今日も巣の中から、もぞもぞと這い出てきた新しい蜂さんがいるのだ。
ブゥゥゥン
翅を鳴らすのは女王さま。
お兄ちゃんが注文して、わたし用に誂えられた小さく背の低い竈。そこで作る砂糖水の催促しているのだ。
お兄ちゃんが言うには蜂さんは、蜂蜜と花粉を食べるらしい。
ライアンは、元はさぞ大きかったであろう巣の欠片しか持ち込んでいない。
巣の中に貯めておいた蜂蜜の多くを、襲ってきた獣に食べられてしまったんだって。その獣もお爺ちゃんに倒されて、みんなのご飯になってしまったけど。
ライアンのお嫁さんが作ってくれた獣の手の煮物はぷるんぷるんで美味しかったなぁ。……じゅるる。
たから、わたしが砂糖水を作ってあげるんだ。
「まだだよ。冷めるまで待ってて」
砂糖水をふぅふぅしていると、お兄ちゃんが壁に貼った紙が目に入る。
『朝起きたら、大扉を開けっ放しにすること』
『火を使うときは、竈正面の窓を開けること』
『宿が忙しいときは、手伝いに行くこと』
やらなければいけないことは他にもあるけど、この三つは絶対に守らないと。
「おはよう、ミジェナ」
「ん」
宿屋でタロシェルに弟子入りしているリグダールおじさんが、毎朝窓を開けに来てくれる。お兄ちゃんが頼んでくれていたそうだ。
窓が開いたら扉は閉めてもいいことになっている。蜂さんの出入りは窓になるから。
「今日は外からのお客さんが来るそうだから、お手伝いをよろしく頼むよ」
「ん」
リグダールおじさんは、ガヌやサリアちゃんみたいな好い加減な頼み方はしない。誠意が篭っている。こういう頼み方をされると断りにくい。
リグダールおじさんと隊長さんとアランお兄さんは、お兄ちゃんを攫おうとした隣国の人たちを裏切って、お兄ちゃんを守ろうとしてくれたらしい。
ミロム先生に聞いた話だから、たぶん本当のことだと思う。
ミロム先生は孤児院の先生と違って、読み書きと算術を本当に分かり易く教えてくれる先生のことだ。今は宿屋に務めているけど、暇を見つけては勉強を看てくれる。
「魔王様、早く帰ってくるといいね」
「ん」
ライアンはどうでもいいけど、お兄ちゃんには早く帰ってきてほしい。
お兄ちゃんの作ってくれるお菓子が恋しい。
女王さまがたまにくれる花粉のお団子は、おいしくないんだもん。
◆
「ミモザ。キャラバンの管理は良いの?」
「シフォンが面倒を看ているから平気よ。あの娘、良い筋しているのよ」
お姉ちゃんが執務室として使うために、カツトシ様から取り上げたパン焼き小屋。
壁と天井には土が隈なく塗り固められており、隙間風が入り込む余地はない。
お陰で、この小屋は他の小屋よりも暖房効率が遥かに良く、多少暑いくらい。
アタシとお姉ちゃんが仕事場であった執務室に、最近入り浸るようになった女性がいる。それが、このミモザさんだ。
彼女は冒険者ギルド出張所の所長を務めるための人員であったのだが、開拓団の商取引を一手に引き受ける商人としても頭角を現し始めていた。
「ミモザさん、お仕事は?」
「ミラ様のお手伝い」
「ル・リスラ。私が呼んだのだから気にしないで」
お姉ちゃんはこの開拓団の影の代表。拠点化が開始されて以降は村長を務めている。
開拓や開墾が進んだこともあり、開拓団に設けられた各部署から届く報告書や陳情書は数が増えるばかり。それらに目を通すのは、純粋にお姉ちゃんの仕事である。
ただ、なぜか最近になって、お姉ちゃんとミモザさんが一緒にいることがやたらと目に付くようになった。
かといってアタシが除け者にされているかといえば、そうでもないのだが……気にはなる。
「冒険者ギルドの出張所は、鍛冶場の隣でいいかしら?」
「そう大きな建物は必要ないので宿屋のお隣り。出口側でも構いませんよ」
「事実上、養蜂倉庫は居住区を守る隔壁となっているわ。あそこには許された者でないと近付けないから、侵入者の排除は楽なんだけど」
「ミラ様、あれは絶対に新種ですよ。ピンクハニービー!」
「ライアン君に感謝よね」
鈍感なお姉ちゃんは未だにライアン様の正体に気付いていない。
あれだけ突っ込み所満載な少年に、何の疑問も抱かないこと自体がアタシには不思議でならない。後から開拓団へと編入したムリア王国勢やフリグレーデンのキャラバンと護衛戦力、ベガさんとシフォンさんに至るまでライアン様の正体は明かされている。
相手が子供だと油断し、ベガさんのようにコテンパンに負かされないがために。
最近、アタシは思う。
お姉ちゃんはしっかりしているように見えて、結構な頻度で抜けているのではないかと……。
「それで、殿下は何をされておいでで?」
「カツトシ様から承った宿屋の下請けですよ」
『泥遊びだと思えば出来なくはない』
カツトシ様にそう言われ、いざやってみれば上手くもので、自分自身でも驚嘆を隠せなませんでした。
今まで料理をするな! と、何度も止められていたアタシはもういない。
いえ、嘘です。ごめんなさい。
「クッキー生地の型抜きで、焼くのはタロシェルにお任せですけど」
「……殿下がお料理を? 何ということでしょう!」
「…………」
ミモザさん言い分は失礼極まりない。
けれども、今までの失敗を鑑みれば、その言い分もまた然り。
ここは大人の対応をするべきでしょう。
コンコン、コンコン
「おはようございます!」
返事も聞かずに開かれた扉からは、普段宿屋に詰めているサリアが現れた。
サリアがここに現れたのは薪オーブンを使い、アタシが型抜きしたクッキーを焼くため。
「姫様。オーブンの使い方覚えて!」
「オーブンを使うとお料理になってしまうから……」
「大丈夫! 魔王様はオーブンで土を焼いてたこともあるから!」
「……じゃあ、これも泥遊びの一環?」
「うん、だから覚えて!」
カツトシ様も大概だけど、サリアも言うわね。
物は言いよう、ではあるのでしょうけれど。
「宿からここまで遠いの!」
確かに子供の足では結構な距離がある。
パン焼き小屋は居住区のほぼ中央にあり、宿屋は南口を塞ぐように建つ養蜂倉庫の隣にある。これからの季節は問題なくとも、雨季や冬場ともなれば大変だろう。
「なら教えて」
「うん! よく見ててね」
オーブンの鉄扉を開けたサリアは、竈から持ってきた火のついた薪をオーブンへと投げ込んだ。
火の付いた薪を中心に新たな薪をくべ、延焼させるつもりであるらしい。
「炎が落ち着くまで待つの!」
「炭になるまで?」
「真っ白になるまでじゃなくて、真っ黒になるまで。真っ黒になったら端に寄せて、焼くものを入れて扉を閉じる!」
「どのくらい待つの?」
「てきとう! 物によるって言ってた!」
ふふ。カツトシ様は説明に疲れてくると、よく適当と仰るのよ。
サリアはそれを真似ているつもりなのでしょう。
「あ、あとこれが今日のノルマ!」
「こんなに?」
「オーブンを覚えるなら、欠片のつまみ食いは見逃すのになぁ」
「さあ、頑張りますよー」
サリアの教え方は何気に上手い。
カツトシ様が教えたままを復唱しているに過ぎないのだけど。大体、この子はこんな感じだものね。
「ミラ様、お茶のむー?」
「サリア、私のも!」
「いち、にぃ、さん、四人分ね!」
サリア、ミモザさんの分は要らない。
早く帰ればいいのに。




