第三百二十四話
ウネの蔦によって地上へと引き揚げられる間にもイベントじゃないな……ハプニングがあった。
アグニの爺さんに巻き付いていた蔦の一本が千切れ、ガクンと一定距離を沈むように落ちたこと。その勢いでまた残りの蔦が千切れ掛けたりもした。
最終的に爺さん自身が蔦を掴み、ぎりぎり下まで落下することなく、難を逃れてはいる。
爺さん以外の俺たちは重量に問題が無かったようで、無事に地上まで引き上げられたのだが――
「――ッ! 痛タタタタ……」
「あぁ、うむ。言い忘れておったのぅ。ウネは獣など外敵の血を吸うのじゃよ」
おい! 爺さん、それは一番最初に報せねばならない必須事項だろっ!
俺とアグニの爺さんは万歳の姿勢で蔦が胴体に巻き付けられていた。俺たちを逐一観察していたライアンもまたそれは同様だったのだが、師匠はそうでもなかった。
だからだろう。腕を胴体ごと蔦に巻きつけられた師匠は、服の袖部分を蔦の糸のように細い根が貫通して、地肌の表面に食い込んでいた。
袖を捲り上げた師匠の腕に、ミミズ腫れのようにも見える蔦の根の跡が残っている。
「羽虫より若干多いという程度じゃ。気にする必要もあるまいて」
この場合、羽虫というのは蚊などの吸血する昆虫のことだ。
ただ、こちらの生物は基本デカい。蠅や蚊もそれは当然であり、トンボくらいの大きさはある。
それも、鬼ヤンマとか銀ヤンマと同等のサイズを誇る。お陰で発見次第すぐに対処できてしまう。大きくなり過ぎたために、対処し易いのだ。
「特に痒みがあったりもしないのですが、本当に大丈夫なのですか? こう、ウネが生えてきたりとか……」
「平気じゃろう。時たま、儂も若い株にじゃれつかれることはあるでの。経験済みじゃしの」
腕から植物が。しかも魔物が生えてきたりすれば、ホラー以外の何ものでもない。
良かった。俺には新品の鎧があって、厚い鎧下も着込んでいて!
冬場は凍傷の原因になるからと、鎖帷子は身に付けてはいないけどな。
「って言うかよ。そんな木、ここに生えてたか?」
ウネの蔦で引き揚げられた俺たちは、また崩れては堪らないと穴から離れた位置に避難していた。
それでもこの辺りは拓けた土地であったはずなのだが、そこには崩落に巻き込まれる前にも認識していなかったブナのような広葉樹が一本だけ植わっている。
横へと張り出すやや立派な枝には正吾さんがちんまりと停まっていて、その根元には鹿のような牛のような、よく分からない生物の新鮮な躯が複数あった。それも、首から夥しい血を垂れ流しながら……。
「ええと、正吾さん?」
「この木は、この辺りの蔦植物を統率する管理個体だよ。ここまで来るついでに、目に付いた獣を狩って来てもらったんだ。これだけあれば、十分に腹も満たせるだろう?」
「いや、まあ、確かにそうではありますけど……」
核心部分を訊けない。
俺の目ではどう見ても樹木なのだが、まさか歩いてやってきたのか?
……なんて俺の想像は、少々甘かったようだ。
鹿のような牛のような謎の生物から流れ出たであろう血液は、地表に溜まるどころかみるみる内に消えていく。地面に吸い込まれているにしては、勢いが早すぎるのだ。
しかも、この辺りはまだ拓けた土地で、地面の厚みはそれ程でもないはずなのに。
「これもまた吸血種での。狩りの途中で遭遇することがあれば、血抜きを手伝ってくれるいいヤツではあるの」
「それはアグニ殿が知己であるからでは?」
「まあ、そうとも言えるかの」
アグニの爺さんのその言葉は、逆に言えばとても恐ろしい事態を想像させた。
正吾さんたちの支配地域を無断で侵したモノは何であれ、あののような結末を迎えるということを示唆しているのだろう。
今回は偶々、本当に偶々、アグニの爺さんが同行の意思を示したから、このような形に収まっだけだ。それが無ければ、俺や師匠、ライアンも今頃は……。
「これだけあれば……足りるかな?」
「俺たちなら十分ですけど、それは正吾さん次第かもしれません」
俺は正吾さんがどれだけ食べるかを知らない。
俺たちは最近こそ例外はあれど、その前は一日に職で過ごしている。それを思えば、十分な量を確保してもらっているとも言えた。
「私は、ジルバは、まだ生まれたてであるのでね。それほどの食事を必要としないよ」
正吾さんの言った『転生術』という謎の技術を俺は全く知らず。
言葉そのものを捉えるなら生まれ変わっているのかもしれないが、それに関しての知識が皆無であるのだ。
問われたところで、簡易な答えを得られたところで、どうしようもなかった。
「内臓はこの管理個体に与えてほしい。それ以外の肉は私と君たちと消費するとしても、三四日は持つだろう」
「腐らなければ、五日くらいは余裕でしょうね」
ウィン抜きで内臓を食べられるように処理するには、大量の水や小麦粉などが必要になる。それらは到底用意できないのだから、獲って来てくれた管理個体に感謝の意を込めて贈呈したところで師匠すら文句など言わないだろう。
それにウィンが吸い尽くしていない雪はまだまだ存在する。保存に困ることもない。
正直、正吾さん次第だが、肉だけでも十分に食事となるのだ。正吾さんには五日と言ったが、節約次第ではそれ以上の食料として活かし続けることは可能だと思われる。
◇
アグニの爺さん提供の岩塩と師匠の火魔術によって、鹿のような牛のような謎の獣肉は調理された。無論、捌いたのは俺ではなく、ライアンだけど。
俺だとまだどうしても、皮下脂肪だけに刃を入れ綺麗に皮を剥ぐことが出来ないのだ。それが出来るようになるには多くの経験を積むしかないのだろうな。
お陰で防寒具代わりとなる貴重な毛皮を手に入れられたのだから、俺には文句などひとつもない。
「残りの枝肉は儂と小僧が持とう」
アグニの爺さんがそう言うと、正吾さんが管理個体と呼ぶブナの木が枝を揺らし、葉が騒めく。
「そうか、行くか。面倒を掛けたな」
「――ウォーキングツリーだったかよ!」
「じゃから、そう言ったじゃろ?」
「言ってねえよ!」
正吾さんの言葉にのみ反応したブナの木は、数本ある根をまるで足のようにして歩き出した。ライアンの叫びに応答するアグニの爺さんをも無視して。
「この辺りには一定範囲を管理するエントが存在する。この周辺であれば彼が居れば問題にはなるまい。山の裾野まで入り込むことはできない。私であれば、そうでもないがね」
「では、その先に」
「そう、郷がある。ただ、郷には地上から入ることは出来ない。空からしか、ね」
空を気にしていたアグニの爺さん。
その本当の意味が、正吾さんから齎せられた瞬間だった。
「それじゃ、正吾さんも帰れないのでは?」
「私は勝利くんと在ると言ったろう? 君の生がある限りは、私が君を守ろう。但し、限界はある。そのために一度だけ、本当に一度だけ郷に赴いてもらおうと思う」
「一度で済むんですかね?」
「大丈夫、強力な助っ人となる暇人がいるからさ。私もあの人には頭が上がらないんだ」
ライアンは正吾さんを魔力の塊と言っていた。
その正吾さんですら頭の上がらない強力な助っ人を、俺の味方に引き入れてくれるらしい。
同胞ということだけで親切にしてくれる正吾さんに、俺は貰いっぱなしで良いものかと愚考する。




